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二つの証と夢みた景色

完結後の時間軸です。本編未読の方はご注意ください。

 冬ももうじき終わる。

 吹き付ける風はまだ冷たいけれど、街に積もっていた雪はとっくに消え去り、日差しは徐々に暖かさを増してきた。


 寒いうちは閉め切っていた窓を、久し振りに全開放してみる。今日は雲一つない晴天だ。

 まだ午前中ということもあって、予想通り風は少し冷たい。けれどそんな風にも、春の訪れを感じさせる野花の香りが混じっていて、どこか清々しい気持ちになれる気がした。


「ほほう。良い天気じゃのう。サナが朝からはしゃいでおるわけじゃ」


 外で駆け回っている一人娘――サナの様子を眺めていたジェードは、背後から不意に聞こえた声に振り向いた。

 つい先ほど目が覚めたのだろうか、嬉しそうに近づいてくるのは、彼の妻である妖狐のアンバーだ。


「そうだね。今日という日にぴったりな、いい天気だ」


 おはようの挨拶の代わりに、ジェードとアンバーは軽いキスを交わす。

 しかしそのあとで、アンバーはジェードの言葉に疑問を持ったのか可愛らしく小首を傾げた。


「はて、今日はなにかあったかの?」


「あはは、君は毎年忘れているね」


 ジェードに笑われても、アンバーはやはり何のことかわかっていないようで、大きな琥珀色の耳をぴくぴく動かしながら思案している。

 そんな彼女が答えに辿り着く前に、ジェードは自分のポケットから小さな箱を一つ取り出してみせた。


「今日は、僕らが夫婦の誓いを交わした日だよ。十五年前に、この家の前でね。覚えているだろう?」


「おお、もうそんな季節か」


 妖狐であるアンバーは人間のジェードと違って、暦というものに無頓着だ。

 春夏秋冬の四つの季節を繰り返している、くらいにしか考えていない彼女は、もはや自分の年齢すらまともに数えていない。

 それは人間と妖狐の価値観の違い故なのだが、ジェードにとってはそれがまた彼女らしさであり、"変わり者"夫婦である自分たちらしさであると思っている。

 

「それで、その箱はなんじゃ? 今日という日と関係があるのか?」


 アンバーの問いに、ジェードはよくぞ聞いてくれたと言わんばかりの表情を浮かべる。

 そして彼は、その中身をアンバーにはっきりと見せつけるように、手にした小箱をゆっくりと開いてみせた。




 箱の中身は、綿に食い込ませるように固定されている装飾品――その直径以外はまったく同じ作りになっている、二つの指輪だった。




「実は、君に内緒でこっそりお金を貯めていたんだ。今更だとは思うけれど、どうしても君にこれを贈りたくて」


 指輪を茫然と見つめているアンバーに向けて、ジェードは照れ臭そうに笑った。

 するとアンバーもつられてパッと笑顔を咲かせ、「綺麗じゃ!」と嬉しそうに尻尾を振り始めた。


「聞いたことはないかい? 人間は結婚するとき、夫婦の証として同じ指輪をするんだ、って。まあ、本当は求婚するときに渡すのが普通なんだけれど、遅くなってしまってすまないね」


