湯けむりと銀世界の宿
完結後の時間軸です。
本編未読の方はご注意ください。
エイプリルフールで散々遊んだ前回の口直し!笑
子どもの頃は本の中にしか存在しないと思っていた、一面の銀世界。
今この街は、地面も木々も建物も、すべてが眩しいほどの雪化粧で輝いて見える。空を見上げても変わり映えのしない白一色だ。
顔の半分をマフラーで覆っていても、それを嘲笑うかのような冷たい風が首元を吹き抜ける。意地悪な北風に身が震えるようで、ジェードは天を仰いでいた首を下ろして再び俯きながら歩みを進めた。
「すごーいッ! まっしろーッ!!」
ジェードが歩む先には、道幅いっぱいに大量の足跡を残しながら縦横無尽に駆け回る彼の一人娘――サナの姿がある。
高地に位置する芸術の街でも雪は降るため、この景色はサナにとってそれほど珍しいものではないはずなのだが。
「サナ、あまりはしゃぐでない。転んでしまうぞ」
ジェードの隣を歩くアンバーが呆れ気味に諭してみせる。
しかしアンバーの言葉が終わるのが早いか遅いか、サナは凍った地面で足を滑らせ、降り積もった雪目掛けて顔から突っ込んでいった。
「わあッ! サナ!?」
肝を冷やしたジェードとアンバーが慌てて駆け寄る。
しかしサナは自分から立ち上がると、両親に向けて満面の笑みを咲かせてみせた。
「びっくりしたー! つめたいッ!! あははは!」
「僕らの方がびっくりしたよ……」
顔中についた雪を母親に払ってもらうサナを見て、ジェードがほっと胸を撫で下ろす。
アンバーに「言うたそばから何をしておる……」なんて呆れられても、サナはけらけらと楽しげに笑ってみせた。
「でも、ちょうど目的地に到着だ」
そう言ってジェードが持ち上げた視線の先には、煙突からもくもくと煙が立ち上る建物。
大きな火山の絵が彫られた懐かしい看板がかかったこの建物は、この街で最も人気があると有名な宿屋だ。
今回の旅で三人が訪れたのは、活火山の麓に位置するバーデンと呼ばれる街。
かつてジェードとアンバーが旅の途中で立ち寄った、湯の街である。
*****
「こんにちはーッ!」
「おっ? こんちは。元気な挨拶だなー」
宿の中へ駆け込んでいったサナが、番頭の女性に声をかける。
金髪を刈り上げて男性のような外見の番頭は、男勝りな口調でサナを出迎えてみせた。
「わあ。おねーさん、なんだか男の子みたいな頭してるね」
「ほう。嬢ちゃん、一目でアタシがお姉さんだってわかったのか」
「わかるよ! だっておねーさんはおっぱいおっきいもん! おかーさんよりもずっと!」
「ハハハッ! 母ちゃんの前でそれ言っちゃダメだかんな。怒られても知らねーぞ?」
思わず仰け反って笑いながら番頭の女性が答える。
すると宿の入口の方から「サナ! 聞こえておるからな!!」とアンバーの声がして、サナは舌をぺろりと出してみせた。
「まったく。入る前に雪を落とさねばだめじゃろう」
遅れて宿に入ってきたアンバーに諭されたサナは、ようやく自分の歩いてきたあとが雪やら水やらで濡れていることに気づいた。
「わッ!? 床がびしょびしょ! おねーさんごめんなさい……」
「ハハッ! 気にすんな。掃除すんのも仕事の内だからよ」
「済まないね、余計な仕事を増やしてしまったみたいで」
「いーってことよ。んなことより、外は寒かっただろ? 早くうちの自慢の、湯に……?」
申し訳なさそうに頭を下げるジェードと目が合った瞬間、番頭の女性は目を丸くして黙り込んだ。
そのまましばらく沈黙。サナが不思議そうに見上げる横で、ジェードは少し照れ臭そうに頬を掻いた。
「……なあアンタ、もしかして……ジェードか?」
「あはは。うん……久し振りだね、エヴァ」
「だよなッ!? やっぱりジェードだよな!! てことは隣にいんのはアンバーか!?」
「ふふ。その通りじゃ」
ようやく状況を把握したのか、金髪の番頭――エヴァが思わず番台から身を乗り出して目を輝かせた。
こうして顔を合わせるのは十数年ぶりだが、ありがたいことにエヴァは二人のことを覚えてくれていたようで「懐かしいなあー!」なんて騒いでいた。
*****
「そっかあー。アンタら結婚してガキまで産んでたとはなあー。アタシもババアになるわけだ」
「ババアって……まだそんな歳じゃないだろう?」
部屋よりも温泉よりも先に、ジェードらは宿の食堂に入ってエヴァと語らっていた。
重要な来客だと騒いで他の従業員に番台の仕事を押し付けていたエヴァの姿に、少し罪悪感が湧いてくる気もしたジェードだった。
