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絵描きの小さな憂鬱

完結後のお話です。本編未読の方はご注意ください。


アルスアルテ編の仲間たちの再登場もありますよ!

「うーん……」


 厨房に佇み、唸り声を漏らす。

 何やら悩ましい表情をしたジェードは、桶に溜まった水面に映る自分の顔と睨めっこをしていた。

 というのも、特に遊んでいるというわけではない。本人は至って真剣に考え事をしているのだが、傍からはきっとそうは見えないだろう。


「テーブル、拭き上げましたよ、ジェードさん。……どうかしましたか?」


 不意に呼びかける声に顔を上げると、厨房の入口からこちらを見つめる視線が一人分。

 少し心配そうな表情をした彼女に、ジェードは微笑みを返してみせた。


「いいや、何でもないよ。ありがとう、ハーティ」


 その視線の主は灰色の髪の妖狐――ハーティだった。

 彼女は妖狐であるという理由で、ジェードとアンバーがアルスアルテに初めてやってきたその日からずっと付き合いのある人物だ。

 当時はまだうまく言葉を話せず、片言で会話をしていたハーティだが、あれからもう十年が経った。今の彼女は人間の年齢で数えると成人もしているし、何不自由なく会話を行うこともできるようになっていた。


 ハーティは妹のハンナ共々、アンバーのことを実の姉であるかのように慕っている。

 現在は"画廊食堂"なんて呼ばれているジェードの家で、彼女はジェードの弟子兼従業員として料理の勉強に励んでいた。

 そんなハーティは、妊娠してジェードの手伝いがあまりできなくなっているアンバーの代わりに、こうしてジェードの家に毎日のようにやってきては家事や仕事の補助をしてくれているのだった。


「あの、余計なお世話かもしれないんですけど――」


 何やら極まりが悪そうな様子のハーティ。

 彼女が何を言おうとしているのかはわからないが、ジェードはひとまずハーティの言葉を待つことにした。


「――ジェードさん、何か悩んでることはありませんか? 私でよければ、お話聞きますよ?」


 ハーティの意外な一面を見たような気がして、ジェードは一瞬きょとんとしてしまった。

 というのも、ハーティはしとやかで物静かな性格をしており、あまり自分から前に出て何かを言ったりやったりということをあまりしないのだ。

 しかしそんな彼女でも、いざというときに自分の決めた意志を最後まで貫く強さを持っていることは、十年前の首都(カピタラ)との一件で思い知らされたことでもある。

 彼女にそこまで言わせるほど思い詰めた顔をしていたのかと思うと、ジェードもなんだか自分が情けなくなってきてしまった。



 実のところ彼の悩みとは、本当に些細な、くだらないとさえ思うような小さなものなのだ。



 しかし、何度もこくりこくりと頷きながらにじり寄ってくるハーティに、今更なんでもないなんて言っても聞く耳を持ちそうにない。

 ため息をついたジェードは半ば投げやりになりながらも、真剣に自分の力になろうとしてくれているハーティに、その胸の内を曝け出したのだった。




 *****




「……髭、ですか?」


「……まあ、うん」


 やはりハーティは意外そうな反応をした。

 この時点でなんだか小恥ずかしい。彼女にこれだけ心配させておきながら、蓋を開けてみればジェードの悩みの種は自身の"髭"だったのだから、拍子抜けもいいところだ。


「最近、ちょっと髭を伸ばし始めてみたんだ。おしゃれかなって思って。でも、せっかくいい感じに伸びてきたところなのに、アンには剃ってくれ剃ってくれっていつも言われるんだよ。似合っていないのかなあ?」


