誘拐
「そろそろ”ウン”て言ってくれませんか。ねェ、久遠センセー?」
主犯格の男が馴れ馴れしく遥の肩に手を掛けてきたので、彼女は犯人達をき、と睨みつけた。
女は久遠 遥。
久遠財閥、久遠 律司の妻にして、世界的な生化学者だ。
彼女は帰宅途中に誘拐犯によって連れ去られ、別荘地にある、この山荘に連れてこられた。
「貴女が先頃発表した研究論文を、”アレは捏造でした”と発表して白紙撤回を承知してくれれば、無傷で返して差し上げられるんですがねェ」
勝ち誇ったように、主犯格の男が告げてくる。
ひひひ、と下卑な笑いを三下が漏らし。
「貞操は無傷じゃないかも知れねえですけどね」
そして遥は、屈しない焔を双眸に宿らせて叫んだ。
「お断りだっ!ここにも、もうじき私兵どもが乗り込んでくるぞ。ウチの旦那の力を舐めるなっ」
はあ、と主犯格の男が、わざとらしくため息をついた。
「”虎の威を借るキツネ”とはよく言ったもんだ。だがこの場ではそういった勇み足は控えた方が、身の為だぜ」
「お前らを雇ったのが、何処のどいつだかは検討がついてる。今頃は、もうそいつらの社会的地位は抹殺されてる。生憎だったな、せっかく俺を誘拐しても、お前たちに手数料は支払われない。”くたびれ損”て奴だ」
遥はせせら笑った。
「頭の回転がよくて、口が回る奥方だな。確かに、仕事完了後に支払われる残りの半金は諦めにゃならんかもしれん。アンタの亭主はやばいからな。”奴に睨まれたら最後、棺桶の中しか地球に居場所が無くなる”、て噂だ」
男は考えるフリをしたが。
底光りのする双眸で、遥を見つめると薄く笑った。
「だが、アンタらから見たら、虫けらに等しい俺達にもプライドってもんがある。俺達の仕事っていうのは、クライアントのリクエストを完遂してナンボだ。今後の”業界”での信用にも関わる。だからセンセーさんよ、悪く思うなよ。暫く、俺達のプライドに付き合って貰おうか」
簡単には解放して貰えないようだった。
(ち……!流石にプロか、一筋ではいかないか!)
遥は密かに舌打ちをした。
「奴は奥方のアンタにメロメロだ。そのアンタが裸踊りしている動画を送りつければ、俺達の、ひいてはクライアントの言う事を素直に聞く、て寸法だ」
(くそっ、しっかりと締め付けてくれやがって……!)
遥は後ろ手に回された縄を切ろうとさりげなく画策していた。
(不覚だった)
夫の選りすぐりのボディガード達が日夜、彼女や息子の周辺を護っている。
いつもの運転手が具合が悪い、ということで急遽別の人間が運転してくれていたのだが。
(まさか、コイツらの手先だったとはな!)
うまく潜り込まれたものだ。
身代わりを潜り込ませる為に、正規の運転手を拐わかしたのだろう。
今頃、夫は怒髪冠を衝く心持で私兵達を指図して、事態の収拾にあたっている筈だ。
遥は一瞬昏い気持ちになった。
(運転手さん。生きていればいいけど)
遥は、運転手の無事を祈るしかなかった。