奇跡の記憶
完結後のお話です。本編未読の方はご注意ください。
街は小春日和。薄い上着を一枚羽織れば十分に暖をとれるような、とても過ごしやすい気候だ。
天気もよく、風もない。これほどの好天に恵まれれば、広場に多くの子どもたちが集まってくるのも必然というものだった。
「さて、今日は何の話をしようかの?」
彼女の物語は、いつも決まってこの言葉から始まる。
子どもたちに囲まれて小さな椅子に腰かけているのは、美しい琥珀色の長髪を輝かせるアンバーだ。
彼女はしばしば広場に子どもたちを集めては、自分の作ったお伽噺を語って聞かせている。
子どもたちが毎回楽しみに聞きに来てくれるのが、彼女の活力となっているのは言うまでもない。
「はいはい! 僕、身体が勝手に踊り出す魔法の笛の話がいい!」
「その話はこの前もしたじゃろう? 今日は別の話にしてくれ」
「じゃあ、勇敢な騎士様と意地悪な熊の話ー!」
「うむ。それならよいじゃろう。昔々――」
飛び抜けて元気がいい男の子の提案から、アンバーはお伽噺を語り始めた。
彼女の話が始まると、子どもたちは皆目を輝かせてアンバーの声に耳を傾ける。
初めの頃はぎこちない語り口調のアンバーだったが、語り部としての姿がすっかり板についた今では大きな身振りで表情豊かに物語を口にしている。
そんな微笑ましい光景を少し離れたところに座って見ているのは、この語り部の夫であるジェードだった。
彼は楽しそうにお伽噺を語るアンバーとそれに聞き入る子どもたちの姿を、一枚の紙の上にせっせと描き出していく。
十年ほど前にアルスアルテを救うため、アンバーの姿を描こうとしたもののそれができなかったのが、今では懐かしくも思えた。
この十年の間に、ジェードもアンバーも歳を取った。
それに伴って変わったことと言えばジェードは髭が伸びるようになったくらいなのだが、時の流れをより感じさせるのはアンバーの変化だった。
童顔だった彼女はその面影を残しつつも、誰もが思わず振り向くような美貌を持つ大人の女性へと成長した。
無邪気で子どもっぽかった性格もやや落ち着き、街の仲間や子どもたちからもよく慕われている。
ただ、家で夫と二人きりになると、まるで昔に戻ったかのように甘えん坊になるものだから、それが彼女の可愛らしい一面でもあった。
ジェードとアンバーはアルスアルテで暮らしながらも、しばしば二人旅に出て留守にすることも多かった。
その期間は数日だったり、数週間だったり。街の仲間たちはその度に少し寂しそうにしているのだが、ジェードが旅先で描いた絵を見せてもらうことや、土産話を肴に酒を飲むことを皆楽しみに待っていた。
この仲睦まじい旅好き夫婦は、今ではすっかり芸術の街にとってなくてはならない存在だ。
町長のアーロンは「次の長はてめえだ!」なんて言って、酒の席でいつもジェードに絡んでくる。
街の長が頻繁に留守にするわけにはいかないから、そもそも若い自分には務まらないからと、ジェードは何度も断り続けていたが、頑固者のアーロンはまるで引き下がろうとはしない。
アンバーには「主様はそのうち根負けして引き受けてしまいそうじゃの」なんて言われ、ジェードはよく笑われていた。
本当にいろいろなことが変わった。
しかしその中でも群を抜いてジェードの胸に刻まれている変化がある。
あの日のことは、きっと今後も一生忘れることはないだろう。
*****
それはある冬の日のことだった。
大衆向けの小説に挑戦するのだと意気込んでいたアンバーが、最近はどうにも筆が進んでいないことをジェードは心配していた。
物語を書くことをあんなにも楽しんでいた彼女が少し懐かしくも思える。
その不安要素となっているのが何であるかは、ジェードも痛いほどよくわかっていた。
「……なかなか、うまくいかぬのう」
寒い夜更け。
二人きりの晩酌を終え、床に就こうというときに、アンバーがか細い声で呟いた。
それに対してジェードは何も答えてやることができなかった。
