幽体離脱
心持ち、幸子の顔は青ざめているようだった。体調でも悪いのだろうか。
顔もうつむき加減で目を合わせようともしない。今日一日、何か嫌なことでもあったのか。
「どうしたんだい。元気ないじゃないか。」浩二は、いつもの笑みを浮かべ幸子の顔を覗き込んだ。
幸子は俯いたままジッとしている。
「体の具合でも悪い?」
若い女性には月に一度のものがあるからヒョッとするとそれなんだろうか?浩二は考えあぐねた。
なにも語らず俯いたまま立っている幸子を見て、フト、亡くなった幸子の兄、加藤の言葉を思い出した。
「俺の妹、幸子の事なんだけど」加藤はためらいがちに浩二に話しかけた。めったに、加藤は妹の話はしない。
浩二は何かと思った。
「時々、いや、時々じゃないな。年に数回程度ぐらいだが、夢遊病者のように徘徊するときがあるんだ」
「夢遊病者?」
あれは、まだ、幸子が小学生高学年の頃だったと記憶している。
「いや、ハッキリ言うと夢遊病者ではないんだ」加藤のあいまいな語りに浩二は首を傾げた。
「実は、ある日の事なんだが…たぶんあれは夜中の二時ぐらい、人の気配がすると思って、起き上がると、いつの間にか俺の枕元に立ってる時があるんだ」
「誰が?」
「幸子だ」
その頃には兄妹別々に個室を与えられていて、寝る時も別々だったようだ。
「たぶん、一人で寝るのが寂しかったのさ」日増しに成長して大人びていく幸子だけど、やっぱりまだ小学生なんだなあ、と浩二は思った。
「ああ、俺もそう思って一緒に寝ようとベッドの隅に身を寄せスペースを作ったんだ…」
「サッチンはまだ子供なのさ。添い寝してやればいいじゃないか」
「違うんだ」加藤は急に浩二の話を遮った。
「違う、何が?」
「つまり、とつぜんいなくなるんだ」
「いなくなる?何言ってるんだ?」意味不明の事を言う加藤に、浩二は戸惑った。
「つまり幸子が消えたんだ」
「消えた?」浩二は思わず吹き出した。
「お前、夢でも見たんだろう」
「ああ、最初は俺もそう思った。でも、どうも違うんだ。こんな事が続けざまに起きた時があったんだ」加藤が神妙な表情で話すので浩二は気になり始めた。
「このことを母親に尋ねたんだ」浩二は加藤の話に聞き入った。
「母親の話では俺の妹は、時折幽体離脱するらしい、いや、するんだ」
「幽体離脱?」
「ああ、生霊と言ってもいい」
「生霊?」浩二は加藤が自分をからかってるのではないかと思った。
「父親も母親も、幸子がそれをすることを知っていたんだ」
「加藤、お前マジで言ってるのか?」
「こんな事を出鱈目でいうか」
「なんで、今俺にそれを聞かせたんだ」
「うん、ヒョッとするとお前の前に幸子が現れるかもしれないから。それで知らせておこうと思って」
浩二は加藤の真意が分からなくなった。嘘を言ってるふうにも見えない。
「サッチンは自分が幽体離脱していることに気づいているのか」
「いいや、気づいてはいない。以前、幸子の友達の前に現れたことがあったらしい。その時は昼間だったから別に怪しまれなかったんだが」
「昼間?サッチンは起きている時でも、それができるのか?」
「いや、体調が悪くその日は学校を休んで、家で寝ていた。あくまでも寝ている時だけに起こる現象だ。無意識のうちに。幸子は何も覚えていない」
「そうか、わかった。一応その話信用するよ。でも、どうやって幽体離脱したサッチンと本物のサッチンを区別するんだ。姿形は一緒なんだろう?」
「顔を俯いたまま、目を合わせない方が幽体離脱した幸子だ」
浩二はあの時の加藤の言葉を思い出した。今、目の前にいるのは、幽体離脱した幸子だろうか。
一度も浩二と目を合わせようとせず、俯いたまま突っ立っている。
浩二の背中にヒンヤリと冷たい冷気が襲った。
「ご飯いつもありがとう。今日はサバの煮つけなんだね。遠慮なくいただくよ」浩二はご飯をよそった茶碗をテーブルに置いた。微かに手が震えているのを深呼吸で何とか抑えた。
幸子は黙ったまま俯いたままだ。
「ホントにサッチンは食べないの?」浩二はもう一度幸子に尋ねた。
浩二は返事を待ったが、幸子は不気味な程沈黙を守っている。
「じゃあ、遠慮なく食べさせてもらうよ」浩二はテーブルに着こうと椅子に座りかけたその時、ドアの鍵音が鳴りはじめた。
浩二は玄関先に顔を向けた。ドアノブがゆっくり回り始めている。
今にもドアが開かれようとしている。
「だ、誰?」浩二は呟くような声で尋ねた。
入ってきたのは幸子だった。
「えっ、ど、どういう事」浩二は思わず、小さく叫んだ。
「おかえりなさい。今日は遅かったのね」
幸子は屈託のない素振りで、部屋に上がった。
思わず、浩二は顔をテーブルの方に戻した。そこに今まで立ちすくんでいた幸子は、いつの間にか消えていた。
「今まで、自分の部屋で横になってウトウトしてたら、お腹が急に鳴って起きちゃった」幸子は笑いながら言った。
「そう…か」
浩二は自分もつい今まで夢を見ていたのではないかと思うのだった。




