郭公は誰?
--日記より
『遥、お願いがあるの』
ある日、遥は友人から急に呼び出された。
『なに?』
『私、どうしても子供が欲しい。だけど、産めないの。私は子宮が損傷していて、卵子はとり出せるけど。夫は無精子症と診断されたの』
遥と同じ施設育ちの友人は、中学を卒業した後、とある富豪の家に住み込みのメイドとして就職していた。そこで美しさと人柄の良さを見染められて、富豪の後妻になったのだと。施設で育った仲間たちは噂していた。
施設を卒業以来、遥も学業そして研究で忙しく友人とは疎遠になっていたのだが、遥の結婚後にいきなり友人から連絡があったのだ。
(それは辛いな)
遥は素直に同情した。
しかし、何も子供を持つことだけが、家族となり得る訳ではない。
『夫婦で仲良く』
暮らせばいいじゃないか、という遥の言葉は友人によって激しく遮られた。
『嫌よ!子供を抱くのが私の夢だったの!遥も知っているでしょう、私が身寄りがなくて、どれだけ家族を欲しがっているか』
『知ってるよ』
友人が、”キレイなおうちに優しい旦那様と子供と暮らしたい。それが私の夢”と、繰り返し語っていたのを遥とて知っていた。
--何故か、施設の仲間たちはそんな事を真顔で言ってのける友人を、白い目で見ていた。
(”なに、ドリーム見てるんだ”とか。”自立”してない、と思われてたのかなー。確かに”食い扶持は自分で稼げ!”てのがモットーの施設だったもんなー)
と遥は気にしてはいなかったのだが。
(それはそうと。彼女が寂しい理由と、これから”お願い”されることに何の関連があるんだろう)
遥のその疑問は、驚愕とともに明かされることになった。
『ねえお願いがあるの。私の卵子と遥の旦那さんの精子を掛け合わせて、遥に生んで欲しい。そしてその子を私の養子として欲しいの!』
友人は遥に縋り付いてきた。
彼女の懇願の内容を咀嚼すると遥は戦慄し、そして怒りと否定から叫んだ。
『っそんなこと、出来ないッ!倫理的にも法的にも赦されてないし、第一!彼の子供を他の女に任せるなんて!それに私が、百歩譲って代理母になったとしても、子供を手放せるわけがないでしょう!』
遥も、通学路が同じ小学生たちと混じって遊んでしまうくらい、子供好きだったのだ。
律と結婚したばかりとはいえ、当然、夫との間に子供を持つことを夢見ていた新妻が。
(何故)
そんな理不尽なことを言われなければならないのか、遥は全く理解できなかった。
しかし、友人は執念深かった。
『わかってる、わかってるけどお願い!』
『断る!』
断固とした遥の言葉に、友人は泣き笑いをして言った。
『そう。じゃあ、死んでやるわ。”久遠 遥が私の願いを拒んだから”と!』
ナイフを持った友人は遥を脅した。
そして、パソコンのEnterキーに手を掛けながら宣言したのだ。
『今の会話を録音したの。その音声データを世界中に配信してやるわ!どう、旦那様の財閥はダメージを受けるわよね?!』
『ふざけないでっ!謂われのない理不尽なことを世界中に配信されたからって、夫の会社だって、私達の仲だった揺るがないわ!帰るっ』
遥は踵を返して、友人を残して帰った。
その後。
本当に自殺未遂をおこした友人のため、遥が代理母になることを了承した旨、日記には書かれていた。
(汚い手だ)
律は手記を見ながら苦々しく思った。
遥は思い至らなかったようだが、代理母に遥を選んだことに、友人の薄汚い意図を律は嗅ぎ取っていた。
友人の自分より、地位も名誉も金もある遥だったから、代理母をしたことをタテに脅迫してこないこと。
また。
夫の財産も取り込みつつ、いざとなったら久遠財閥の総帥の息子は自分の子であると。DNA鑑定結果を盾に、名乗り出る心づもりもあったのだろう。
(あわよくば、夫の死後。遥を追い落として、私の後妻に納まろうという腹積もりもあったかもしれんな)
遥が自分と結婚してから、旧交を温めてきたのが、いい証拠だ。
(この手の輩は人を屈服させる為には、自分の命を投げ出すことも構わない)
そして、一旦屈服させれば、あとは簡単だ。
(それがわからない彼女ではないのに)
事実、遥の手記にも苦渋の決断であったことはその記載内容から察せられた。
(友人への情に負けたか)
わからないでもなかった。
鉄の意志を持つ彼女とはいえ。目の前で友人に自殺でもされたら、心中穏やかではいられないことだろう。
とはいえ、これで佑が自分と血縁関係で、遥と血縁関係が認められなかったかが、わかったような気がした。
己の中で佑への愛情については。確認するまでもなかった。
(私の子だ)
そして遥との。
遥と佑はたとえDNA上の繋がりがなくても、受精卵の着床から彼女が記憶喪失になるまで、愛情を込めて育ててきたのだ。そして律も息子を愛していた。遥と佑が母子関係になかったとしても、律の愛情に揺らぎはない。
(私達の間は、何も変わらない。私達は親子だ)
その結論に、律は確信を抱いていた。
今後、佑と遥のDNAが相違しないことが世間に露見したとしても、自分は揺らがない。愛する妻子を護り抜くことに、律は今更に自信があった。
(しかし)
律は今一つ釈然としない思いを抱えていた。
