輝ける花弁
本編第三章のあとくらいの時間軸です。
庵仁娯(@cPd3MIrvIF3iM9D)様が描いてくださったイラストから想像を膨らませ、文章化したお話になっています。
「……"花"、じゃと?」
「ああ、そうさ」
昼下がり。とある街の大衆食堂。
もごもごと料理を咀嚼したまま問うたアンバーに、ジェードが呆れ笑いをこぼしながらそう返答した。
「さっきこの食堂の主人に聞いたんだ。この街で一番綺麗な景色が見られる場所はどこだい、って。そしたら、街を出て西に進む一本道を歩くのがいいと言われてね」
「ふむ。そこに咲いておる花がとても美しいと、そういうことじゃな?」
「そう。鋭いね、アン」
ジェードにおだてられ、アンバーは頬を少し染めてふふんと得意げな顔をしている。
無邪気で可愛げのある彼女の仕草にジェードも自然と笑みがこぼれた。
「それで、その花は何がどう美しいというのじゃ?」
「うん。よくぞ聞いてくれたね」
ようやくスプーンやフォークといった食器の扱いにも慣れてきたアンバー。
彼女がフォークで肉料理を口に運びながら尋ねた言葉に、ジェードは食後の紅茶を一口すすってから答えた。
「西の道に自生しているその花はね、どうやら花弁が"光る"らしいんだ」
「ほほう」
ジェードの語り口で興味を持ったのか、アンバーの視線がぴょんと持ち上がった。
食堂の主人曰く、その花は昼間に浴びた日光を花弁に蓄え、夜になると発光するのだという。
その光で昆虫をおびき寄せ、花粉を遠くまで運ばせようとしているという説があるのだが、詳しい生態は学者によって研究されている最中らしい。
今日は雲も少なく日照りも上々。夜になればさぞ美しい光景を目の当たりにできるだろうとジェードは嬉々として語っていた。
熱が入りすぎて声が大きくなっていたことに、周囲がざわつき始めてから気づいて気恥ずかしくなったのはここだけの話だ。
「それは楽しみじゃな! 夜が待ち遠しいのう!」
「そうだね。でも、僕としては見るだけじゃ少し物足りない気がするんだ」
何やら含みのある物言いのジェードを、アンバーが不思議そうに見つめる。
ジェードは紅茶を一口すすると、得意げな表情を浮かべて前のめりに語り始めた。
「この話を聞いて、やってみたいことができたんだよ。日を浴びて光る花弁――それにはきっと不思議な色素でも含まれているんじゃないかと思うんだ。それを絞って顔料にすれば面白い絵の具が作れる。"光る絵の具"なんてものができたら、とても綺麗だとは思わないかい?」
「――ッ!! 主様は天才かッ!? それはぜひとも見てみたいのう!!」
興奮したアンバーの頭からぴょこんと耳が飛び出した。
一瞬肝を冷やしたが、即座に隠したため他の客には気づかれていないようだった。
咄嗟に慌ててしまったのが少し気恥ずかしくて、それを誤魔化そうとするかのように二人はくすくすと小さな笑い声を向け合ったのだった。
*****
日が沈み、周囲は暗闇に包まれた。
本当はこの街で一晩宿泊してから次の街へ出発する予定だったのだが、夜にしか見られない光景が目当てならば仕方がない。夜通し歩き続けるか、野宿するかを覚悟する必要がある。
しかしこれから見られる景色に胸を躍らせるジェードとアンバーには、その程度のことは些細な問題に過ぎなかった。
「むう。まだ全然光っておらぬのう」
「うーん。もう少し先なのかなあ」
街を発ち、西へ西へと伸びる一本道を歩く。
随分街からは離れた気がするが、それらしい景色は未だ見えてこない。
嘘の情報でも掴まされたかと、ジェードは次第に不安感を覚えてきた。
すると、二人きりになり耳も尻尾もあらわにしたアンバーが、鼻をひくひくとさせて空気の匂いを嗅ぎ始めた。
「なんじゃろうか。甘ったるい匂いがするのう」
「……ッ! アン、あれ!!」
咄嗟にジェードが指差した先。どうやら一本道が左へ折れているようだが、その曲がった先に微かな光が見えた。
パッと瞳を輝かせたアンバーが駆け出していく。ジェードは置いて行かれないよう慌ててその背中を追った。
道を曲がると、その両脇は胸くらいの高さの岩壁のようになっていた。
その上に一輪だけ、ぽつりと輝く濃い蒼の花弁。
暗闇の中でちくりと目を刺すようでありながら、どこか儚げな淡い光を放つ花を、ジェードとアンバーは肩を並べてただ見つめていた。
「これが……」
「なんと言えばよいじゃろうか……」
この光景を、この美しさを、この心情を、うまく形容できるだけの言葉が見つからなかった。
これほど神秘的な美しさを持つ花など、産まれて初めて見た。
周囲は暗くて手元もよく見えない。今すぐ紙と炭を持ち出して描き残したい美しさであるというのに、それが叶わないことがジェードは非常にもどかしく感じていた。
「主様! 見てくれ!」
今度はアンバーがどこかを指差した。
彼女の視線が向かっているのは、この一本道をさらに進んだ先。そこには、目の前のものと同じ花が咲き乱れ、道の両側をずらりと彩っている光景があった。
目の前の一輪の美しさに見惚れていて、こんなにもたくさん咲いていたことに今の今までまるで気づかなかった。
暗い夜空に現れた天の川のように、道に沿って並んだ花々の光。それはランプの灯りなどなくとも道なりに進んでいけるほどに、旅人たちの足跡をまばゆく照らし出していた。
全身の力が抜けたような感覚。それでも体重を支える両足だけは崩れないから不思議だ。
気を抜くと呼吸すら忘れてしまいそうなほど、ジェードは呆然と立ち尽くしていた。
「……主様」
「……うん。そうだね」
あまりにも圧倒されすぎて、いつの間にかもどかしい思いも綺麗さっぱり消え失せている。
そんなときに自分を呼んだアンバーが何を言わんとしているかは、ジェードにもなんとなくわかった気がした。
どこまで続いているかも見えないほどに咲き誇る花々。
きっとこれらの美しさは、"今この場にある"からこそ美しいのだ。
摘み取って加工すれば、確かに面白いものが作れるかもしれない。それでも、この景色の"この瞬間"にしかない美しさは、どう足掻いても再現することはできない気がした。
今は黙って、この感動を心に焼き付けたい。
そう思うとジェードは、この花の色素で光る絵の具を作ることなど、いつの間にかどうでもよくなっていたのだった。
「……アン、手」
そう呟いて、ジェードは隣に立つアンバーに左手を差し出した。
なぜそんなことを口走ったのかはわからない。ただ理由もなく、無性に彼女の手を取りたくなっただけだった。
アンバーはそんなジェードを一瞥すると、その手を握って目を細めた。
彼女も似たようなことを思っていたのか、アンバーは肩をぴったりとつけて小さな笑い声を漏らしている。
「それじゃ、行こうか」
「うむ」
手を繋ぎ、天の川の真ん中を再び歩き出す。
二人を取り囲む星々の美しさが足早に過ぎ去ることがないよう、翡翠と琥珀はその足に夜空の感触を踏みしめながら寄り添い歩いたのだった。