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真相里見八犬伝  作者: 下上次郎
第一楫  奥村仁右衛門、里見一族に出会うこと
6/6

その五見 新米犬士、八房に会う

○   一


 御府内に潜入すると、官軍の捕手で市中は溢れている。仁右衛門らは武装をといて物乞いに化けている。

 あちこちの寺に侍が詰めているので覗いてみれば、新徴組である。市中警戒と称しているが、この連中とて得体がしれない。

 伏姫が泣き出すかと思った。恐ろしいめにもあったし、もうずいぶん腹も減っているはずだ。ところが、夜の江戸をそぞろ歩く間、この赤子はこゆるぎもしない。もしかして死んではいまいかと懐を確かめるがスヤスヤと眠っている。

「いってえどういうガキだい」

「里見家当主の血筋よ。肚も据わっておろう」

 それにしても、と仁右衛門は思った。

 江戸も無政府状態となって、混迷している。

 府内の直参が彰義隊に呼応するのをおそれて、官軍の一隊が要所の橋を押さえたかと思えば、落ち延びてきた彰義隊とかちあう。

 上野の伽藍に火事場泥棒の市民が集い、かと思えば、市内に火を放つ不逞の輩も出る始末。世の騒ぎときたら、黒船出現どころではない。

 ともあれ、市中には、木戸、番所がいたる所に配置されて思うように動けない。救いは、その辻番所に詰めているのが、江戸市民、幕府家人であったことで、彰義隊の落武者には同情的である。仁右衛門と同じく彰義隊に参加して、番所に匿われている者もあった。

