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帰郷 1/7

完結後の時間軸です。本編のネタバレを含みますのでご注意ください。


全七話あります。

 ――カラン、と小気味よい音が室内に響く。

 それはそれは心安らぐような涼しげな音色であったものの、窓から不躾に上がり込んでくる蝉の声がすぐに取って代わってしまったのは少しばかり残念だ。

 周囲を山に囲まれた盆地に位置するこの街はそれなりに高地であるため、夏が訪れても不快に感じるほどの熱気には包まれない。

 平地に比べて過ごしやすい夏季をこの街で迎えるのも、今年でもう何回目だろうか。そのような取るに足らないことを考えながら、絵描きは蝉の声を聞き流し右手の筆を握り直した。


 溶けかけの氷が入ったグラスは、その下に敷いてあるコルクのコースターがじっとりと濡れるほど汗をかいているように見える。

 しかしそんなグラスとは裏腹に一滴の汗すら滲んでいない絵描きは、仕上げの一筆をそっと持ち上げると満足そうに頷いてみせた。


「……よし」


 ここはとある絵描きの自室兼アトリエで、彼の目の前には一枚の絵画が画架にのせられている。そこには、大きな壁のように列を成す建物に挟まれた大通りを歩く三人の人影が描き出されていた。

 群衆に紛れて歩く人影は、右側が男性、左側が女性。その間には小さな子どもがいて、両隣の男女と片方ずつ手を繋いでいる。

 見ただけで誰もが確信できるだろう――そう、これはとある親子を描いたものであった。


「――ぬしさまっ」


 ようやく一枚の絵画を描き上げると、背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。

 その声に思わず苦笑した絵描き――ジェードは振り返ってその声に応えようとする。しかし彼が口を開くよりも先に、部屋の外の廊下から諭すような鋭い声が割り込んできたのだった。


「これ、サナ! ちゃんと"お父さん"と呼ぶようにといつも言うておるじゃろう!」


「はぁーい!」


 ジェードが視線を移すと、外に洗濯物を干して戻ってきた妻のアンバーと、叱られてもまったく悪びれる様子を見せない幼い少女の姿がそこにあった。

 空になった洗い物の籠を抱えたままで少女を睨みつけるアンバーだが、少女はむしろ嬉しそうにキャッキャと笑ってジェードの元まで逃げてきた。



 そう、この少女こそが、長年ジェードとアンバーが求め続けてきた念願の愛娘――サナだ。



 芸術の街(アルスアルテ)で暮らし始めて今年で十五年目。なかなか子宝に恵まれなかったジェードとアンバーの間に(サナ)が生まれたのは、遡ること四年前の話だ。

 人間であるジェードと妖狐であるアンバーは、夫婦となってからもまるで子どもができる兆しが見えないことを十年もの間嘆いてきた。

 それは種族の違い故なのか、はたまた他の要因によるものなのか。前例もないため理由もわからず途方に暮れていた折、ふと突然アンバーに妊娠の兆候が現れた日には、街中が大騒ぎとなったものだ。


 我が子を身籠ったとわかってから、アンバーはふとしたときにいつも自分の下腹あたりに触れてはうっとりと頬を緩めるようになった。

 腹が膨らみ始める頃には一日中表情が変わらなくなり、まるで笑顔の石膏像のようだったことは、今となっては懐かしくも思える。

 夫のジェードはもちろんのこと、街の仲間たちも懸命にアンバーを支え続けた。そしてついにアルスアルテにとって初の――というより恐らく史上初めて、人間と尾人(ウェーバ)の混血の子どもとして産まれてきたのが、このサナだった。


 サナは人間である父親(ジェード)と妖狐である母親(アンバー)のそれぞれの性質を半分ずつ持って産まれてきた。

 父親似の濃い紺色の髪に、母親似の空色の瞳。頭上にはもちろん妖狐(きつね)の耳があり、腰には尻尾も生えている。

 少々異なっていたのは、耳も尻尾も母親(アンバー)と比べてひとまわり小さいことで、理由としては人間の血が半分流れていることが関係していると考えられた。

 ところが、空腹になったり興奮したりすると耳や尻尾を隠せなくなる純血(アンバー)と違い、混血(サナ)はその気になればいつまででも人間の容姿を保つことができた。


 そして対称的にサナは母親(アンバー)と違い、妖狐(きつね)の姿になることができない体質であった。

 妖狐の特徴ばかり目立っていた中、尾人(ウェーバ)特有の擬態能力が欠如している部分に関しては人間に近いものを感じられる。

 ところがサナは、人間に近い姿でありながら体力や瞬発力、聴覚や嗅覚は人間の領域をはるかに超えていた。器用なまでに人間と尾人(ウェーバ)の性質が共存するものだと、これにはジェードも舌を巻いていたものだ。