「ったく、来るなら来るって手紙でも寄こしてくれりゃいーのに」
「それでは面白くないじゃろう。せっかく行くなら主をびっくりさせてやりたくての」
「ホントにびっくりしたっての! 寿命縮んでたら化けて出てやるかんな!」
悪態をつきながらもエヴァは随分嬉しそうにしている。
まだ旅人だった頃のジェードとアンバーがこの宿を訪れたときは、源泉からの湯が途絶えていて温泉宿としての運営が困難な状況だった。
そのため宿泊客は他におらず貸し切り状態だったのだが、今この食堂には宿泊客たちが遅めの昼食をとっていたり酒を飲んでいたりで賑やかだ。
そのとき、ふと何かに気づいたのかアンバーが視線を動かした。
彼女が見ているのは、離れた席で酔い潰れている一人の中年男性。アンバーが少しの間その男性を見つめていると、エヴァはそれに気づいたのか「あー、あのおっさん?」と話題を変えてきた。
「隣町に住んでるらしくてな。うちの宿を気に入ってくれてて、最近よく来るんだよ。……んでここだけの話、あのおっさん、実は最近話題の"尾人"ってやつなんだと」
顔を寄せて小声でそう述べたエヴァ。それを聞いてアンバーは「やはりか」とひっそり呟いていた。
ジェードはまるで気づかなかったが、自身も尾人であるアンバーは、尾人の擬態を一目で見抜くことができる。相手が自分と同類であるかどうかが、尾人同士ならば直感的にわかるというのだ。
このことは芸術の街では常識だが、実は他の街ではあまり知られていないらしい。
「ここの温泉には尾人もよく来ているのかい?」
「さーな。普段は人に化けてっから見分けなんかつかねーし。あのおっさんは酒の勢いで教えてくれたけどよ」
「へえ……」
長話に飽きたのか、サナは椅子に座ったままいつの間にか眠ってしまっている。
そんなサナは寝かせておくことにして、ジェードとアンバー、エヴァの三人はさらに話を続けた。
「ちょっと前まで"物の怪"なんて呼ばれてたしな。あんま正体晒したくねーんだろ。この街にもまだ"尾人お断り"って温泉宿があるくらいだし」
「それはつまり、この宿は違う、ということかの?」
恐る恐る、といった風に尋ねたアンバーの心情はジェードにもなんとなくわかった。
エヴァはまだアンバーが妖狐であることを知らない。尾人への偏見が完全になくなったわけではないこの世の中で、これが繊細な話題であることは間違いないのだ。
しかしそんなアンバーの不安をよそに、エヴァは「おーよ!」と笑顔を浮かべてみせた。
「特に害があるわけじゃねーんだろ? だったら別にいーじゃねーか。だってよ、バーデンの湯は世界の宝だぞ? 人間だろーが尾人だろーが、みんな浸かりてーに決まってんだ。それを断んなきゃなんねー理由なんか、少なくともアタシにはねーよ」
エヴァの言葉にジェードもアンバーも思わず固まってしまっていた。
未だ各所で尾人への偏見が残っている中で、彼女のようにあっさりと考え方を変えることのできる者は少ない。
さばさばした性格のエヴァらしいと言えばそうなのだが、なんとも良き友に恵まれたものだとジェードは胸が温かくなった。
「あーでも、たまにいんだよなー。尾人と同じ湯になんか浸かれるかって嫌がるヤツ。そーいうヤツらは例外なく、嵐だろうが吹雪だろうが問答無用で追い出してやるんだ。――――それが例え命の恩人だろーと、な」
愚痴でも零すように語っていたエヴァの口調が、急に威圧的に変わる。
彼女は火山で遭難した際にジェードに助けられてから、彼のことを命の恩人として見ているらしい。
鋭い眼光で睨むエヴァの言わんとすることはわかる。しかしジェードは臆するどころか、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「……なら、僕らは何も心配いらないね」
ジェードが隣に視線を向けると、アンバーと目が合った。
そして二人が嬉しそうに頷き合う様子を見ると、エヴァは少し困惑するような表情を浮かべた。
「おい、なんだよ? なに二人でニヤニヤしてんだ。アタシなんか変なこと言ったか? いちゃいちゃしてねーで教えろよ、なんだよ!?」
「ごめんごめん。それじゃあ、お望み通り教えてあげるよ」
ジェードが再びアンバーに向けて頷くと、それを合図にアンバーが自身の頭をそっと撫ぜる。すると彼女の頭上には、琥珀色の毛に覆われた大きな妖狐の耳が姿を現した。
「は? ………………はああああーーッ!!??」
思わず立ち上がって叫び声を上げたエヴァに、食堂中の視線が集まる。