 落武者狩りに引っかかって闘争する者たちもあったが、助けることもならず、仁右衛門は歩を進めるより他がない。

 三味線堀に影が落ちた。お堀の向こうに伸びる白壁は、松平下総守の下屋敷である。

 いつもは閑散としているが、あちこちで篝火が焚かれ、下谷の武家地まで騒然としている。


○   二


 下谷にある御徒町組屋敷にたどりついたときには、日もあけかかっていた。

 奥村家の拝領屋敷は、御徒衆大縄地の一角にある。二本の柱に備えつけた、簡素な門の向こう。七十坪ほどの敷地に、古い平屋が建っている。

 奥村家は代々の御徒衆で、この平屋も歴とした拝領屋敷である。御徒とは、将軍の身辺警護をおこなう役職だが、普段は城内の詰め所にいて、江戸城の警護に当たっている。



 垣根越しに覗く。

 森閑――としている。

 一帯の組仲間でも、彰義隊に参加した者は多かった。ために人気が絶えている。

 仁右衛門の心配は、妻おたみにあった。

 奥村夫婦には、子がない。養子を迎えるべき所だったが、幕末の騒ぎの中で伸び伸びになってきた。

 現当主である仁右衛門が死ねば、奥村家は断絶である。

 仁右衛門も相応の覚悟で上野に出た。

 用人には暇を出した。おたみとは離縁しようとさえした。が、このおたみ、一筋縄ではいかない。

 仁右衛門はこんこんと説得した。徳川宗家がどうなるかわからない状況だ。奥村の家のことはよいから、生家に戻れ、と言ってもきかない。

 おたみ、例え仁右衛門が亡くなっても、奥村家を守り通す覚悟である。

 おたみはそんな女だから、今もあの拝領屋敷で一人震えているのではないかと思うと、どうにも我慢がならず、危険を冒してもこうして下谷に戻ってきた。

 もうここへもどることはあるまいと思っていたが――

 飛び石を伝い、玄関に立つ。

 これまでの出来事が、ふいに、胸裡に起こった。

 親父殿が倒れたこと。おたみを嫁に迎えたこと。三人でツツジを栽培したこと。

 夫婦のいさかいだとか、何気ない営みだとか。そうしたものが胸にいちどきに押し寄せる。当たり前であった日々が、もう戻らないことに気がつき、胸を締めつけるのだった。

「仁右衛門」 

 と、天海が肩をつかんだ。

 仁右衛門はさっと顔つきを整える。

 障子の貼られた格子戸を開け、玄関を潜った。


○   三


 仁右衛門はとまどった。

 土間と室内を隔てる障子戸がない。どころか屋内の襖戸は全て取り外されてがらんどうになっている。何もない。家具どころか。

 仁右衛門が息すらつめて見守ったのは、女が一人、薙刀を携え、蹲踞の姿勢をとっていたからだ。

「おたみか……」

「仁右衛門どの」

 おたみは薙刀を放って、式台まで走り出てきた。武道の心得もさほどないはずだが、奸賊薩長兵の狼藉あらば、いざ、と思ってのことだろう。

「よくぞご無事でお戻りなされました」

 仁右衛門はおたみを抱きすくめたい一心だったが、ぐっと堪えて言った。

「すまねえおたみ。腑甲斐なく生き残っちまった」

 おたみは唇を引き結び、それでも笑みを見せると、今、足水を用意いたしますと立ち去りかけた。

「いや、おたみ、もう時間がねえ」

 仁右衛門は、襟を引いて、懐の赤子を見せた。おたみはこの暗がりで、腹の膨らみにはきづかなかったのだらう。

 おたみは驚きで目を丸めたが、一瞬後には顔をこわばらせた。隠し子と思ったらしい。

「仁右衛門どの……」

「いや、この子はちがう。なあ、天の字……」

 と振り向く。

「ご内儀、誤解でござる」と天海も助け船を出した。「伏姫は里見家当主の血筋にて」

「そうよ」と仁右衛門はまた懐に手を突っ込んで、伏姫の腹の上に乗った仁の玉をつかんでおたみに見せた。「こいつが何かわかるか?」

 おたみは今度こそ驚いたようだった。宝玉は暗がりの中で、淡く輝き、四人の顔を照らしている。

「仁右衛門どの、これはいったいなんの冗談です」

「なにも冗談なもんかい。こんなもんがそこらにころがってると思うか」

 まして、人の手でつくれるはずもない。ぎやまんにしても、自ら白光しているし、何より玉の中央に文字のようなものが……

 おたみがよく見ようと思わず玉に手を伸ばした。そのとたん指先に雷をくらったように感じた。あっと呻いて手を引っ込めた。

「おたみ、大丈夫か」

「玉は人を選ぶ」と言って、天海も首にかけた袋から宝玉を取りだす。

 仁右衛門も天海の玉を見るのは初めてだ。宝玉には確かに、義、とある。

「馬琴の話は本当だったのよ」

 おたみはワナワナと唇を震わせたが、やがてピシャリと言った。

「こんなことはあるはずがありませぬ」

「いやある」

「仁右衛門どの」

「まあきけ」

 と仁右衛門は、この山の神に、上野でのくだりを語って聞かせることとあいなった。


○   四


 二人は汚れた衣類もそのままに、ドヤドヤと座敷にあがりこんだ。



 どうも雲行きが怪しいな――

 とは仁右衛門も思った。おたみは途中から話を聞くのもあきらめている。なるほど宝玉に触れこそしたが、妖怪など、見てもいないのだから無理もない。

 伏姫はおたみの膝の上で大人しくしている。

 おたみは近所の御徒仲間に子が生まれるたびに世話を助けたりしていたから、突然とはいえ、仁右衛門の連れ帰った赤子に、嬉しそうである。

「仁右衛門どの、お腰のものはどうなされました」

 とおたみは咎めた。仁右衛門の大刀がないのが気になったのだろう。先祖伝来の一刀だったが、上野で紛失したのはいたしかたない。

「そのあやかしの話はよくわかりませぬ。なれどこの子を連れて旅をするというならば、わたくしも同行するしか仕方ありますまい」

「ちょっ、ちょっとまて、一緒に来るつもりか」

「むろんのこと」おたみはきっと言った。「では、仁右衛門どの。道中この子の世話は誰がやくおつもりですか」

 仁右衛門と天海は顔を見合わせる。表情から察するに、どうやらここまで伏姫の世話は、犬江新兵衛の担当だったようだ。

 おたみは伏姫を乗せたまま膝先をすっと天海に向けた。

「天の字とやら」

「天海めにございます」

「では、天海殿。お急ぎの所とは重々承知いたしております。なれど、しばしこの女めに時間をお与え下さりませぬか。これなる主人、仁右衛門殿には仕度が必要でござりまするゆえ」

「ご、ご内儀、そいつあ無茶だ。拙者どもあ、今すぐ江戸を離れねば――追っ手もある」

 仁右衛門自体が、今では天下の追われ人である。

「物の怪の話は、もうよろしい」

 おたみは優しい口調で伏姫の背を撫でた。

「思えば、お前さまもわたくしも、江戸を離れたことはありませなんだな」

 仁右衛門は御家人だから、江戸を出るにも許可がいる。

「物見遊山ではねえのだぞ」

 と呆れて鼻を鳴らしたことだった。


○   五


「あら、この子、目を覚ましていますわね」

「目のかてえ野郎だな」

 仁右衛門が、顔を覗き込もうとしたときだった。伏姫が首を傾け、彼を見た。赤子には似つかわしくない強い目線で凝視してくる。

 仁右衛門もハタと異変に気がついた。

「おい、天の字」

「うむ」

 とこの大男も心得たものだ。彼もまた宝玉を取り出し、まじまじと見ている。今までは淡い光であったものが、強く明滅している。

 天海、槍を持ち替えている。

 仁右衛門も腰の脇差しに手を添えて戸口の陰に身を寄せた。振り向くと、おたみは伏姫をつれて、壁にピタリと背をつけている。不意の射撃でも喰らうことはあるまい、と得心してうなずき、「賊軍と思うか」

