帰郷 2/7
続きです。全7話中2話目です。
「もうそろそろではないか?」
「うん。結構近くまで来ていると思うよ」
車輪と地面が擦れる音と、馬の蹄の音はとうの昔に聞き飽きた。
芸術の街から首都へ赴き、そこから馬車に揺られること一週間。ジェードとアンバー、そして二人の娘であるサナは屋形の下でのどかな平原を進んでいた。
季節は夏。標高が高く涼しかったアルスアルテの外は、ただじっとしているだけでも汗が滲んできてしまうほどの猛暑に見舞われていた。
肌を焼く日の光は屋形が遮ってくれるものの、その中は熱がこもっていて息苦しくもある。
中にいても外にいても同じくらい不快そうだが、のちのち日焼けが痛むのを避けるためと思えば、この蒸し風呂の中で揺られる方が幾分かよいように思えた。
「久しいのう。プラムの街など何年ぶりじゃろうか」
「十五年と少しくらいじゃないかな。思えば随分長いこと帰っていなかったんだね」
そう、三人が目指しているのは商人の街――ジェードの故郷であるプラムだ。
これまで旅の身の上であったこともあって、ジェードは故郷の家族と連絡をとることはほとんどなかった。
しかしジェードとアンバーが夫婦となり、アルスアルテで暮らし始めてから十五年。定住地を見つけ、ようやくまともな手紙のやり取りができるようになってから、ジェードはしばしば家族へ近況を知らせる手紙を書くようにしていた。
書面での形ではあるが、もちろんアンバーの件も打ち明けた。
プラムを旅立つとき、森の妖狐をお供に連れ出したことも。二人で様々な街を巡ったことも。夫婦の契りを結び、共にアルスアルテで暮らしていることも。そして、ついに念願の娘が産まれたことも。
その返事の手紙にはもちろん、家族の驚きと困惑がつづられていた。一人旅に出たと思っていた息子が、まさか旅のお供に妖狐を連れているなど、普通は想像もしないだろう。
しかし首都の指導者の熱心な取り組みによって、各地では未だ不十分ではあるが尾人に対する偏見が少しずつ改められつつある。
その影響もあってか、妖狐であるアンバーを妻に迎えたことについて家族がまったく反発しようとしなかったのは本当に有難かった。
そんな折、ジェードのもとに故郷の家族から、たまには里帰りでもしたらどうだという旨の手紙が届いた。
ところがこれまでの旅が物語っている通り、アルスアルテからプラムまではかなりの距離がある。ジェードとアンバーはよいかもしれないが、幼い娘が長旅に耐えられるかという点で悩み、ジェードはなかなか返事を出せずにいた。
しかしサナも四歳になり、赤子のときほど手はかからなくなった。
そのためジェードは、息子の妻や孫娘に会ってみたいという両親の強い意思を汲み、こうしてサナを初めての旅路に連れ出すことを決心したのだった。
「うう……なんだか今になって緊張してきたなあ」
「しゃんとしてくれ主様よ。自分の親に会いに行くのに気を張ってどうするのじゃ」
十五年以上も会っていない家族とこれから顔を合わせるというだけで落ち着かないジェード。
小料理屋を営んでいる父の跡を継ぐように言われていたにもかかわらず、彼は反発して家を出た。
当時は快く送り出してくれた父であったが、結局アルスアルテでは似たような職に就いていると知ればどんな顔をするだろうか。考えるとなんだか胃が痛い。
それに対してアンバーの冷静さとサナの無邪気さはジェードにとってうらやましいくらいだ。
久し振りに旅ができる――それも愛娘を連れて三人でとなれば、アンバーが浮き立つのも無理はないだろう。
サナもサナで、アルスアルテを発ってすぐの間は随分はしゃいでいた。今は連日の馬車の旅に飽きてアンバーの膝で眠っているのだが。
「きっと大丈夫じゃ。自分の子の顔を見られることが嬉しくない親などおりはせぬ。わしもサナが産まれてよくよく思い知ったことじゃからの」