代わりにジェードが背中からそっとアンバーを抱きしめてやると、彼女は肩を抱くジェードの手を握って深く息を吸った。
アンバーの抱く不安――それは、二人が夫婦となってもう十年が経つというのに、未だに子ができる兆しが見られないことだった。
人間と尾人の番など前例はなく、原因は不明。
子どもが欲しいという二人の夢は、すぐ目の前であるようでなかなか掴むことができずにいた。
「……大丈夫だよ。僕らならきっと」
「うむ……わしだってそう思いたいのじゃが……」
酒が入っているせいか、この夜のアンバーは随分としおらしかった。
もしかすると、これが彼女の本音なのかもしれない。
これまでずっと平然と振る舞っていたが、胸の奥では言いようのない不安が渦巻いて苦しかったのだろうか。
「……もしかすると、妖狐と人間ではやはり――」
「――アンバー。それ以上はいけない」
抱きしめる腕をぎゅっと強めて、ジェードがアンバーの言葉を遮る。
その言葉を言わせたくはない――言わせてはならない気がしたのだ。
ジェードの腕も微かに震えていた。
彼も同じ不安を感じているのだと、アンバーもそのとき思い出して泣き出しそうになってしまった。
ジェードの手を握り、それをぐっと堪えたアンバーは、小さく一言「……そうじゃな。すまぬ」と呟いてみせた。
「じゃあ、もう寝よう」
そう言ってジェードは腕を解き、振り向いたアンバーとキスをした。
翌朝、ジェードが目覚めると隣にアンバーはいなかった。
彼女が自分より早く目覚めるとは随分珍しいなと驚きつつも、ジェードは顔を洗いに行こうと立ち上がり、寝室を出た。
「……む、起きたか主様」
「おはよう、アン。どうかしたのかい?」
冷え込む廊下で、ジェードはアンバーとすれ違った。
彼女の顔は少し青ざめていて、見るからに体調が悪そうだった。
「うむ……なんだか腹の調子が変での。むかむかして、少し気分も悪い」
「二日酔いかな? でも、昨晩はそんなにたくさん飲んではいなかったと思うけれど」
ジェードはひとまずアンバーを連れて寝室へ戻った。
椅子に座らせ、ジェードが背中をさすってやると、彼女はゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
「うーむ……少し吐き気もする……」
「大丈夫かい? あとで薬屋にでも行ってくるよ。何か食べられそう?」
ジェードが尋ねると、アンバーは座ったままうーんと考えこんでいた。
何か胃腸に優しくて食べやすいものでも作ってやろうかとジェードが考えていると、アンバーは意外な言葉を返してきたのだった。
「ならば主様、何か果物はないか? 蜜柑でも柚子でもなんでもよい。酸っぱいものが欲しいのじゃが」
「えっ? それって……」
昔、森に棲んでいたころのアンバーは果物を食べることもあったと聞いている。
しかしジェードと旅に出てからは、彼女はしっかりと調理された人間らしいものを好んで食べることが増えていった。
果物なんて求められたのは随分久し振りだ。というか、これまでそのようなことがあったかどうかもはっきりと覚えていない。
明らかに普段と違う嗜好を示したアンバーに、ジェードはある予感を覚えずにはいられなかった。
「アンバー……それは多分――」
不意に手を握られたアンバーが目を丸くした。
ジェードの表情は真剣そのもので、それがまたアンバーの困惑をいっそう高めていた。
「――多分、お腹に子どもがいるから、なのかも」
アンバーの様子を見て、ジェードは思い出した。
昔読んだ本に、そう書いてあった気がする。個人差はあれど、妊娠の初期には胃腸の調子が悪くなったり吐き気をもよおしたり、食の好みが変化したりする場合があると。
ジェードの言葉を聞いて、アンバーはきょとんと固まってしまった。
にわかには信じられないといった様子だが、そのまましばらく沈黙したあとで、彼女の瞳からは一筋の涙が零れ落ちた。