 そう言うと、ハーティはジェードの顔を覗き込んでふむふむと考え込み始めた。

 彼の顎は昔と違って、今では髭が伸びている。鼻の下に伸びる分は剃っているのだが、顎髭はいつも剃らずに伸ばし続けてきた。

 自分ではなかなかに気に入っているのだが、どうにも妻のアンバーはこれがお気に召さないらしい。


「似合ってますよ。伸ばしてなかったときよりも、ずっと凛々しいお顔に見えて素敵だと思います」


「あはは。ありがとう」


 ジェードは苦笑いしそうになったのを何とか堪えてみせた。

 ハーティの感想はつまり、伸ばす前はまるで凛々しくなかったということなのだろうか。

 しかしそのあたりは自覚しているから何も言えない。

 ひとまずハーティの意見では、それほど悪い印象ではないようだった。




 *****




 家での残りの作業と、部屋にいるアンバーをハーティに任せ、ジェードは買い出しに出た。

 今日はそれほど大きな買い物をするわけでもなかったため、首都(カピタラ)まで行かずともアルスアルテにあるもので間に合った。


「あー! ジェードー!」


 明日の食事の材料や減り始めた画材を買って家に戻る途中、背後から名前を呼ばれて振り返る。

 するとそこには、家で手伝いをしてくれているハーティの妹――ハンナが手を振る姿があった。


「やあハンナ。お買い物かい?」


「うん! ジャッキーに頼まれてお遣いー!」


 ジェードが問うと、片手に荷物を抱えたハンナが嬉しそうに答えた。

 今でこそ普通に会話ができているが、出会った当時のハンナはまだ人間の言葉を話すことも理解することもままならなかった。今では「アー?」やら「アィーッ!」やら奇声を発することしかできなかった頃が懐かしい。


 ハンナは人間の年齢で数えるとまだ成人していないお転婆娘で、育ての親であるジャッキーの元で刺繍を習っている。

 これがまた意外な話なのだが、来客の相手をしなければならないような画廊食堂の従業員を選んだのが物静かな姉のハーティで、繊細な作業のための集中力を必要とする刺繍の道に進んだのがお転婆な妹のハンナだった。

 普通に考えれば逆ではないだろうかと思わされるのだが、彼女らが胸を張って目指したいと思った道ならば大人が余計な口を挟むのは無粋だろうと、ジェードはいつも黙って見守っていた。