アンバーはそう言って、自分の膝で眠るサナの髪を優しく撫でていた。
こうして妻に励まされるような、肝の小さい自分がなんだか夫として情けない。ジェードは思わず自己嫌悪の混じったため息をつきそうになった。
ところがそのとき、サナを撫でるアンバーの手元が目についてハッとなった。
アンバーの細指が、微かにだが震えていたような気がしたのだ。
ひょっとすると見間違いだったかもしれない。それでもジェードは、幸せそうな表情を浮かべる妻が心の奥に仕舞い込もうとしたしこりを感じずにはいられなかった。
アンバーは、自分なんかよりもずっと不安なはずなのだ。
尾人に対する偏見が以前に比べて改善されてきたとはいえ、尾人はまだ完全に社会に受け入れられたわけではない。
妖狐である彼女が、人間である夫の家族と対面することが怖くないはずなどないのだ。
それでも彼女は夫である自分を励ましてくれる。本来なら逆の立場であるべきだというのに。
そう思うとジェードは無意識に、サナの髪を撫でるアンバーの手をそっと握っていたのだった。
「……主様?」
「……やっぱり、僕は君がいないとまるでだめなんだなあ」
アンバーがきょとんとして、大きな空色の瞳を向けてくる。
なんだか目を合わせづらくて、ジェードは目を伏せたままで細く小さな手の体温を握りしめ続けた。
「ありがとう、アン。君のおかげで勇気が出た。だから君も安心して胸を張っていてくれ。誰がなんと言ったって、君は世界でたった一人、この僕が選んだ自慢の伴侶なんだから」
変わらず顔を上げられないジェードだが、隣に座るアンバーが頬を赤らめたのはなんとなく伝わってきた。
少し照れ臭そうにしていたアンバーだったが、少し体温が上がったように感じる細指でジェードの手を握り返すと、そっと一息呟いてみせた。
「……まったく、いつもは呆れるほど鈍感じゃというのに。こういうときだけすぐに気づく主様は本当にずるい」
そう言ってアンバーは、肩を揺らしてほんの少しジェードにすり寄ってきた。
ジェードがようやく視線を向けると、目を細めて恍惚とした表情のアンバーがすぐ目の前まで迫っていた。
それにジェードが微笑み返し、握った手を離さぬままそっと唇を――
「――うーん……?」
――重ねる寸前、膝元から幼い呻き声が聞こえた。
夫婦揃って目を丸くし視線を落とすと、どうやら眠っていたサナが目を覚ましたようだということに気づいた。
「ふわああ……ねえ、まだつかないのー?」
「ああ、ええと、うん……。もう少しかなあ……ね、アン?」
「えっ!? うむ、そ、そうじゃな!」
大きな欠伸をして目を擦るサナを前に、ジェードとアンバーは咄嗟に顔も手も離して平静を装った。
いつから起きていたのだろうかという焦りが夫婦の間に過る。相手が実の娘であるとしても、大胆な接吻を目の前で見られるのはいささか小恥ずかしいものがあるのだ。
「なあんだ、まだなの。じゃあおとーさん、サナといっしょにお絵かきしよ!」
「あはは、いいよ。サナは起きてすぐなのに元気だね」
「ええっ!? ちょっと待ってくれ、今わしが主様と……」
そこまで言うとアンバーは、しまったといった風に両手で口を抑えて黙り込んだ。
何を言おうとしたのか聞き逃し、きょとんとした顔でアンバーを見つめるサナ。それに対してアンバーは「……いや、なんでもない」と答えてしゅんと座り直した。
サナは「ふぅーん」とあまり気にしていない様子だったが、ジェードはなんだか可笑しくて吹き出しそうなのを堪えるのに必死だったのはここだけの話だ。
実の娘に対してやきもちを妬くなど百歩譲っても母親らしくはないが、なんて可愛らしい妻だろうとは思う。
娘の相手が終わったあとで妻も存分に甘やかしてやろうと、冴えない夫はひっそりと胸の奥に決めたのだった。