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真相里見八犬伝  作者: 下上次郎
第一楫  奥村仁右衛門、里見一族に出会うこと
5/6

その四見 新米犬士、里見一族の、秘密を知ること

○   一

 

 十郎兵衛が死ぬと、傀儡の術もとけ、この官・幕とりまぜた奇妙な軍隊も、元の死体に戻っていった。

 仁右衛門たちの足下にはバラバラの斬殺死体が山となっている。

 仁右衛門と天海は並んで立って、十郎兵衛の生首をボンヤリと眺めた。

 辺りには濃い霧のように死臭が立ち込めていた。

 魑魅魍魎が現にあって、地獄も存在するならば、ここがそうだと仁右衛門は思う。

 思い出したように伏姫が泣いた。

「一体、どういうことだ」

 と彼は言った。

 天海、無言で彼を見返す。

「八犬士の話は馬琴の戯作のはずだろう。そもそも」十郎兵衛を顎で指し、「こいつあ一体何だ!?」

 天海は何か答えようとしたが、素早く辺りを見回し、手を上げて仁右衛門を制した。

「様子がおかしいぞ」

「何だ、あいつをやっつければ全て話すと言ったぞ」

 天海は仁右衛門を押しやって、木陰に身を隠す。

 指物を見ると、肥後兵のようだ。一時は彰義隊を追って四散したものの、闘争の音を聞き付け集まって来たものらしい。

 官兵の目線を避け、地を這うような姿勢で疾走した。

 背後から、人の名残を留めぬ残骸を見つけた男たちの、呻き声やら喚き声が聞こえてきた。


○   二


「ことの起こりは古代天皇家よ」

 と前方に別の兵隊を見つけて、天海は立ち止まる。

「天皇だと?」

 と仁右衛門は聞き返す。

「実際には、皇家を興すことになる男の話だよ。当時世に溢れていた魑魅魍魎を裏の世界に封じたのだ。そのことに里見一族も関わっていた」

「裏の世界ってなんだ」

「我々はそう呼んでいる。表の」と地表を指差し、「世界と区別してな」汗を拭う。「ともあれ、全国に張り巡らされた結界とともに妖怪どもはふうじられた。神武天皇の御世よりもはるか昔の話だ」

「では、この玉は何だ。本物か? 犬江新兵衛の持ち物なのか?」

 待たちが移動すると、天海も大股に移動をはじめた。

「馬琴の物語は読んだことがあるようだな。あれは裏の家人のことを聞き知った滝沢(曲亭馬琴、本名)が、戯作としてまとめたものだ。本の大半は馬琴の法螺話だが」と天海は鼻を鳴らす。「馬鹿な男だ。裏の者に目をつけられて視力を失いおった」

 失明しながらも八犬伝を書き上げたのは、仁右衛門も知っている。

「その玉は里見家に代々伝わり、裏の者との戦いを支えてきた。里見家を守護する霊力がこもっている」

 その話をもとに八房の物語を創作したのだろう。

「当時天皇家のもととなった男がどんな術を使ったのかはわかっていない。八百万の妖怪どもを別界に封じたのだから大したものだ」赤子に目を落とした。

「その子は、伏姫という」

 仁右衛門は目を見張る。

 天海が言った。

「正式にはまだ伏姫ではない。伏姫とは、結界の中心にいて、結界を守護する巫女の名乗りをさすのだ」

「この子は次の伏姫なのか」

 さよう、と天海。「今の伏姫は高齢で力は弱っている。我々は次の伏姫を早急に探し出さねばならなかった」

 その役目に天海と犬江新兵衛が選び出されたわけだった。

「そんな馬鹿な。そんな巫女の話は聞いたことがねえ。第一、結界の中心ってな、どこだ」

「むろん、出雲大社よ」

 仁右衛門は不満げに黙りこむ。

「だが、結界は永続するものではない。結界を保全し、綻びを正す者が必要だ」

 綻びれば十郎兵衛のようなものが出てくるというわけだった。

「それが里見一族か?」

「無論里見一族以外の者も天皇家には仕えてきた」

 天海は重々しく息を吹いた。

「政権が武家に変わった後も、我々は裏の家人として歴代将軍家に仕えてきた。むろん裏の者供を封じ込めるためだ」

 仁右衛門が目を剥いた。「歴代将軍家だと? それは徳川家も含むのか?」

 無論、と天海は頷く。 

「この混乱の最中、新兵衛どのまで亡くなられるとは……」

 天海が茂みを抜けてつくねんと立ち止まる。

 仁右衛門も後につづいた。

 二人の足元には小柄な老人が手足を投げ出し横たわっている。わずかに首を傾け。わずかに口を開き。雨粒が二度と動かぬ唇にポツポツと降っていた。

「この男が犬江新兵衛」と仁右衛門は言った。「老人だな」

 天海は寂しげに笑い、

「なに、馬琴とはじめてあったときはまだお若かったのだ」

 せめて埋葬だけは、と天海はしゃがみこむ。

 犬江新兵衛はわずかに泥に埋まって、その周囲は雨水が川となって流れていた。半世紀以上を漂泊に過ごした男は漂白の中で命を落とした。水は止まぬことのなかった人生を現すように流れている。流転。天海は老人の背に手を差し入れる。泥が羽織に貼り付いて意外なほどに重かった。