「ほう、そうじゃったのか。しかし遅くても別によいではないか。いつ渡されようとも、わしと主様(ぬしさま)の契りが変わるわけではないのじゃろう?」


「あはは、そうだね。本当に君らしい答えで安心したよ」


 夫婦の誓いを結び、この芸術の街(アルスアルテ)で暮らし始めた当初は、旅人という生き方をしてきたこともあってとても結婚指輪などを用意できる経済状況ではなかった。

 ジェードはずっとそのことを気にしていたのだが、妖狐であるアンバーにとっては極々些細な問題に過ぎなかったらしい。


「それじゃあ、アン。左手を出してごらん」


 小さい方の指輪を摘んだジェードが、そっとアンバーの手を取る。

 そしてすらりと長く伸びた彼女の細い薬指に、そっと指輪を通してやった。

 少し心配していたが、大きさもぴったり。彼女の白い指に映える薄い金色の輝きは、これを選んだ自分の感性に間違いはなかったのだと自負したくなるほど美しかった。


「では、主様にはわしがつけてやろう」


「ああ、いや、僕はつけないよ」


 ジェードから指輪を贈られ、頬を桜色に染めて喜んでいたアンバーの提案を、ジェードは少し申し訳なさそうに断った。

 アンバーは一瞬拍子抜けした顔で固まってしまったが、すぐに頬を膨らませて抗議の視線を向けてきた。


「どうしてじゃ? この指輪は夫婦の証なのじゃろう? なのに主様はつけたくないというのか!?」


「違うよ、そうじゃないから! 話を聞いて!」


 未だ不満そうな表情のままのアンバーは、言い訳くらいは聞いてやる、と言わんばかりの様子。

 極まりの悪い視線を受けながら、ジェードはポケットからさらに別のものを取り出した――両端に留め具のついた、細い鎖だ。


「ほら、指につけると絵の具なんかですぐ汚してしまうからさ。僕はこうすることにしたんだよ」


 そう語りながら、ジェードはもう一つの指輪を鎖に通してぶら下げる。

 それを見てアンバーも彼の考えに気づいたのか、不満そうな表情がいつの間にか和らいでいた。


「君が留めてくれるかい、アンバー?」


 くるりと背を向けて屈んだジェード。

 その様子を見て嬉しそうに「うむ!」と笑ったアンバーは、指輪が通った鎖を彼のうなじのあたりでしっかりと留めた。

 再びジェードがアンバーと向き直ると、彼の胸元には妻と同じ薄い金色の光がシャラシャラと音を立てて揺れていた。


「これでお揃いじゃな、主様!」


「ああ。僕とお揃いだ」


 二人でにこにこ笑いあっていると、アンバーはもう我慢できないといった風にジェードの腕に飛びついた。


「おとーさん! おかーさん! すごいよー! はやくきてきて!」


 家の外で一人遊びしている娘のサナが呼んでいる。

 彼女は何か珍しいものでも見つけたのか、芝生を指さしながら興奮気味にぴょんぴょん跳ねてこちらを見ていた。


「どうしたのじゃ、サナ? 何を見つけたのじゃ?」


 先ほどジェードが開け放った大窓から、娘に呼ばれたアンバーが外へ。

 ジェードもそれに続こうと歩き出したとき、彼はあることに気が付いて息を飲んだ。


 我が家の正面にある、一番大きな窓。

 完全に開け放ったこの窓から見えるのは、家の建つ小高い丘の頂と周囲に広がる森、そして丘の麓に見える芸術の街(アルスアルテ)の中心街。その景色はまるで、額縁に入った巨大な風景画であるかのように思えるのだ。

 そしてその"絵画"の中には、愛しの妻と娘の姿がある。その光景を前にして、ジェードはとある過去を思い起こしていた。


 それは、ジェードとアンバーが夫婦となる前――二人が初めてこの芸術の街(アルスアルテ)を訪れた時のことだ。

 尾人(ウェーバ)に対する偏見を改め、この街を護るために、ジェードは愛する者の最も美しい姿を描こうと挑んだ。

 しかし最終的にそれは叶わなかった。なぜなら彼の愛する者――アンバーの最も美しい姿とは、自分(ジェード)の隣で生き、そのことに幸福を感じているときの姿だと気づいたからだ。

 だから彼女の姿だけを描いても、それは最も美しい姿などではない。自分が描き手である以上、ジェードはアンバーの最も美しい姿を描くことなどできはしないと思っていたし、それでいいと思っていた。


 しかし、額縁(まど)の枠の中にいる妻と娘の隣に、自分が加わったならどうだろう。

 自分では決して見ることは叶わない。それでも、きっと我が家の中からこの窓の外を眺めたとき、その"絵画"にはきっと、幸福を噛みしめる夫婦と娘の最も美しい姿が描き出されているのではないだろうか。



 やっと、完成させることができる。

 ようやく、辿り着くことができる。

 愛する者たちの最も美しい姿を、僕はついに描くことができるんだ。



 きっとその"絵画"は、巡る季節によってさまざまな顔を見せてくれる。それでも、自分も"絵画"の一部である以上は見ることなどできはしない。

 けれどそれでよいのだ。見ることは叶わなくても、完成を確信することさえできれば――愛する妻と娘の隣にいられれば、それだけで彼は満足なのだから。


「何をしておるー? 主様も(はよ)うーッ!」


 ハッと我に返ると、妻のアンバーが手を振ってジェードを呼んでいた。

 娘のサナはひらひら飛んでいる蝶を追いかけて、芝生の上をちょこちょこと駆け回っている。


「うん。今行くよ」


 もう一度、大窓を見つめる。

 今から自分もこの"絵画"の中に加わるんだと意気込んで、ジェードも窓の外へと足を踏み出した。


「のう、主様。気づいておるか?」


「ん? 何にだい?」


 蝶にはもう飽きたのか、今度はバッタを追いかけるサナを微笑んで見つめていると、アンバーが何かを問うてきた。

 サナを見守りながら芝の上にジェードが腰を下ろすと、アンバーもそれに続いて彼の右側に座った。


「ほれ、(うち)の正面にある一番大きな窓じゃ。あの窓から外の景色を眺めるとな、まるで額に入った大きな絵のように見えるのじゃよ。じゃから外におるわしらはきっと、家の中からはその絵の中におるように見えるのじゃぞ」


 そんな妻の何気ない言葉に、ジェードは思わずハッとなった。

 別に彼女に話したわけでもなんでもないというのに、今の彼女が語ったのは、つい今しがたジェードが感じていたこととまるで同じなのだ。




 こんな偶然がありえるだろうか。


 いや、決して偶然などではないだろう。




「主様はずっと、これが(えが)きたかったのじゃろう?」


「ああ、そうさ。これこそが、僕が本当に(えが)きたかった(もの)だよ」


 満足げなジェードの言葉に、アンバーは歯を見せてニッと笑った。

 そっと握り合わせた彼女の手から、ツンと冷たい指輪の感触が伝わってくる。

 アンバーは手を握ってもらえただけだというのに本当に幸せそうで、それがまたジェードを幸せな気分にさせた。


 同じものを見て、同じことを考え、同じように美しいと感じる。そんな妖狐らしからぬ感性のアンバーを見ていると、ジェードはこのように思うのだ。




 ああ、だから僕は、彼女のことがこんなにも好きなんだろうな、と。





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