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陽炎が通る道  作者: ハロル・ロイド
6/19

アパート

翌日の朝刊、三面記事のベタ欄に傷害事件の被害者として五十嵐の名前が出ていた。全治三か月以上と書かれてある。

幸子もテレビのニュースで事件を知ったようだ。

浩二はあの時、五十嵐にウソの情報を告げていた。五十嵐は自分が犯した過去の過ちのせいで恨みを買ったものと思い込んでるはずだ。

警察にその経緯を言えば、マスコミがそれを取り上げて、五十嵐の過去の汚点や、性癖、歪んだ人格まで白日のもとにさらされる。かと言って、ストーカー行為をしている途中で暴漢に襲われたなんて言えるわけがない。

結局、散歩の途中に見ず知らずの男に襲われたとか何とか言ってるはずだ。

 午前零時に散歩はどうかと思うが。

 

 浩二は現場には何の手がかりも残さなかった。警察の捜査も進展しないはずだ。たぶんこの事件は迷宮入りとなるだろう、と、浩二は確信している。

そして、ほとぼりが冷めた頃に浩二が雑誌社に五十嵐の素行をバラしてやる。もちろん匿名で。

雑誌社はこのゴシップに飛びつくだろう。蛇のようなしっつこい雑誌記者が五十嵐を付け狙うことになるはずだ。


 数日後、浩二は幸子に告げた。

 「僕と一緒に住まないか」

 深い意味などない。とにかくあの事件以来一人で彼女を住まわせないようにと思ったのだ。

 また同じようなストーカーまがいの男が現れるかもしれない。

 あくまでも亡き加藤の代理兄として、見守ろうと思ったのだった。


 幸子は少し考え迷っていた。

 両親には浩二の事は告げてある。偶然出会ったことや、それ以後、不慣れな都会生活に色々と手助けしてくれている事で感謝していると伝えてある。

 一度、会って礼がしたいと父親が言っていた。

 まさか、一緒に同棲しているところを見せるわけにもいかない。

 

 そんな思案を察してか浩二は幸子に提案した。

 「僕の住んでるアパートに一部屋空きが出たんだ。そこに入ったらどうだろう。ちょうど僕の向かいの部屋なんだけど」


 そのアパートは築二十五年ほど経過している。周りの賃貸物件より格安だが日当たりがあまり良くない。それだけを我慢すれば申し分ない場所だ。

 地下鉄まで三分の距離、近くにはスーパーやコンビニもある。ただ、昼間でも部屋は暗く、じめっと湿気ている。

 幸子にとってここをを気に入るかどうか少し不安でもある。

 

 浩二は前もって幸子をアパートに案内した。

 幸子が住んでいるマンションに比べれば、ここは雲泥の差、月とスッポンのような違いがある。

 快適な賃貸マンションを解約した後、このアパートに入ってガッカリされても困る。

 このひどさを体験してもらってから決めてもらう方が無難だと浩二は考えた。

 

 真昼の十二時、そのアパートはビルの巨大な影に隠れ闇の中に埋もれていた。

 これは決して誇張して言ってるわけじゃない。表現としては極力抑えて言ってる方だ。

 歩道から約四メートルほど奥まったところにアパートの玄関がある。そのためこの炎天下の真昼の最中でも太陽の光は玄関先まで届かない。


 玄関前のコンクリートはところどころひび割れ、セメントか何かで素人丸出しの技量で修復してある。その鮮やかなマダラ模様が目を引く。

 夏の真っ盛り、玄関をくぐればヒヤッと冷気を感じる、と言いたいところだが、そこは正直、暗闇の蒸し風呂と言った方がいいだろう。

 目が少し闇に慣れたころ、と言ってもそれほどの暗さではない。ただ、外がまぶしすぎるくらい明るいために起きた生理現象だ。

 浩二は壁のスウィッチを入れた。

 スウィッチの上には張り紙で、「用を澄ましたらすぐ切る事」と書いてある。

 一本の蛍光灯が点いた。

 部屋の数だけのポストが壁一面に現れた。

 浩二は自分のポストを覗いた。中にはダイレクトメールが三通ほど入っているのみだ。

それをポケットにねじ込んでコンクリートむき出しの階段を上がった。


「しまった」そう言って浩二は苦笑しながら、玄関先にあった蛍光灯のスウィッチを消した。

 「こんなボロアパートなのに、監視カメラだけは精巧なものを取り付けてあるんだよ。誰が蛍光灯を消し忘れしたか一目瞭然さ」そう言いながら天井の半円球のカメラを見上げた。