○   三


 どこをどう歩いたものか

 身に当る雨に気がつく。黒門口に仲間と集った今朝のことを思い出す。

 官軍を打ち倒そうと意気込んだのが幾層も昔のことのようだった。

 彼は天海の隣を。この男が吐き出した言葉を、その一歩一歩で咀嚼するかのように歩いている。いつまで経っても噛みきれない、固い獣肉のようであった。二千年の年月で風化しきっているのだから、固くも当然。

 生まれてこの方、並の御家人でしかなかった彼には受け入れがたい話ばかりだ。

 犬江新兵衛の行李を背中にしょい。何を詰めているのか、奇妙に重たい。

 黙然歩く坊主の姿が、奇妙なほどに寂しく見えた。

 

○   四


 仁右衛門は追っ手を避けて、江戸を一望できる丘陵まで辿りついた。

 犬江新兵衛にとっては恒久の住処となる穴を堀りおえた時には、夕刻の帳が降りていた。

 日は暮れて獣は呻き。暗渠に横たわる老人を見つめていると腹の奥底から沸き起こるようなうら寂しさがあった。

 伏姫が手を振るような仕草を見せると、天海はクッと唇を引き結び、集めた石を一つ一つと骸の上に敷き詰めていった。

 やがて土を被せ終わると、ひどく簡素な墓ができた。誰もここに、高名な犬江新兵衛が眠るとは思うまい。

 もう火はとっぷりと暮れている。

 眼下に、江戸の灯があった。

「その子がな」

 一言もなかった天海が、おもむろに言った。

「特別であることはお主にもわかったはずだ」

「まだ赤子ではないか」

「だからこそ守ってやる必要がある」

 新兵衛も守って死んだのだなと仁右衛門はボンヤリと思った。

 彼は仁の玉を懐よりだした。闇の中で宝玉の薄い輝きが三人を照らした。

「玉は人を選ぶと言ったな」

「かれこれ二千年の話だ」

 里見家の血が表の家人に流れていたとしても何ら不思議はない、と天海は言った。

「共に来い仁右衛門」

「行ってどうなる」と睨む。「妖怪どもと戦えというのか」

「主らは敗れた」

「ここではだ。俺は徳川の御家人だ、将軍家のために戦って死ぬんだっ」

「では、これからどうするのだ。官軍と斬りあって死ぬことが望みか」

 そうではあるまい、と天海は小声で言った。

「お主は仁の珠に選らばれた。偶然とはわしには思えん」吐息をついた。「天皇家は力をなくした。将軍も、もういない」

「徳川家は残っている」

 天海は急に彼に向くと、強い目で彼を睨んだ。

「けいき公はな、日の本を守るために、涙をのんで将軍職を辞されたのよ。裏の戦いに専念するために」

「何だと?」

「慶信公は、裏事をになうために、表の将軍職を辞去なされたのだ。薩長では、魑魅魍魎は抑えられぬゆえ」

「じゃあ旦那は、裏の家人をまとめるために負けを呑んだってえのか」

「ことは徳川薩長に収まる話ではない。このまま結界が崩れればどうなる。夷狄に四海を囲われた状況で、異界の化け物を対手には出来まい」

 馬鹿な、と仁右衛門は言ったが、その声は自分でもわかるほどに小さく揺れた。

「徳川のためにお主ができることは何もない。これからは日の本のために働け」

 仁右衛門が急に立ち上ると江戸の方角から風が吹きつけ、彼の月代を払って逃げた。

 江戸での日々が、不意に胸裡に押し寄せる。

「おれあよお、あんなにばか強かった近藤さんが、首かっとばされておっちんでよお、その仇が討てりゃそれでよかったんだ」

 双眸に熱いものが込み上げ、たまらず唇を噛みしめた。

 上野のお山で討死にのはずが、無闇に生きている。死んだ近藤たちが助けてくれたのかと思うと、落涙が頬を湿らせるのだった。

 元は神道無念流の免許持ちであったのが、他流試合で近藤に敗れて師事すなった。牛込の試衛館にはそうした食客がゴロゴロしていたのだが、理由といえば近藤の人柄というほかない。

 が、世は幕末の動乱である。江戸ではコロリ流行りで、世相も剣術どころではなくなっていた。道場経営に行き詰まった近藤は、浪士組の募集を決意して京にのぼることを決意した。

 仁右衛門はこれで歴とした御家人だから江戸を離れることはなかったが、それでも時折戻ってくる面々と旧交を温めてきた。

 新撰組を発足させた近藤たちは大いに威を振るったが、時勢にはかなわず、幕府と命運をともにしてしまった。

 だが、仁右衛門の心には試衛館でともに過ごした日々が、熱く太く根を張っている。

 天海は、そうか、と答えたぎり、江戸に向いた。

 伏姫がそんな二人をあやすように声を立てている。

 仁右衛門は強く息を吸い、吐息をついた。

「こいつを出雲に届けりゃいいんだな」

 怒ったように言い、手っ甲で涙を拭う。

「いいだろう。乗りかかった舟だい、手は貸してやる」

 口にしてから、ふいに江戸というものが、胸のうちから急速に遠ざかるのを感じた。

 その寂しさを埋めるように、伏姫を抱いた。


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