「……本当、か……?」
震える声で、やっとアンバーがそう言った。
ジェードは彼女の手を強く強く握りしめたままで、何度も何度も深く頷いてみせた。
「きっとそうだよ。そうに決まってる! ありがとうアンバー! よく頑張ったね……!」
感極まったジェードは、思わずアンバーを抱きしめた。
アンバーが少し遅れてジェードの背に手を回すと、彼女の肩が小刻みに震え始めたのがわかった。
「やっと……やっと叶ったのじゃな……! 本当に……本当に……!」
そのまま二人はしばらく動けなかった。
このときを何年待ち望んでいたか。二人で追いかけてきた夢が、近くにありながらなかなか手が届かなかった夢が、こうして今現実のものとなったのだから。
「――おっと、果物だったね。少し待っていてくれ。すぐに持ってくるから」
そう言ってジェードは、椅子に腰かけたままのアンバーを残して寝室を出ていった。
まだ実感が湧かないアンバーはそのまま呆然と座っていたが、一人ぽつんと部屋にいるのもなんだか物寂しくて、少し遅れてジェードを追った。
廊下を歩いていると、厨房の方から包丁とまな板が当たる音がした。
ジェードが何か果物を切っているのだとすぐにわかったアンバーは、音のする方へそっと足を進めていく。
そして厨房に辿り着くと、彼女に気づいていない様子のジェードの背に、アンバーはまたそっと抱き着いたのだった。
不意を突かれて驚いたジェードの手が止まる。
そのようなことはお構いなしに、アンバーはジェードの背に顔を埋め、匂いを嗅ぐように深く息を吸い込んだ。
厨房に漂う柑橘系の匂いと、愛おしい彼の匂い。
鼻孔の奥をくすぐられるような感覚が、このときのアンバーにとっては心地よくて敵わなかった。
「……アン。包丁を扱っているから危ないよ」
「……うむ……ちょっとだけ」
そう言って甘えるアンバーの言葉に、ジェードはやれやれと息をついた。
包丁を置き、空いた手で自分の腰を抱くアンバーの手を握ると、彼女の腕がさらにぎゅっと強く抱きしめてきた。
ジェードの背中に当たる小さな体温が、たまらなく愛おしく感じる。アンバーもまた、先程までの気分の悪さがいつの間にかすっかりと消え失せていた。
「……主様」
「うん」
「……主様」
「うん」
「…………ありがとう、主様」
「こちらこそありがとう、アン」
山の盆地の小さな街の隅っこ。
二人にとっての最大で最高の奇跡は、凍てつくような冬の朝を忘れさせるほどの大きな熱を伴って、貴き愛を深く深く包み込んでみせたのだった。
*****
「――主様よ」
ハッと気がつくと、座り込んでいるジェードの前には愛しの妻――アンバーが立っていた。
周囲には子どもたちが今日のお話の感想をあれこれ語りながら家路についているのが見える。
一人で思い出に浸っているうちに、いつの間にかアンバーのお伽噺も終わってしまっていたようだ。
「何をぼうっとしておるのじゃ? 具合でも悪いのか?」
「いいや、そんなんじゃないよ。ただ――」
結局、手元の絵は描きかけのままでまったく進展しなかった。
しかし、それでもいいかとジェードはあっさりと割り切ってしまうことができた。
自分を見下ろし、首を傾げるアンバー。
愛おしく愛くるしい表情の彼女に向けて、ジェードは何の含みもなく、一言呟いた。
「――ただ、幸せだなあ、って思って」
彼の言葉に、アンバーも満足げに微笑んで見せた。
子どもたちも解散し、すっかり静かになった広場の隅。
画材を鞄に片づけたジェードは、立ち上がってアンバーに手を差し出した。
「それじゃあ、家に帰ろう」
「うむ」
手を繋ぎ、溶け落ちそうなほどに頬を緩ませたアンバーと共に家路につく。
握った手は決して離さぬように、隣を歩くアンバーを支えるように、一歩一歩を慎重に歩くジェード。
そんな彼の手をぎゅっと握り返し、大きく重く膨らんだ腹を抱えながら、アンバーはゆっくり、ゆっくりと前へ進んでいったのだった。