少年と青年
遥……
『やめろ、来るな』
何故。俺を拒む?
『だって』
だって?
『アンタを見てると、胸が苦しくなるんだ』
苦しい……どんな風に
『アンタが傍にいると、体毛が逆立つ。アンタが近づいてくると血が逆流する。心拍数が急上昇して、目が離せないッ』
遥、それは
『厭だっ、俺はそんな想いを抱きたくないんだッ、アンタを想うだけで乱高下するような感情など、俺には必要ないッ!』
遥
『消えて!俺の前から、消えてくれっ』
(消えた。善かった。これで安寧がもたらされる。だけど。代わりに躰を襲う、この引きちぎられるような虚無感はなんなんだ……ッ!)
◇□◇◇□◇◇□◇◇□◇
「う……」
長い睫が揺れて覚醒するのだと知れた。夫は用心深く妻に近寄ると、そっと声をかけた。
「気が付いたか?」
遥は、ガンガン痛む頭の上から降ってきた思わし気な声にようよう眼を開けた。
「俺……どうしたんだ?確か、ガッコから……」
(俺)
律はじっと妻を観察した。
(まだ、人格混乱が続いているのか)
遥は脱出の際、転倒して頭部を打ったせいで、脳波を撮った。その関係で、腰まであった美しい黒髪は、ばっさりと切られてしまった。
(本当に男の子みたいだな)
元々、彼女はスレンダーで女性にしては、きりっとした顔立ちの美女だった。髪を切ると、中性的というよりは、いっそう青年のようにも見えた。
(私のほうがどちらかというと、女顔だからな)
確かに親友から”優男”と揶揄される律であるが、だからといって、その表情から女性と間違わられることは皆無だ。
しかし、マニッシュな服装をしている妻と並び立つと、男性同士のカップルに勘違いされることはあった。
……そんな外見からも、遥の”自分は男である”という認識を加速させてしまったのだろう。
律は、擦り傷だらけで頭部に包帯を巻かれた妻をじっと見遣った。
「……覚えてない?」
そっと訊ねると、遥は呻いた。
「ああ。何があった?どうして、俺はこんなに全身が痛いんだ……?」
(いったん眠ったら、記憶が飛んでしまったのか)
「遥、君は久遠 遥」
「久遠、遥……」
遥の視線がぼんやりと辺りを彷徨い。
「そう」
彼女の顔の上に屈んだ途端。
か、と彼女は眼を見開いた。
「……っ誰だ、アンタはっ」
「私は久遠 律司」
そこまで言って、口を噤んだ。
(君は私の妻で、私は君の夫だ、と。もう一度言っていいのか)
事故直後の遣り取りが脳裏に浮かんで、別のことを話そうとして口を開きかけた、その時。
「来るなッアンタなんか嫌いだっ!」
遥に絶叫された。
「遥」
落ち着かせようと手を伸ばそうとしたら、全力で振り払われた。
「いやだあああっ、誰か、誰かぁっ!!」
「落ち着いてくれ、遥。ここには君に害をなすものはいない」
「いやだっ、俺は吉住 遥だ、久遠 遥なんて知らないっ、久遠 律司なんて聞いたこともない、アンタなんて知らないっ、厭だっ出てけ!出てってくれっ」
(吉住)
遥の旧姓だ。
(ということは。記憶が独身の頃まで退行している……?)
何時だ。
遥が律と出逢ったのは、彼女が22の時。
(私と出逢う以前かっ!)