「まったく、とんだお転婆になったものじゃの」


 ジェードの部屋(アトリエ)に入ってきたアンバーは、少し呆れたような顔をして小言を漏らしていた。

 本当に誰かそっくりに育ったものだよ、なんて言いかけたジェードだったが、その言葉はなんとなく飲み込んでおくことにした。


 サナは母親(アンバー)父親(ジェード)のことを"主様(ぬしさま)"と呼ぶのがどうにも面白かったらしく、しばしばこうして両親(おとなたち)をからかってくる。

 その度に母親(アンバー)から諭され、その場ではしゃんとするのだが、また忘れたころを見計らって同じように父親(ジェード)をからかいにくるのだった。


「たすけておとーさん! ほっぺたふくらませたおかーさんがこっちにくるよ!」


「あはは、それは大変だね。きちんと謝って許してもらわないと」


「えー。サナはわるい子じゃないよー?」


「そうじゃな。サナは大人をからかうようなとってもとってもよい子じゃものな」


 椅子に腰かけたジェードの膝の上にぴょこんと飛び乗って座ったサナは、上機嫌なのか小さな耳をぴくぴくと動かしている。

 その間に追いついてきたアンバーは、(サナ)の言った通り不満げに頬を膨らませて皮肉を垂れていた。


「わわっ! おかーさんかえるさんみたい! にっげろーッ!」


 母親を蛙呼ばわりしたサナは、ジェードの膝から飛び降りると楽しげな軽い足取りでジェードの部屋(アトリエ)から駆け出して行った。

 そんな愛娘の背中を見送りながら「蛙が膨らませるのは喉だけれどね」なんて呟くと、「気にするべきなのはそこではないじゃろう」とアンバーに額を小突かれたジェードであった。


「主様が甘やかすから、サナも調子に乗っておるのじゃ。たまには主様からもきちんと言い聞かせてやって欲しいんじゃがの」


「あはは……」


 痛いところを突かれたジェードには返す言葉もなかった。

 彼はアンバーに指摘されなくとも、サナに対して自分が甘いことは自覚しているつもりなのだ。

 時には厳しく接することも必要だというのはわかっているのだが、ジェードは母親似の愛くるしい顔立ちの娘を前にするとすっかり絆されてしまうのだった。


 逆にアンバーは母親としての自覚が生まれたのか、お転婆なサナのことをよく見ていた。

 教えた読み書きが上手くできたときには思い切り褒め、悪戯をしたときには厳しく叱る。

 愛情に溢れた母親の鑑とも言える彼女を前にすると、子育てに関してはジェードも頭が上がらなかった。


 しかしそんなアンバーも常に肩肘を張っているわけではない。

 彼女は娘の手前以外――例えばサナが庭で一人遊びをしているときなんかは、今度は自分が甘える番だとでも言いたげにジェードにすり寄ってくる。

 特に娘を寝かしつけたあとの二人きりの晩酌は、今では夫婦にとってとても大切な時間となっていた。


「それで? 今度は何の絵を描いたのじゃ?」


 話が一段落したところで、アンバーはジェードが今しがた描き上げた絵画に興味を持った。

 空っぽの洗い物籠を抱えたままで絵画を覗き込んだアンバーは、その絵を隅々までじっくりと見回してからふむふむと頷いた。


「なんだか見覚えのある景色じゃの。旅の途中で立ち寄った街か?」


「うーん、残念。でも、見覚えがあるっていうのは間違いないと思うよ」


 何か含みがあるようなジェードの口ぶりに、アンバーはうんうんと唸りながら自分の記憶を辿り始めた。

 高い壁のように並び立つ多くの建物。その間にまっすぐ伸びた大通りには通行人や荷馬車が往来している。そしてその真ん中で手を繋いで歩く親子の影――これはジェードとアンバー、そしてサナの姿を表現したものだ。


「……む? というか主様よ。この絵の中にサナがおるのはおかしくないかの? わしら三人で旅に出たことは、まだ一度もないじゃろう」


 アンバーからは当然の疑問が返ってきた。

 妊婦にとって長旅は負担が大きいため、ジェードとアンバーはサナが産まれるまでアルスアルテで静かに暮らしていた。

 サナが産まれてからも幼子を連れて旅をするのは難しく、二人はやはりアルスアルテで子育てに専念せざるを得なかった。

 つまりアンバーがいくら思い出そうとしても、この絵に描かれた光景など記憶にあるはずがないのである。


「うん、そうだね――」


 しかしジェードは、その答えを待っていたとでも言わんばかりに得意げな顔をすると、椅子から立ち上がって自分の机の引き出しを開けた。

 そして彼が引き出しから取り出したのは、小さな封筒に入れられた小綺麗な一枚の便箋だった。


「――だから、これから三人で"ここ"へ行こうと思って」


 そう言って絵画へと視線を落とすジェード。

 その後ろ姿をぼんやりと見つめるアンバーには、彼が何を考えているかなど検討もつかなかった。

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