その一見 人狼、現れしこと
○ 一
時節は、黴雨である。
時は、幕末――
所は、江戸。
上野、寛永寺、境内であった。
仁右衛門の奥村家は、御徒衆を代々続ける、歴とした御家人である。
この二百年ばかり。徳川家の禄を食んできた。
仁右衛門は、現当主だ。妻帯はしているが、子はない。
本人が死ねば、お家は断絶だが、彰義隊にノコノコと参加した困った男だ。
○ 二
慶応四年――
五月十五日、のことである。
江戸城は無血開城し、徳川慶喜は、すでに水戸へと去っている。
が、彰義隊は、徳川家、霊廟守護を名目に、寛永寺に留まり続けた。
薩長軍と敵対しては、政府軍兵士を殺傷する。そんな事件が、多発していたおりである。
その新政府が、対旧幕軍の司令官として呼び寄せたのは、天才軍略家、大村益次郎であった。
大村は、手始めに、上野山に総攻撃をかけることを、江戸中に布告した。
市中に散らばる隊士を、一カ所に集めて殲滅すること、逃げる時間を与え、戦闘を回避することを、目的としている。
事実、四千名を超えていた隊員も、決戦の間際には、千名ほどに減ってしまった。
仁右衛門は、旗本御家人らの子弟によって組まれた隊にあって、諸門の防衛にあたることになった。
さて――
○ 三
雨は、続いている。
全く、堰を切ったような土砂降りである。
戦闘は、黒門口よりはじまり、当初、彰義隊は優勢であった。
地の理を活かし、山王台からの砲撃をくわえ、官軍を諸門に近づけなかった。
が、会津藩兵に化けた長州軍が、藩旗を掲げ、彰義隊陣地に出現すると、背後を打たれた部隊は大混乱に陥った。
時を同じくして、アームストロング砲が、不忍池を越して炸裂した。
薩摩兵の決死の吶喊がはじまると、各隊は総崩れとなり、ついには黒門口まで抜かれてしまった。
圧倒的多数の官軍に囲まれ、彰義隊は、寛永寺本堂まで退却している。
仁右衛門は、生きたまま、戦場に取り残された。
○ 四
山内の伽藍が、次々と焼かれている。
が、仁右衛門の関心は、徳川家の霊廟になく、赤子にあった。
刀を杖に彷徨し、やがて官軍の捨てたスペンサー銃を拾い上げた。
声は、近い。
スペンサーの操作を確かめながら進む。
辺りを索敵しながら、木立の蔭を拾うようにして移動する。
(なんだ、あれは?)
低木の茂みに隠れ、折り膝の姿勢をとる。
銃を構え、狙いをつける。
赤子が、いた。木の根の隙間を、揺りかごがわりに転んでいる。
仁右衛門の狙いはむろん赤子ではない。近付かなかったのは、赤子の目前に、化け物がいたからだ。
化け物――としか言えない。人型をした狼が、人界に存在しないのならば。 (おれあ、死んであの世にでもいるのか)
と、彼は疑う。
その迷いを振り払うかのように、慌てて照準をつけ直した。人狼が、赤子に向かって、巨大な爪を伸ばしたからだ。
仁右衛門は、暴れる心臓を呼吸で抑え、レバーアクションをして排莢する。ハンマーを起こし、銃床を頬に当てた。
スペンサーは、七連発のはずだ。が、弾丸が、何発残っているかはわからない。
眉に雨粒が流れ、視線が散じる。
人狼の足元に、無惨に引き裂かれた死体が、散乱しているのが見えた。
「あいつの仕業か……」
仁右衛門は、無意識のうちに引き金をひいた。
硝煙が雨中に舞った。人狼の頭部が揺れ、血が吹きだすのが見えた。
見守るうちに、ゆっくりとその場にくずおれていった。
○ 五
銃を杖に、赤子の元へ急ぐ。
敵も味方も、あの人狼が残らずやっつけたものらしい。動く人の気配がない。
仁右衛門は、木の根元に行き、覗き込んだ。赤子は紫の衣にくるまれて、小さな手をばたつかせている。
生後半年ほどにみえた。
仁右衛門が、血に濡れた指を添えて、かき抱くと、雨のために、その衣はすっかり濡れそぼっている。が、どうやら怪我はなく、わずかにしゃくり上げるばかりである。
丸々とこえた赤子で、ズシリと重い。
仁右衛門は、安堵の吐息をつくと、半襟を開き、赤子を懐に抱き入れる。
と、彼は身を凍らせる。
地獄の釜底より、沸き上がるような唸りが、背後より轟いたのだ。
「貴様……」
仁右衛門は、樫の木に背をうち当て、振り向いた。
右頭部は大方砕け、脳すら露出していた。
死んだと思われた人狼が、口より白煙を吹き出しながら立ち上がる。
怪しく光る両の目を、仁右衛門にひたと押し当て、「貴様、表の家人か」
「なんだと……?」
仁右衛門は銃口を下に向けると、夢中でレバーを押し下げ装填し直す。
引き金をひいた。
カチリ。
空しい音がする。
「不発か」
仁右衛門は夢中でレバーを操作し、コックをいじくる。が、弾のないのは明白だ。
物怪は血液混じりの唾したを飛ばし、
「表の貴様が、里見殺しの邪魔立てか! 奴等の血筋を守って何になる!」
「黙れ!」
仁右衛門が、空の銃を投げつける。
妖狼が、やすやすと払いのけた。
仁右衛門は大刀を引き抜いた。が、傷が読めるのは重く、木立ちを離れることができない。彼は、口惜しさに歯がみしながら、
「貴様、何者だ。なぜこの子を狙う」
「知れたこと、食らうのよ」と妖怪は、せせら笑う。「さすれば、里見の霊力はわしのものだ!」
仁右衛門が惑う内に、人狼が腕をあげた。
巨大な爪が、一つに揃った。
かと思うと、喉笛めがけて飛んでくる。
仁右衛門は、転げるようにしてかわしたが、首の皮一枚が切れた。
背後の樫が、怪力に砕かれ、木片が降ってくる。
人狼が、牙を剥いて追ってきた。
仁右衛門は、落ち葉を掻き集めるようにして、赤子を抱いた。
(もうだめだ――)
死を覚悟したとき、数発の銃声が、殺戮の場を切り裂いた。