ナックルパンチ
ストーカー男の名前は五十嵐 悟。二十八歳。
父親は区会議員を四期務める解体業の社長だ。
悟の素行を調べるとやはり色々問題を起こすトラブルメーカーだった。特に、女性関係のもめ事が多い。婦女暴行まがいの事件も起こしているようだった。表沙汰にならなかったのは父親が裏で何か画策したのだろう。
父親が暴力団と関係している噂もあるようだ。
浩二は、五十嵐が起こした女性問題を利用しようと考えた。
「サッチンにチョット協力してほしいんだ」
浩二はそう幸子に話を切り出した。
五十嵐は幸い、まだ俺の存在に気づいていない。やるなら早い方がいい、と浩二は考えていた。
奴を痛めつけたのが俺と分かれば死に物狂いで報復するだろう。しかも幸子と自分とのつながりを知れば幸子もターゲットにされる。これだけは絶対に避けなければ。
綿密に考えた末、浩二は幸子をおとりに使うしかないと考えた。
場所は暗い人通りのない夜道がいい。
幸子が一人暗い夜道を歩いて帰宅する。
周りは誰もいない。ストーカーにとっては願ってもないシチュエーションだ。
五十嵐がこの時を逃がすはずはない。
場所は公園沿いの裏道。幸子にとって通学路になる。
午後七時ごろまでなら人通りはあるが、夜中の十二時過ぎとなればだれ一人通る者はいない。しかもその道の反対沿いは、小高い木々が植えられている川べりで、なだらかに傾斜している。
街灯が途中一つしかないその通りは、川沿いの傾斜に入れば完全な死角になり叫び声も川音でかき消されるだろう。
案の定、五十嵐は幸子の背後二十メートルを尾行していた。幸子自身すでに五十嵐の気配に気づいている。
男の足が早まった。
道が舗装されていない砂利道なのでその歩調は手に取るようにわかる。
幸子は後ろを振り返らず、走り始めた。
五十嵐もわざと砂利を蹴り上げるように走った。
その砂利道を抜け、大通りに出るにはまだ二百メートルはある。
幸子は必死に走った。浩二が忠告したように走りやすいようにスラックスとスニーカーを履いてきたが砂利に足を取られ思うようにスピードが出ない。
五十嵐はステップを踏みながら、笑顔を浮かべて幸子を追った。
五十嵐は幸子をいたぶる楽しさで、周りの状況が見えていない。
明らかに自分とは違う足音が近づいてきているのに気づいていない。
十メートルまで幸子に近づいた時、突然川沿いの木と木の間から何かが飛び出してきた。
五十嵐の右側に現れたのは黒い人影だった。その正体を見定めようと足を止め振り向いたとき両目に激痛が走った。
五十嵐は思わず仰向けにのけ反り、砂利道の上に倒れた。
浩二は人差し指と中指で正確に五十嵐の両目を突いたのだった。
走った勢いもあり浩二の指は第二関節まで押し込むことになった。
浩二は思わず舌打ちをした。眼球は急所のうちの一つだ。下手をすればそれでショック死を起こすこともある。
五十嵐は必死に目を抑えのたうち回った。
「いてー」
どうやら、まだ意識はあるようだった。
浩二はゆっくりと五十嵐の体に跨り、耳元に口を近づけた。
黒いニット帽をかぶり、大きなマスクを付けた浩二は。、囁くように五十嵐の耳元で告げた。
「あんたに何の恨みもない。ただ、お前さんが以前ひどい仕打ちをした人から頼まれて今日、俺はやって来たんだ。お金をもらた分お前さんを痛めつけなきゃならない。悪く思わないでくれ」
このセリフは絶対に五十嵐の意識のあるうちに聞かせなきゃならない。
このセリフが後々ジャブのようにこいつの心に効いてくるのだ。
浩二の右手には金属製のナックルが嵌めてあった。右手を大きく振りかざし五十嵐の下顎を打ち付けた。
鈍い音が浩二の耳にも聞こえた。
浩二の祖父は空手の指南をしている武道家だった。幼い頃から空手の型を祖父から習い、段はとってはいないが高校生に入る頃には黒帯が巻けるほどの腕になっていた。その影響もあり大学では少し毛色の変わった少林寺拳法部に入った。
あの事故の悲しみを紛らわすために一心不乱に練習に励んだ。そのかいあって、国体で入賞した経験もある浩二だった。
五十嵐の顎ははずれ、折れただろう。しかし意識を失わせてはいけない。
「お、お前何者だ。こ、このままで…すむと…思うなよ」
五十嵐は必死の形相で唇を震わせながら浩二に脅しをかけた。
まだ、喋れる元気があるようだ。
痛みと恐怖を味合わせるのが目的だ。加減を考えながら、浩二は次に鼻骨あたりを砕いた。血が鼻の穴から溢れ出した。
鼻の辺りならあと二、三発食らわしてもいいだろう。
その前に浩二はもう一度五十嵐の耳元で囁いた。
「これから一人で、こんな夜道を出歩かないことだな。俺のように金をもらった命知らずがお前さんを狙っている。そんな奴がこれから次々に出てくるからよ。退院して、縁があったらまた会おうじゃないか。五十嵐ちゃん」
そう言った後、浩二は容赦なく五十嵐の鼻面にナックルを食らわした。
鼻骨は完全に折れて陥没、頬骨も砕け顔全体が凹面鏡と化した。顔面の修復に何年、そして何百万ぐらいかかるだろうか。浩二は五十嵐の顔を見て哀れに思った。
虫の息の五十嵐に浩二は告げた。
「これは俺からのプレゼントだ」
浩二は最後に、右胸の肋骨辺りに強力なナックルパンチを浴びせた。
肋骨は折れ肺も損傷したはずだ。
浩二はゆっくり立ち上がりあたりを見渡した。誰もいない。幸子もすでに立ち去った後だ。
多分この事件はマスコミが大きく取り上げるだろう。
見出しはこうだ。
『被害者が起こした女性暴行が発端の事件』
過去のこいつが起こし、うやむやになった事件が暴露される。捜査が始まれば、五十嵐の父親も手の打ちようがなくなる。
浩二は何も残していないことを確認しながらその場を立ち去った。