「あれー? なんだか今日のジェード弱そう。(なん)かあったー?」


 割と胸に刺さることを言われた気がするのだが、ハンナは悪びれた様子もなく楽しげに笑っているからつい許してしまう。

 というかジェードは、彼女の言う"弱そうな顔"を実際にしているのだろうから、言い返す言葉もないのだが。


 こう言われては仕方がない。

 ジェードはやむなく、ハーティに話した悩みをそのままそっくりハンナにも打ち明けたのだった。




 *****




「あははーッ! そっかあ、髭ねえー」


 そう言ってハンナは、姉のハーティと同じようにジェードの顔を覗き込んできた。

 真剣な面持ちだった姉と比べて、妹は面白半分であるようにも見える。

 やはり姉妹なのだなと感じる一方で、性格の違いが如実に感じ取れるのに少し面白みがある気がした。


「いいんじゃない? アタシは好きだけどなー。キリっとしてパリっとして、ちょっとカッコよくなったよ?」


「あはは、そうかい。ありがとう」


 無駄に擬音が多く、ハンナが何を言っているのか正直よくわからなかった。

 それでも、彼女はジェードの髭に悪い印象を持っているようには見えなかった。

 思ったことはそのまま口に出してしまうような彼女のことだ。似合っていないのならはっきりそう言うだろう。

 似合っていないと思っているのはアンバーだけなのだろうか。ますます謎が深まっていくようで、ジェードもなんだか胸の内がすっきりしなくなってきていた。




 *****




「そんじゃもっかい、乾杯だーッ!!」


 その晩。一度家に帰って荷物を整理したジェードは、アーロンと一緒に酒を飲む約束をしていたこともあって街の酒場を訪れていた。

 飲み始めてから既に数刻。夕餉ののっていた皿はすべて空き、ちまちまとつまみを齧りながら、ジェードとアーロンは互いのグラスに酒を注ぎ合っていた。


「んああ? なんだよ。今日はどうしたんだあ、ジェード?」


 すっかり酒に酔って顔を真っ赤にしたアーロンは、ジェードと強引に肩を組んで何度でも乾杯しようとする。

 いつもならこの流れで、アルスアルテの長の地位を継いでくれだなんだと絡まれるジェード。

 しかしこの日のアーロンはジェードの様子がなんだか違うことに気づいたのか、いつものような絡みをしかけてはこなかった。


 二度あることは三度あるとは、まさにこのこと。

 自身も酒に酔っていたジェードは、ハーティとハンナに話したことを、勢いでそのままアーロンにも打ち明けてしまったのだった。




 *****




「はぁー? 髭だぁ?」


 アーロンの問い返しにジェードが頷く。

 すっかり酔いどれ状態のアーロンの意見がどれほどあてになるかはわからないが、聞かないよりはいいだろうと、ジェードも彼の話に耳を傾けた。


「まあ、てめえは顔が優しすぎっからなあ。確かに伸ばした方が威厳も出て、男前になると思うぞお?」


「でも、アンは剃って欲しいって言うんだよ。似合っていないわけではないと思うんだけれど……」


 アーロンはうーんと唸りながら、自分の顎髭を触って考え込み始めた。

 彼もジェードが髭を伸ばすことについては問題ないと――というよりむしろ伸ばした方がいいと思っているらしい。

 しかしアンバーは似合っていないと思っているようだ。

 どうにも食い違いが生じているようで、ジェードももどかしくて敵わなかった。


「そんなに気にするくれえなら、もう剃っちまった方がいいんじゃねえかあ? 事情とかはよくわかんねえが、なんだかんだ言おうが嫁が笑ってんのが一番いいに決まってんだからよお」


「……うん、そうかもね。ありがとう、アーロンさん」


 なんだか、今日一番のためになる意見をもらえたような気がした。酔いどれだけれど。

 しかしこれですっきりした。ジェードは特に、愛しい人の反対を押し切ってまで髭を伸ばしたいわけではない。少し色気づいただけなのだ。

 ならばもう、あれこれ考えるのは終わりだ。明日の朝目覚めたら綺麗に顎髭を剃ってしまおうと、ジェードはそう決めてアーロンの酒場をあとにしたのだった。




 *****




 その翌朝。昨夜決めた通りジェードは、伸ばしていた髭を剃刀(かみそり)で綺麗さっぱり剃り落とした。

 これだけで少し若返ったような気もするが、若輩者らしさが抜けない顔は相変わらずだろう。


 しかし、それでも構わないのだ。

 例えどんな顔であろうとも、妻であるアンバーが自分を愛してくれることは変わらないのだから。

 そう割り切ってしまえば、昨日まで悩んでいた自分が馬鹿らしくて笑ってしまいそうだった。


 すると不意に、ジェードの両肩に小さな手がかけられた。

 その手の主はそのまま体重をかけてきたかと思うと、背後からひょっこり首を出してジェードの顔に頬擦りしてみせた。


「うむ。やはり髭は伸ばさぬ方がよいのう」


 ジェードが横を見やると、くすりと笑って目を細めた、嬉しそうな表情のアンバーがいた。


「君と違って、街のみんなは似合ってるって言ってくれたけれどね」


「む? 似合っておったぞ? いつもより洒落ておって、顔つきも凛として、主様(ぬしさま)に惚れ直すには十分すぎるくらいじゃった」


「えっ!? じゃあなんで剃って欲しいなんて言ったんだい?」


 ここにきてまさかの事実に、ジェードも驚きを隠せなかった。

 もう何が何だかわからない。あれほど剃って欲しいと言い続けていたアンバーは、似合っていないと思っていたわけではなかったというのだ。

 ならば何故? と当然の疑問が湧き上がる。そんなジェードにアンバーは「簡単なことじゃ」と一言述べると、もう一度彼の顔に頬擦りしてみせた。


「いくら似合っておったとしても、そのせいでわしの肌が真っ赤に腫れて痛むのは嫌じゃからの」


「…………まったく。君って人は」


 たかだか顎髭くらいで悩んでいたのが馬鹿らしい。

 しかしそんな彼と同じくらい馬鹿らしい理由で、彼女はずっと反対し続けていたようだ。


 こんなくだらないところまで似た者同士。

 それがちょっぴり嬉しいなんて思えた二人は、向かい合わせになった互いの顔が小恥ずかしいような気もして、静かに笑い合ったのだった。

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