【12】
数週間後、乗務から戻ると、営業所長がその場にいた皆を集めた。
梶宮が、正式にアパートを引き払いに来る、その時、不要になった家具や家電を、こちらで引き取ってもらいたい、と言っている、と。
一つずつ、片付いていく。
俺は、冷蔵庫があったら、キープな、と告げて、自転車に乗って帰った。
営業所に現れた梶宮は、最後に見たときと別人かと思うくらい、明るくなっていた。
一人暮らしにちょうどよさそうな大きさの冷蔵庫をもらい、礼を言うと、うれしそうに笑っていた。
もう、これで終わるといい。これっきり、何も起こらないといい。
荷物を降ろした軽トラックで、梶宮は帰って行った。
見送って、一瞬、ちらりと見えたモノに、ぞくり、とした。
助手席に座る、桃色の飴を口に運ぶ、髪の長い女子高生の姿に。
気のせいだ。きっと、何も。
いくつかの台風が過ぎ、夏の暑さも落ち着きを見せ、湿度の低い、爽やかな日が続くようになった。
西谷さんに誘われて、一緒に枕森に行った。
あの夢の記憶が、まだ色濃く残っていて、気が進まなかった。
西谷さんに誘われたのでもなければ、一生、訪れることはなかっただろう。
枕森は、まるっきり印象を変えていた。
サワサワと心地よく葉を揺らす木陰は、キラキラと光が降っていた。
うまく表現できないが、拍子抜けするほどに、何もない、と思った。
「終わったのかも、しれないな」
西谷さんも、同じことを思っていたようだ。木を見上げて、静かに言う。
終わった。きっと、多分。けれど。
「連絡は、取らない方がいいだろうな。
向こうから、何か言ってくれば別だが。
道が、できてしまうから」
口を開こうとしたとき、西谷さんが、遮るように言った。
それだけで、俺には充分に伝わった。
(道ができる)
このあたりの、年寄りが使う言葉。微かな縁ができる、というような意味。
初めて遊びに来た人に、お土産を渡す。子供には小遣いを。
「道をつくろうね」
「道つくりだから」
と、一言を添えて。
贈り物をしたり、受け取ったり、お返しをしたり。
それを食べたり、家に置いたり、使ったり。
誰かを気にかけ、噂話をすること。実際に連絡を取ること。
時候の挨拶をしたり、手紙を出したり、出会った時に声をかけたり。
道は、辿ることを繰り返し、太く濃くなっていく。
バスの運転手は、道を創る仕事なのかもしれない。
道路工事のような、実質的な意味ではなく。
本来、歩いて移動しなければならない人を、本来はないはずの移動方法で、人目につかぬように、素早く別な場所へ運ぶ。バス停とバス停、始発と終着。点を繋いで線にする。バスの路線は、新しい「道」だ。
梶宮は、これからどうなるのだろう。
何一つ、してやること、俺ができることがないのは、痛いほどわかっている。が、このまま手を引くことが、どこか、見捨てるような気がしていた。梶宮一人に押し付け、逃げ出すような。
白咲さんや深沢の事も、もう過去の事として「思い出」というヤツに昇華していくしかないのだろう。
西谷さんには、もう、関わってほしくなかった。平穏な老後を送ってほしい。
そして多分、西谷さんも俺に対して、同じように思ってくれているのだろう。ここから先、俺一人が責任を感じて、ピリピリとし続けることがないように、と。
枕森。
売られ、買われて沈められた女たちの眠る沼。
今は埋め立てられ、真っ暗な地の底に封じられて。
人の欲、そして、業。そんなモノも、一緒に沈んでいる場所。
誰かの欲が生んだ禍事。
そこから給与という形で金をもらっている、俺自身も同罪だ。
その、裏で。
「さ、いこう。メシでも食って帰ろうか」
どこかすっきりとしたような西谷さんの笑顔に、何か空恐ろしいものを感じたけれど、俺も、笑顔を作って、はい、と返した。
底知れぬ罪悪感の裏側に、拭い難く、強い、確固とした安堵が広がっていたので。こんな面倒な事は、もう忘れてしまいたい、という思いがあったので。
あの夜、恐怖に震えながらアパートのドアを必死に叩き、俺の顔を見て泣き出した梶宮の顔や、悪夢の中、俺の名を呼び、手を伸ばした白咲さんの姿がちらりと過った。
人の身勝手さ。
俺はこれからも、丸豪バスで働き続けるだろう。
そうだ、振り切れぬ者は、引きずり込まれるだけ。
俺は、俺たちは、封じられた場所を去る。
今はもう、何もなくなった枕森に、別れも告げずに背を向けた。