「まさか。わしとお主が潜む家だぞ」天海が言った。「ただの人間が訪うものか」

 仁右衛門は頷いて、わずかに開いた戸口から顔を出した。灯りがさっと目をやいた。仁右衛門は顔をしかめて手をかざす。

 提灯を持った男が、庭先に駆け入って、

「旦那、旦那、仁右衛門の旦那」

「おお、藤吉ではないか」

 過日、暇を出した用人で、奥村家には代々仕えていた男だ。仁右衛門よりは五つも上でデンと肥え出していた。小男のはしこさを詰めこんだような男である。ほっかむりの下で、パチパチと小さな目をしばたいている。

「天の字、心配するな。こいつは……」

 と言いがかったのを押しのけ、天海が、えいや、と槍を突き出した。藤吉は左にとびすさって穂先を逃れている。

 仁右衛門は左によろめくと、「何しやがる」

「呆けたか仁右衛門。ようく見ろ」

 藤吉がほっかむりをすうるり外した。その手から提灯が落ち、メラメラと燃えた。その火に照らされた顔が醜く引きつった。犬歯がにゅうるりと伸びる。血涙をこぼしはじめる。

 藤吉が目玉をグイと拭う。

「いやだなあ、旦那。長年支えたあっしの顔をお忘れですかい」

「こやつ、物の怪につかれおったか」天海がずいと槍を突き出し、「おのれ、十郎兵衛を導きいれおったのはうぬの仕業か! 正体を現せ!」

 仁右衛門は面食らって言った。「いったい藤吉の野郎はどうしちまったんだ」

「抜けい仁右衛門」と天海は野太い声で言う。「あやつはもはや藤吉ではない」

 もはや? もはやだと?

「だったら、やっぱり藤吉ではねえのか」仁右衛門もようやく脇差しをすっぱ抜く。「こいつ、藤吉から出ていかねえとただではおかねえぞ」

「藤吉だと。藤吉?」と妖怪はせせら笑った。「ばかめこの男ならとうの昔にくたばっておるわ!」

 口が裂け、角がはえた。腕にぶくぶくと肉がつきはじめたかと思うと地面につかんばかりに伸びてきた。

「ばかな男だ、おまえをすけようと上野に来なければ死なずに済んだものを」

「藤吉……」

 仁右衛門は正眼。天海と背を向けあって、藤吉と相対している。

「抜け作の犬士めが、ノコノコと江戸に乗り込んだのが運の尽きよ」

 この妖怪、黒猫にとりつき、江戸に入りこんでいたのだが、元は蟇六と呼ばれた中妖怪である。結界の綻びに乗じて、いよいよ力を揮い始めた。

 人のなりをしたあやかしは、二人の周囲を周りはじめる。

「上野の伽藍を焼いたのはこのわしよ」

 闇の中から毬が生まれて、ひょこりひょこりと跳ねている。真っ黒な毛玉の中央には目玉と口だけが身を裂くようにして空いている。目からやはり血を流し、うめき声を上げている。全身から黒い炎を噴き上げて、『画図百鬼夜行』にある釣瓶火のようでもある。

「慶喜と裏の家人を退散させたのち、江戸を牛耳るのは我らよ!」

「そうはさせんぞ」

 天海が藤吉の眉間を目掛けて刺突を繰り出す。すると、黒毬は急に膨れて藤吉の身代わりとなって刃先を受けた。

 釣瓶火は焙烙玉のように弾けると血を撒き散らした。


○   六


 仁右衛門が刀をすっぱ抜くと、その刀身からは神気がたちのぼり、水気をはらんで周囲に四散していった。なるほど曲亭の老人が、村雨の着想を得たのも頷ける。

 釣瓶火たちはその狭霧を恐れるようにギャアギャアと身を引いた。

 藤吉は下がってくる釣瓶火を押しのけながら、ギョロリと目を剥いた。途端に目玉は銀の光を帯びて龕灯(がんどう)のように周囲を照らした。その光を避けるように腕をかざした仁右衛門を剣で指し示し、

「貴様を知っているぞ」

 声までも妖気を帯びて変質していく。奇妙に艶めき、ひび割れ、とどろくようだ。

「労咳持ちのいる植木屋を度々訪ねておった奴だな。神玉によって神通力を得たか。だが、どんな力を得ようと無用のこと。あの男もわしを斬ろうとしたが、果たせず死によったぞ」

 と嘲笑う。

 驚きのあまり、仁右衛門の構えた刀がするりと降りた。

 労咳持ちだと?

 胸裡に、痩せた長身を震わす青年の姿がいくつも浮かんだ。

「それは沖田のことか!」

 仁右衛門が激怒すると、懐の宝玉は応じるように光り輝く。光は群がる釣瓶火を押し退けていく。

 沖田は剣をとっては仁右衛門もなまなか敵わぬ天才だったが、病には抗せず、あえなく命を落としてしまった。師匠である近藤の死も伝えず、仕。舞いだ。そのことをずっと悔やんできた。が、自分の病には触れず、近藤の安否ばかり気遣うあの男に、どうして伝えられようか。

 仁右衛門には、そんな沖田がいじらしく、痛ましい。沖田を嘲笑する蟇六がどうしようも無く憎く思えてきた。


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