【7】
再び、枕森に行ってみよう、と思った。ここに、何かがあるはずだ。
細い路地を抜け、敷地内に足を踏み入れると、ひんやりとした澱んだ空気に包まれた。以前に来た時より、暗く、不気味だった。
と、目の前の地面が、グズグズと溶け、泡立ちはじめ、あ、と、思う間に、そこは池になった。泥の腐ったような臭いが鼻孔を満たす。
広がりゆく池の中央あたり、ボコボコと浮かんで消える泡に紛れて、何かが浮いている。薄暗闇に目を凝らすと、それは人間の腕だった。
池の中で、男たちがもがいている。
「あああ、あああああああ」
「ひいいああああっ、ひいいい!」
ごぼごぼと泥水を飲み、這い上がろうと岸にしがみ付きながら、必死の形相で叫び続ける。
岸に、しがみ付こうとした指の跡を残して、男たちは再び水の中に引き戻された。
「いやだ、いやだあああああ!」
バシャバシャと水面を叩く音と、悲痛な声。
それに、クスクス笑う声が加わった。
白い手と、黒い髪が男たちに絡み付く。
「うわあああああ、やめ、やめて、たすけ」
悲壮な泣き声は、水中に沈み、ごぼごぼという泡が弾ける音に変わった。
虚しく空をつかむ手も、沈む。
対岸に、誰かが立っていた。
深沢?
池は対岸に向かって広がり続け、深沢の足元まで届いた。
だめだ。逃げろ。
叫ぼうとしたが、声にならない。
深沢も、ずるずると滑り落ちるように黒い水の中に飲まれていった。
「な、ごし」
名を呼ばれた方を見ると、池の中で白咲さんがこちらに手を伸ばしていた。
弾かれるように駆け出そうとして、けれど、足は縫い付けられたように動かなかった。
「ああ、ああ、白咲さん、しろさきさん!」
見る間に、白咲さんの顔は老い、腐り、溶け落ちて骨になり、水の中に沈んで行った。
絶望か、恐怖か、黒い何かが胸を締め付ける。
対岸がぼんやり光っているのに気付いた。黒く、長い髪の、高校生くらいの少女が立っている。
笑いながら、クルクルと踊るように、モノクロの景色の中、それだけが鮮やかに可愛らしい、ピンクの小さな何かを、細く白い指先でつまみ、うっとりと口に入れた。
少女は、誘うように手を伸ばした。
その先には、梶宮。ぼんやりとしていて、ふと、少女に気付き、静かに笑った。
ざあ、と、木の枝が風に揺すられる音が響いた。
無意識に視線をあげると、黒い木の枝と、生い茂る葉が見えた。
再び前を見ると、もうそこには、何もなかった。
硬い土の地面と、周囲のビルの壁。
「あ、あれ。え、あれ?
白咲さん? 深沢? 梶宮?」
池だった場所をおろおろと歩き、座り込んで地面を素手で掘った。
こんな事をしても、無駄だとわかっていた。けれど。
突然、顔が現れた。
怒ったような、女の顔が、地面の上に。
飛び退いて、尻餅をついた。俺は、叫んだんだと思う。
はっとして、気付くと布団の中だった。
時計を見ると、深夜の3時少し前。
夢? あんなに、リアルな。本当に、夢、だったんだろうか。
じっとりと汗をかき、恐怖に、まだ胸が苦しかった。
枕もとのタバコに手を伸ばし、ライターの火をつけた。
わずかに明るくなった手元に、視線のようなものを感じて、背筋が落ち着かない。
夏のせいだろうか、アパートがボロだからか。
どこか、近くの下水が詰まっているのかもしれない。
紫煙に混ざって、すえたように古い、水の臭いがした。