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陽炎が通る道  作者: ハロル・ロイド
12/19

足音

それは風の便りだった。

別れて数年後に耳にした噂だった。

幸子は大学を卒業し、アメリカに留学し、そしてアメリカ国籍の男と結婚したようだ。

あの時、付き合っていた男とはすぐ別れたみたいだ。

原因はよくわからない。

あの時の俺の自己犠牲は一体…なんだったのか。

あの二人はあんなに仲が良かったのに…。


その頃、浩二は事業を立ち上げ仕事に没頭していた。

幸子への思いは、仕事の忙しさで掻き消されていた。

結婚したという噂を聞いて、浩二はなぜかホットしたような思いだった。悪く言えば肩の荷が下りたという気持ちに近い。


自分の人生の一区切りが過ぎた。節目を終えた。そんな感覚だ。

そして、幸子とのひと時の生活は甘酸っぱい思い出となっていた。


また、その数年後ある噂を耳にした。

幸子が自動車事故にあった、という話。

一体誰から聞いたのか定かじゃない。ホントかどうかもわからない。

その噂の真意を探ろうともしなかった。

ちょうどその頃、浩二の立ち上げた会社が行き詰り始めていた。

手形の不渡りをつかまされ、資金繰りに奔走していた頃だった。


人間は勝手なものだ。自分にある程度のゆとりがないと他人に思いを馳せることができない。

幸子の噂は噂として聞き流していた。

それより自分のことで精一杯の浩二だった。


幸子が交通事故にあった。ただ、それだけの情報だった。

それを聞いた翌日、浩二は自分の社屋で一人、その日の残務整理をしていた。

その日は、ちょうど今日のように雪が深々と降り落ちる夜だった。

午前零時。

浩二は椅子の背もたれに体を預け、両手を天井に挙げて座ったまま大きく伸びをした。

五人の部下達はすでに退社した後だ。

浩二は朝から机に座ったままの状態が何十時間も続いていた。

ここ一週間、会社で寝泊まりの状態が続いている。


会社といってもビルのフロアの一角、十五畳程度の部屋を格安賃料で借りているだけの佇まい。

しかもかび臭く、日当たりの全くない部屋だ。

ビルの警備員でさえ、この部屋は見向きもしない。

陸の孤島という言葉があるが、まさしくここはビルの離れ小島、普通なら物置小屋にしか役に立たない場所だ。

しかし、こんな部屋でも窓はある。

ただし、窓を開ければ隣のビルが目の前に。しかもその壁は手を伸ばしたら触れる位置にある。

開けるだけで息苦しい。

この部屋を借りた時、この窓が「開かずの窓」と命名されているのはすぐ納得がいった。

かつて、幸子と暮らしたあのアパートを思い出す。


「眠気覚ましにコーヒーでも飲もうかな」浩二は呟きながら、机にあるパソコンの電源を切った。

このビル内にある備え付けの自販機は、一階のフロアにある。

この時間帯はエレベーターの電源は切ってある。

結局、階段を利用するしかない。このビルは四十階。そして、ここは二十一階。

「行って戻ってくるまで、案外いい運動になるさ」浩二はいつものように、独り言を呟き椅子から立ち上がった。


浩二は階段を降り続けた。ステップを踏むような調子で。

薄暗い階段を、一人ひっそりと下りるのはあまりにも寂しい。

せめて靴音を軽快に鳴らし気分だけでも明るくしなければ。


十三階の踊り場に着いたとき、もう一人の足音が下から聞こえてきた。

浩二は立ち止まりその足音に耳を傾けた。

「警備員の見回りかな。しかし、普段の見回りはこの階段は使わないはずだが」


浩二が下りている階段は非常階段だ。四角いビルの四隅にある幅の狭い階段だった。

この階段は浩二の部屋のすぐ横にある。


ビルの住人は普段、滅多に使用しない階段だった。


階ごとに扉があり、内側から錠がかかっている。ただ、一階だけは開放にしてある。

この階段を使うとなると、フロアごとに通じるドアは閉じたままで階段側からは扉を開けることができない。

この階段を使えばフロアの見回りはできない。


ヒョットすると誰か他の会社の社員が居残ってるのだろうか。一階の自販機で俺と同じように買い出しに行ったのかな。

浩二はそう思いながらその足音に耳を澄ました。


カツ、、、カツ、、カツ、、、カツ、カツ

不規則な靴音。


その音は革靴ではなく、女性のハイヒールの甲高い音のようにも聞こえる。


体に障害でもあるのか、音は不自然に響いてくる。


浩二はユックリと階段を下りた。



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