第五夜 兄妹の稽古
僕は貸してくれた和室に着がえを置きながら、媛奈を振り返って片手で拝んだ。
「悪いね、媛奈」
「別に構わないわよ。霧人だったら」
私服の水色のワンピースに着替えた媛奈は苦笑して柱の一本に寄りかかる。そして手でその部屋を指し示した。
「ここは客間だから好きに使ってくれて構わないわ。何か必要な物はある?」
「特には。あ、トイレの位置だけ把握したいな」
「トイレはここを出て廊下を右に歩いて突き当たりを右、曲がり角を左に曲がった所の突き当たりにあるわ。変な部屋に入らないでよね」
「ああ、大丈夫だ。あ、蕾の部屋と媛奈の部屋だけは把握しておきたいんだけど」
「私の部屋はここを出て廊下を右に歩いて突き当たりを左に折れて、そこから二番目の襖。蕾ちゃんはここの左隣よ」
「複雑怪奇ままならないな……」
「そうね」
くすくすと媛奈は笑うと部屋の外を指して訊ねる。
「お風呂にする? それとも少し早いけどご飯にしようか? 作ってあげるけど」
「いや、世話になっている以上はな。僕が作るよ」
「……作れるの?」
「意外そうだな。一応、作れるぞ。家庭料理レベルなら。ヴイヤヴェースを作れなんて言わないでくれよ」
「作れるの?」
「ズッパなら作った事がある」
「え、ズッパって?」
「ヴイヤヴェースのサフランがないバージョン」
「それじゃ、作れるんじゃない?」
「いや、サフランが高くてな」
僕は首を振って苦笑すると、着がえの荷物を部屋の隅に追いやってから媛奈の方へと歩み寄る。
媛奈はくすりと笑うと襖を開けて廊下に出る。鶯張りのようにミシッと廊下の床板が悲鳴を上げた。僕も続いて出ると彼女は謳うように言った。
「じゃあ、手伝って貰おうかな。劣等生クン?」
「仰せのままに。優等生サマ」
二人で思わず可笑しくなって笑いながらその廊下を歩んだ。
「ごちそうさまです。媛奈さん」
蕾は黙々と食事を終えて箸を置く。媛奈は少し引きつった笑みを浮かべて頷く。
「うん……もしかして、美味しくなかった?」
「いえ、美味しかったですが」
「――なんか、不満な事でもあった?」
「いえ、全く」
淡々と答える蕾。それが媛奈には不機嫌に感じられて仕方がないのだろう。僕もどこかそんな気がしてならないのだが――。
蕾はふぅとティッシュで口元を拭くと、どこか剣呑な眼差しで僕を見つめた。
「え、あ、何でしょう?」
「霧兄ぃ。稽古に付き合ってくれる?」
「あ、はい、了解です」
「媛奈さん、裏庭使っても宜しいでしょうか?」
「う、うん、良いけど……」
「霧兄ぃ、竹刀持って来て。裏庭で待っている」
「お、おう……」
蕾は淡々とそれだけ言うと一礼して、食堂を辞した。それを見送りながら僕はううむと唸りながら作った野菜炒めを口に運ぶ。
醤油味の野菜が口一杯に広がるのを感じながら横目で媛奈を見ると、彼女も少し困った様子で小首を傾げて嘆息する。
「――蕾ちゃんに嫌いなものってあったっけ?」
「食物では多分、ないはず」
「じゃあ、何かある?」
「うーん、桂さんの所にいた頃から何となく不機嫌そうだったからなぁ……やっぱり機嫌取っておかなきゃ駄目だったか……いつもはコンビニのケーキを帰りに買ってあげるんだが」
「――何でコンビニのケーキ?」
「ファミリーメイトのモンブランがお気に入りなんだよ」
「へー」
ちなみにファミリーメイトは今時珍しい午前十時から午後十一時までしか営業していないコンビニなのだ。スイーツとおでんが非常に美味しいと評判である。
略してファミメという事も多々。
僕は少し悩みながら味噌汁を飲む。彼女の作った味噌汁は鰹出汁が効いていてなかなか美味いものであった。
竹刀を部屋から取った後、媛奈に案内されて裏庭に行くと、すでにそこではジャージ姿の蕾が月明かりが生み出す影から抜いた影太刀を振っていた。真っ黒い太刀を見事に扱いこなしている。僕が来たのを見ると、自ら影に太刀をしまって脇に置いてある竹刀を取って構えを取った。
僕は裏庭に降り立ちながら、竹刀を構えながら少し弱気になって呟く。
「――お手柔らかに頼むよ」
「手加減は、しませんから」
次の瞬間、僕の竹刀に重い襲撃が伝わってきていた。反射的に持ってきた自分の竹刀に、いつの間にか肉迫していた妹の竹刀がギリギリと強く加重を掛けてくる。
僕はもう片方の手を添えてその竹刀を跳ね返すと、渾身の力で竹刀を薙ぐ。だが、すでに彼女は消えていた。
「あ」
媛奈の声と同時に、僕は視線を下に下げるとそこには蕾がそこを陣取っていた。
「突きッ!」
鋭い叫び声と同時に顎の下に激しい衝撃が走り、僕は思いっきり後ろ向きに倒れた。
「――敵わないなぁ、蕾には」
「霧兄ぃ、手加減しないで。成績が悪いんだから少しは体育の成績で補おうとは考えないの?」
「そうは言いましてもねぇ……」
僕は起き上がりながら辺りを見渡す。僕らの立っている場所は芝生だが、後ろの植え込みとの境には岩で仕切られている。蕾の背後も同様だ。
強く踏み込みすぎたら芝生も剥がしてしまう。無理な動きをして倒れたら頭を打ってしまうかも知れない。植え込みにある木々や花々を汚してしまうかも知れない。
その点で僕は本気になれなかった。
それに苛立ったのか、蕾はぎり、とわずかに歯ぎしりの音を立てるとすぐに僕に飛びかかってきた。肉迫しての切り上げるような大振りな薙ぎ。僕はそれを足技で弾くと、上段から一気に竹刀を振り抜いた。
咄嗟に蕾は竹刀を引き寄せてその竹刀を弾く。その間に僕はタックルするようにして彼女の身体に肘鉄を叩き込む、その刹那、蕾の身体がぐらりと揺れた。
岩で躓いたのか! 僕は咄嗟に竹刀を捨て、彼女の腕を掴む。ぐっと踏み出した足を踏ん張り、蕾を抱き寄せた。蕾は体勢を崩しながらも腕を突き出して僕の身体を掴んでいる。
「――ふぅ」
倒れずに済んだ事を確認し、僕は抱き締めていた蕾の身体を離し、苦笑して見せた。
「だから本気になれないんだろ?」
「……ん……」
蕾はどこかとろんとした瞳で僕を見つめていた。が、すぐにぱっと身を離すと顔を背ける。
「あ……ありがと、霧兄ぃ……」
頬が赤いのは気のせいか、どうか。
僕は笑いながら竹刀を拾い上げて構え直した。
「もう一本、やるか?」
「うん」
「少しは手加減してくれよ」
「しない」
「えー」
月下、二人の影が交錯する。その様子を媛奈は楽しそうに眺めていた。