「遥」
「俺の名前を呼ぶなッ」
狂乱、と言っていい妻の様子に、せめて鎮静剤を打とうとすると、まるで律が遥の命を奪おうとする暗殺者であるかような眼で怯えられ。手あたり次第に物を投げられて凄まじい抵抗をされた。
流石に自分を見て、ここまで恐怖と嫌悪の態度があらわな妻を見てしまえば、律としては退室せざるを得なかった。
律と入れ違えにお抱えの医師が夫婦の寝室に入っていき。遥に鎮静剤を打った、と報告するに及んで、律は決断した。
「彼女を、私達の居室から一番遠い客間に移せ」
◇
父はコツコツとドアをノックした途端、佑の返事も待たずに部屋に入ってきた。
「プライ」
ベード侵害、と冗談には言えなかった。
「佑、頼みがある」
父から真剣な顔で頼み事をされた。
過去、この口調でどれだけの厄介事を背負わされてきたことか。当然、佑としては身構えたくなった。
「……高いよ」
だが、意に反して父の口から出た言葉は。
「遥の傍に居てやってくれ。それと彼女は自分を男だと思っているから、その根拠についてと。どれだけ記憶が欠落しているのかも、確認してくれ」
その切実な響きに、息子は一も二もなく承諾した。
「……合点承知」
◇□◇◇□◇◇□◇◇□◇
「……てな感じだったらしいよ?」
佑は遥の枕元で、事件のあらすじを語って聞かせていた。
鎮静剤のもたらした束の間の眠りから覚醒したのち、遥は、事件当時の記憶を喪っていた。あまつさえ、何処まで記憶があるのかを確認すれば『自分は吉住 遥という男だ』と言う始末。
当初、頑強に、『君は女性で私の妻だ!』と律が言い張ったせいだろうか。律との剣呑な遣り取りすら忘れ去っているくせに、彼女はすっかりと律を警戒してしまった。その為、父は愛する妻に近寄れなくなってしまったのだ。
代わりに、父は息子を妻のボディガード兼、事件の顛末を出来るだけ彼女から引き出す役に任命した、という訳である。
自分が寝ているベッドの脇に椅子を引っ張って座っている少年。恐ろしい程に、嫌悪している青年に似ていたが、少年のことは嫌悪しようとは思わない。むしろ、親しみを覚える。
(青年の弟か?)
青年。
そう。自分が追い払ってしまった、どう見ても30手前にしか見えない青年が40過ぎているとか。
(どこにそんな童顔の40男がいやがるか!)
おまけに自分が女で、しかも現在の実年齢は40近いのだとか。
(それに俺が40近くのおっさんだと?俺は成人したてほやほやの21歳だっ!ふざけるな、ての!)
他にも何か、青年に言われたが、とてもじゃないが信じられなかったのはそのせいだ。
恐る恐る自分の裸を見たら、どう見ても40手前の熟女のヌードではない。初々しい少女のモノにしか見えなかったので、鼻血が出そうになった。
(なんせ、俺は21歳の今まで、清く正しい性活を送ってきた童貞少年で、熟女ヌードはおろか、美少女ヌードだって断じて見たことはないんだからなっ!!)
百歩譲って自分が女だとして(性転換手術をしたような覚えはないのだが)、年令は断じて40ではありえない。
(アイツ、頭湧いてるのか?)
遥は頭を振って思考を追いだすと、目の前の少年と意思の疎通を図ることにした。
「それでこのタンコブか!ざまぁねえなあ、俺も!……ん?オマエは?」
「ん?俺、佑16歳ね。よろしく。」
少年が手を差し伸べてきたので、遥もその手をパシ、と打った。
「おう、俺、遥。よっしく」
にか!と悪戯っ子のように微笑んだ母親を観て、佑はこっそりと思った。
(……本当に覚えてないんだ)
口に出しては。
「わかってると思うけど、今までココにいた男の身内ね」
(本当は、可愛い母さんそっくりに生まれたかった)
とこっそりと嘆息をした。
「遥はさ」
佑と名乗った少年は馴れ馴れしく呼び捨てにしてきた。
が。
何故か遥は腹ただしいとは思わなかった。……事件後覚醒してから、自分の傍らにずっとへばりついていた青年には、呼ばれるたびに不快な気がしたのに。
「今何歳なの?」
どうやら、この少年とは初対面らしい。遥は、ぐっと気楽になった。
「今21歳。東城大学の大学院生だ」
佑はさりげなく目を細めた。
(記憶が退行してるのか。それにこの別人格。21歳なら、母さんはまだ父さんと出会ってない。……厄介なことになったな)
そんな内心の葛藤を窺わせることなく、佑はにっこりと笑った。
「俺も!今年から東城の付属高校に入ったんだ!じゃあ遥、俺の先輩だね?でも遥、21で院生てすげえな?飛び級するって頭いいじゃん。専攻なんなの?」
東城大学は日本が誇る、世界有数の大学だ。
数々のノーベル賞受賞者を輩出している研究機関のレベルの高さ。及び、企業からの出資もあり資金は潤沢。自由な気風に加えて新進気鋭な学風が、様々な分野で活躍する人物を多く生み出していた。
「佑こそ、高校から付属?やるじゃん!頭いーんだなっ」
それからは、大学の事を知りたがる佑に促されるまま、遥は学食や名物教授の話などの話をして、二人の会話は大いに盛り上がっていた。