(人工授精を選択した原因はわかったが。相手の女が、遥の出産後にどうして佑を引き取らなかったかを調べる必要があるな)
それとも。
(遥が、佑を渡すのを拒んだのだろうか)
そうであってくれればいい、と思う。
名前は書かれていなかったが、それなりの資産家と結婚した遥の友人。自殺未遂者。
(これだけキーワードがあれば、1日あれば何かは出てくるはずだ)
律は、遥の書斎から己の調査チームに何件かの指示を与えた。
◇□◇◇□◇◇□◇◇□◇
遥と佑が帰宅する時、丁度律は外出する処だった。
「と……、律!夕ご飯は?」
佑が男の背中に呼びかけると、律は振り返って告げた。
「会社の用で遅くなる。食べててくれ」
「らじゃ」
声は息子に答えていたが、視線は妻を見ていた。
穏やかな湖のような双眸に。
やるさない思いと妻への愛が潜んでいるのを、どれだけの人間が感じとれただろう。
だが、遥はふい、と眼を逸らした。
「……行ってくる」
焦燥など感じさせずに、落ち着いた声音で告げた後、男は出ていった。
「さー、今日は何を作ろっかなー。遥も手伝ってよ」
と鼻歌交じりの佑の声が遠ざかっていくのにも拘わらず、遥は明かない玄関のドアをいつまでも眺めていた。
「遥ー?」
キッチンから再度、佑が呼びかけてきたので、なんでもないというように遥も声を張り上げた。
「今、行く!」
◇
遥は寝付けなかった。
5ベッドルームを持つこの家は、施設育ちの遥にとって十分に大きい。
しかし、人の気配を感じられない程、広大ではない。
事実。
佑がレクリエーションルームから引き上げて自室にこもった気配など、何となく感じられるのだ。
それ以外に、人の気配がなかった。
遥は、律の気配を探しているなど、自分でも認めようとはしていなかった。
やがて。
天井に車のヘッドライトが映って、移動していき。
門扉が開く音がして、暫く経つと車が格納される音がした。
家の人間たちを起こさぬように玄関のドアをゆっくりと、極力静かに開けている気配。
自分が気配を感じていることを、逆に気取られぬように遥は息をひそめて、男の気配を感じとろうとしていた。
男は、そのまま自室に籠ったようだった。
佑からは、男が責任ある立場なのだと、聞かされていた。
今日、男は休日のようだったのに、急に呼び出されて深夜に及ぶ仕事など、日常茶飯事なのだろう。
……にも関わらず、遥は男の憂慮の濃い顔色が気になっていた。
ふと、気が付いて、夜食を持っていってやることにした。
食器棚から何の気なしにマグカップを選びとって、数種類常備してある豆の中からコナ珈琲を選んだ。豆を電動ミルで挽いたあと、ネルドリップに開けて熱湯をとぽとぽと落としていく。
夕飯の野菜スープを温め直している間に、ピザトーストを拵えた。
お茶請けに、ミルクチョコレートを二粒。
トントン。
「どうぞ」
男の声に、遥はトレーの中身を零さないよう。用心しいしいドアを開けた。
「……」
男は何の用だ、というように、遥をじっと見据えていたようだったが、眼を合わす勇気はなくサイドテーブルに夜食を置いた。
「食えるようなら、食っておけよ。……なんか、疲れてるみたいに見えたから」
遥は男に、というよりも自分に言い訳するようにぼそぼそと言った。
「それだけ……じゃあ」
「遥」
妻の背中に律は呼びかけた。
遥の背中がびく、と跳ねる。
「ありがとう。おやすみ」
「オヤスミ」
◇
扉にもたれかかって遥は胸を押さえてた。
(俺、余計なことをした……っ)
入ったことがないのに、奇妙に懐かしい部屋の中。
何処に何がある、とわかっていそうな自分が怖かった。
それに。
(あの男の眼……っ)
熱と、それ以上の何かを孕んでいたような、黒々とした双眸。
見つめていたら、引きずりこまれて、引き返せなくなりそうな深甚とした恐怖を感じてしまった。
傍に居るだけで引き寄せられそうになった。
そして、男が纏うフレグランス。
限りなく慕わしさを募らせる、薫り。
(あの匂い。何処で……)
懸命に脳裏を探るも、バン!という音がしたかのように、脳内の映像がブラックアウトしてしまう。
「~~~!」
遥は頭を抱え込んだ。
「……」
やがて。
遥は、しおしおと自分に割り当てられている客室に戻った。
(あの男に近づいちゃいけないんだ……!)
近づきすぎると、自分を喪ってしまう。
◇
ぱたん。
と扉がしまり、律は暫く視線をそのままにしていた。
ようやく遥が立ち去った気配を確認してから、彼女の持ってきてくれた夜食を食べようと手を伸ばしかけて、眼を瞠った。
(私のマグカップだ)
ダイニングには、家族銘々のカップが置いてある。それどころか久遠家に入り浸っている静のものや、ボディガード達のものとてあったのに。
更には。
スープには、マスタードとブラックペッパーが浮いている。
ピザトーストには、サラミのトッピング。
そして珈琲からは、ほんのりとカカオの香。
全て、律の好みのレシピだった。
(佑に聞いたのか)
それとも。
(そんな事は、躰に沁みついているのか)
望みがない訳じゃない。
律は、黙々と夜食を食べ終えると、静かに珈琲を飲み下した。