アンバーは反射的にもう一度耳を耳を隠し、ジェードは「声が大きいよッ!?」とエヴァを宥めた。
「今の、だって、耳だろ?? てことはなんだ? アンバー、アンタ実は尾人だったのか!?」
「うむ、その通りじゃ。わしは人間ではなく、妖狐じゃぞ」
「ちょっと待ってくれよ。いつからだ? てことは、前にうちに来たときもそうだったのか!?」
「ふふふ。人間がいきなり妖狐になるわけがないじゃろう? 変なことを言うでない」
「誤解されないように予め言っておくけれど、僕は人間だからね?」
理解が追い付かず錯乱するエヴァの様子はあまりにも滑稽だった。
騒ぎでサナが起きてしまわないか心配にはなったが、彼女はまるで反応を示さなかった。むしろそれはそれで心配だが。
「アンタらは……何回アタシをびっくりさせりゃ気が済むんだよ……。冗談じゃなくホントに寿命縮まるぞ……」
「ごめんよ。当時はまだ、アンの正体を明かすわけにはいかなかったものだから」
「まー、だろーな」
尾人も受け入れる宿の経営者とあって、エヴァは理解が早くて助かる。
短く髪を刈り上げた頭を掻くエヴァも、今はようやく落ち着いたようだ。
「てことは……サナっつったか? その子は人間と尾人の混血ってことだろ?」
「そうじゃ。わしより小さめじゃが耳も尻尾もついておる。本当に可愛らしいぞ、サナは」
「いや、親馬鹿の惚気が聞きて―わけじゃなくてよ」
頬を赤くして嬉しそうに語るアンバーは、エヴァに突っ込まれてムスッとしてしまった。
そんなアンバーをまあまあと宥めるジェードだったが、エヴァはまるで気にする様子もなく話を続けた。
「そっかあー。人間と尾人が結婚してガキまで産んだのかあー。うまく言えねーけど、アンタらってやっぱすげーんだな」
「別に大したことではないぞ。わしらにとっては普通のことじゃ。のう、主様」
「あはは、まあ、ね」
そう言って笑うアンバーに、ジェードも優しく微笑み返す。
このときテーブルの下で二人がこっそりと手を握り合っていたことなど、向かい合って座るエヴァには知る由もない。
「コラーッ! いちゃいちゃしてんじゃねーッ! 食堂の飯が甘くなったらどーしてくれんだ!!」
「あはは。そうなったときは、また僕が代わりに厨房に立ってあげるよ」
「お断りだ! 余計に飯が甘くなっちまいそーじゃねーか! 客は黙って風呂に浸かってやがれ!!」
「そうじゃな。わしらもそろそろ湯浴みに行くとしよう」
サナを起こし、ようやく席を立つ。
最後には散々暴言を吐きつつも、きちんと浴場まで案内してくれるエヴァの仕事ぶりは、さすがと言いたいところだがどこか滑稽だ。
「重ね重ね言っとくが、うちの宿の湯は尾人も受け入れてる。湯船に抜け毛がびっしり浮かぶのは困っちまうが、それさえ気を付けてくれりゃー断る理由はねーからよ」
「ふふ。ならばわしもサナも安心じゃの」
この宿の湯は、昔ジェードとアンバーが訪れたときから変わらず混浴。
他の客の中にも尾人が紛れているかもしれないが、これはジェードらにとってはもちろん気に留める必要のないことだ。
「それじゃあエヴァ、またあとで」
「おう。のんびりしてこい」
去り際にジェードが一言。
浴場へ消えた三人を見送ったエヴァは、颯爽と振り返って仕事に戻ろうと歩き出した――
「そうじゃ、エヴァ!」
――そんなエヴァを呼び止める声が背に刺さり、歩みが止まる。
振り返るとそこには、空色の瞳をキラキラと輝かせてエヴァを見つめるアンバーの姿があった。
「危うく頼み忘れるところじゃった。ほれ、前来たときのように湯上がりに――」
「――山羊の乳だろ、宿の名物の。任しとけ。ちゃんと三人分用意しといてやる」
「ふふ。わかっておったとはさすがじゃの」
「ったりめーだろ。アンタらはアタシにとっちゃ誰よりも大事な客人なんだからよ」
こうして今度こそアンバーを見送ったエヴァは無意識に頬を緩めていた。
なんだか今日は驚かされっぱなしだが、久し振りにジェードらに会えたことでこんなにも胸が温まるとは思っていなかった。
ひとまず、大事な大事な客人の注文をこなさなければ。エヴァは足早に山羊の乳を取りにいきながら、どこか嬉しそうに小さく一言呟いたのだった。
「――ったく、アイツらホントに変わってんな」
第三章バーデン編のサブヒロイン、エヴァと再会するお話でした。
芸術の街――アルスアルテの一件から十数年経っても未だ残る尾人への偏見。
しかしそれも時間をかけて少しずつ和らいでいる、というお話です。