 浩二の部屋は三階の南側の突き当りにある。廊下を挟んで向かい合うように部屋が並んだ奥まったところだ。

 ここは蛍光灯が灯りっぱなしになっている。

 最近、管理人が省エネの照明に替えたのだ。人の気配で自動的に点滅するようになっている。

 「ついでに、玄関先も同じようにすればいいのにね」浩二は笑みを見せ幸子に言った。


 浩二は部屋のドアを開けた。

 その時幸子の鼻先を襲ったのは男くささだった。そして、その後に別の臭いがまとわりついた。

 男の臭いは浩二のものと思えばそれも愛おしくなる。が、異臭となれば別の話だ。

 「二、三日前、排水管が壊れてね。先日修理してもらったんだけどまだ使えなくて。水を流せばこの臭いも無くなると思うんだ。それまで、換気扇を回しっぱなしさ」

 電気をつけ部屋を明るくした。

 男一人の住まいとしては割とこぎれいに整理整頓してある。寝室とリビング、キッチン、そしてバスルームとトイレ。最新の設備が施されている。

 「このトイレは自動的に蓋が開くんだよ」

 浩二はわざわざトイレの前に進み出て、蓋が開くのを幸子に見せた。

 「まあ、手を使わずに開閉できるだけのはなしだけど」

 浩二はリビングにあるベランダに通じるガラス戸を開けた。

 「このガラスは二重サッシ、だけど太陽の光は入らない。洗濯物はすべて乾燥器まかせさ」

 浩二はベランダに出た。


 手摺の二メートル先には巨大なビルの壁がアパートを押し潰すような勢いで立ちはだかっていた。

 「御覧のとおり、ここは地上の穴倉さ」

 浩二は、ベランダから見えるかすかな青い空を仰ぎながら言った。

 「こんなアパートだけどサッチンのお目に適いましたか?」


 二週間後、幸子は今まで住んでいた賃貸マンションを引き払い浩二のアパートに引っ越してきた。

 同じアパート内で浩二と住めることに幸子は、親密さを感じた。いや、幸せと言ってもいいかもしれない。

 大学との距離は縮まり、時間の余裕もできた。それに賃貸料も、今までの半分以下となり、親への負担も軽くなった。

 幸子の心はこのアパートの暗さに反して輝き始めた。

 

 浩二の仕事は忙しくなり、帰宅時間は十一時過ぎとなっていた。

 幸子は浩二の部屋で夕食の準備をするようになった。もちろん、浩二と一緒に食事をするつもりで支度をしていた。

 ちょうどこの日は特に接待が長引き、浩二の帰宅時間は午前様となった。


 アパートに帰れば、いつものようにテーブルの上に夕食が用意されていた。

 二人分の食器が向かい合って置かれている。

 どうやら、幸子は食事に手を付けず自分の部屋に戻ってしまったようだ。携帯で、今日は遅くなるから食事は先に食べて、と連絡したのだが…。


 もうすでに時計は午前二時を回っている。

 今起こしては、かわいそうだ。ちょうど明日は休日。朝食はゆっくり二人で楽しもうと思案しながらテーブルに着いた。

 「サバの味噌煮か」

 幸子の料理のレパートリーも次第に増え始めた。腕もなかなかだ。

 今日は接待が忙しくあまり満足に食べていない浩二だった。

 炊飯器には炊き立てのご飯が中央に寄せられ盛り上がっていた。しゃもじで茶碗に盛ろうとしたとき、突然後ろに人の気配を感じた。

 振り返れば、幸子が立っていた。

 「い、いつの間に…」

 あまりの突然の幸子の出現に浩二は驚いた。

 てっきり、自分の部屋に戻って寝ているものと思っていたのに、音もなく現れたのだ。

 どこにいたのだろうか、僕の寝室で休んでいたのだろうか。だったら、ここに来るまで何らかの音がしてもいいはずだ。

 浩二は寝室の引き戸を見た。閉じられている。

 あの引き戸は最近うまく開閉ができなくなってきた。開け閉めする時、ガタツキ音が出るようになったのだ。

 

 耳に残る嫌な音を出す。

 その音が一切しなかった。


 「ここにいたの?」浩二は幸子に尋ねた。

 幸子はユックリと頷いた。

 「ご飯食べてなければ一緒に食べようか?」浩二は尋ねた。

 幸子は顔を横に振った。


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