【10】
近所の手前もあり、廊下で泣かせておくわけにもいかず、無理やり立たせて部屋の中に入れた。梶宮は、しばらくの間、わずかな物音にもビクビクしていたが、泊まっていけ、と、声をかけ、布団を用意し終わる頃には少しずつ落ち着いてきた。
着替えを渡し、試しに、風呂は? と聞いたが、必死に頭を横に振って、布団をかぶった。
西谷さんから聞いたことがあった。失踪する前、水回りが怖くて風呂に入れない、と言っていた運転手がいた、と。
時折、すすん、と、しゃくり上げるように寝息を乱す梶宮の横顔を見ていた。
部屋の電気は、棗球のみで薄暗い。寝付くまで布団をかぶって嗚咽を漏らしていたが、さすがに暑かったのだろう、今はほぼ布団を肌蹴て寝ている。髪は額に張り付き、まつ毛の淵が涙で濡れている。
ケータイの画面を見ると、時計は、11時前を表示していた。元上司にかけるにはかなり非常識な時間だが、再び、西谷さんを呼び出した。
すぐに受話器の向こうから、西谷さんの声が聞こえた。
「名越君か? ああ、心配していたんだよ」
ほっとして、声を潜めて、通話を切った後にあったことを話した。
「そうか。次の犠牲者――梶宮君、といったね、必ず、6番路線から外させるようにするから」
「西谷さん」
「うん?」
胸が詰まって、声が震えた。
あの日見た夢が、脳裏から離れない。
いい年をして、情けない。が、怖かった。
「大丈夫、でしょうか。梶宮は。
このまま、朝になったら、消えてしまっていたりしないでしょうか」
いなくなってしまう。得体の知れないものに、消されてしまう。
水の底に、引きずり込まれてしまう。
自分の身に起こっている事でも、きっと恐ろしいだろう。さっきの梶宮の表情を見ていれば、どれだけひどい目にあったのか、どれほど恐ろしかったのか想像がつく。けれど、わからないのも、恐ろしい。何が起こっているのか、いつまで続くのか。目の前に、怯え、泣いているやつがいるのに、何もできない。
「名越君。
君は、できる限りの事をしてくれている。
近いうちに、一緒に食事でもしよう。な、いいだろう?」
はい、という声は、かすれて震えた。
結局、一睡もできずに朝を迎えた。
ざっとシャワーを浴び、梶宮を起こした。
バスの運転手は、接客業。こんな格好で乗務させるわけにはいかない。朝なら、まだましだろうと、風呂は、と聞くと、お借りします、と答えた。
簡単に朝食を用意し、一緒に食い、無言のまま、並んで出勤した。
西谷さんが話を通してくれていたのだろう、その日以降、梶宮が6番路線を担当することはなかった。
梶宮は、日を追うごとに落ち着いていった。
田舎は涼しかったから、こっちの暑さは堪える、早く夏が終わって秋がこないかな、と、不平を言ったりしていた。
6番路線を担当しない事に気付いているはずだったが、その事については、特に何も言わなかった。
何事もないような日々が続いて、もう大丈夫だろう、と思った矢先、真っ青な顔をして、寝癖だらけで、櫛も通さないような頭のまま、梶宮は営業所に現れた。
「突然、すみません。今日限り、辞めます」
感情のない声でそう告げる梶宮に、誰も、何も言えなかった。
「田舎に、帰るのか?」
何とか声をかけると、
「いろいろ、ありがとうございました」
と、梶宮はぺこりと頭を下げ、営業所を出て行った。




