第九夜 〈影〉使い達の激戦
咄嗟に手で『外に敵』と表現したのが助かった要因か。
顔を真っ赤にして振りかぶった拳を止めて、媛奈は息を呑む。
僕は静かにするようジェスチャーしながら腰に手を伸ばす。ベルトに下がっているポーチから注射器を取りだして耳を澄ませる。左右からは小さな息づきが聞こえる。どうやら暢気にお嬢様方々はトイレをなさっているらしい。すると左側からじょろろ……という放尿の音が聞こえ始めた。
僕は冷静にその場で膝をつくと下の隙間に注射器を差し込んで左、右と送り込んでいく。数秒間待つだけですぐに僕は立ち上がって頷いて見せた。
「もう大丈夫だ。……何というか、悪かったな、媛奈」
「び、びっくりした……く、来るなら来るってメールしなさいよ!」
媛奈は手でまだ晒されている股間を隠しながら真っ赤な顔の涙目で訴える。僕は外の様子を伺いながら小さく笑った。
「じゃあ、メールすればいつでも良いのか? お風呂でも?」
「い、言い訳無いじゃないっ!」
真っ赤な顔で憤慨する媛奈。僕は笑いながら外に出ると、媛奈は慌てて扉を閉めた。すぐにトイレットペーパーを引き出す音が聞こえる。
一方の僕はその場で思わず前屈みになっていた。
うお……男の性が、今ここで……。
薄明かりの中、クールぶっていたけど、実は結構危なかったりする。社会的に。
世間虚仮、般若心経、八幡製鉄所……。
僕は携帯電話を取り出しながらメールを打ちつつ熟語を必死に頭の中で反芻する。
その必死の精神力の甲斐があって、媛奈が紅い顔をして出てくる頃には自分は澄ました顔で背筋を正して経っている事が出来た。
「や、媛奈」
「ん……他の二人はどうしたの?」
「見れば分かると思うけど、寝かせて差し上げた。かなり強力な催眠ガスだからすぐには目覚めないよ」
「へ……ぇ……」
よっと掛け声を掛けながらトイレの個室を這い上がり、中を覗き込んで納得したように頷く媛奈。それをさり気なく庇うように出口の方へ近づきながら、もう一振りの絶影刀を抜く。
それと同時に、出口の方で殺気が爆発した。
始まった剣劇の音にびくりと媛奈は身を震わせる。
「な、何なの……?」
「今、美夜先輩が戦っている。さっきまで睨み合っていたみたいだけど……あーあ、こんな激しく戦っちゃって、後始末が大変だな……」
僕はぼやきながら女子トイレの窓を押し開けて下を眺める。
そこに設置されたドアは少ししか開かないように固定されているので、出る事は難しそうだ。だが、下は路地裏なのでいざとなれば窓をぶち破って逃げる事も不可能ではない。
だが、それは最終手段だ。音を聞いている限り、美夜先輩はなるべく建物を傷つけないようにしている。多分、他の〈絶影〉の人間は周りから人を遠ざけてくれているはずだ。ここで僕達が片づければ何も問題ない停電事故だけで終わる……!
その瞬間、美夜先輩の身体が出口から弾け飛んで大きな鏡に叩きつけられた。
「先輩ッ!」
「くっ……はっ……」
苦しそうに肩で息をつく先輩。辛うじて立ち上がって胸を押さえながら、僕の方へ近寄ってきて僕らを庇って笑う。
「お姫様を助けにちゃんと騎士は来たみたいだね」
「はは、そうしないと怒られますので……」
僕は苦笑いしながら美夜先輩に並ぶようにして大振りのナイフを構える。美夜先輩は荒く息をつきながら、影からまた黒いクレイモアを抜き放つ。
それとほぼ同時に入ってきたのは先程の紅薔薇と男女一名ずつであった。
紅薔薇は僕を見て柔和に微笑みかける。
「また会いましたね。霧人くん」
「紅薔薇さんもご健勝のご様子で何よりです」
「少しばかり危なかったですけどね。そこのお嬢さんにやられ掛けて」
そう指差された美夜先輩は警戒してクレイモアを構えている。だが、肋をやられたのか苦しそうな息だ。僕は苦笑しながら言う。
「かく言う彼女も少し苦しそうなのでお引き取り願えますか?」
「はは、用件が済んだら引き取りますがね」
紅薔薇は余裕ありげに微笑む。背後の二人が静かに獲物を抜いて構える。それを一瞥しながら僕は涼しい顔で訊ねる。
「して、用件とは?」
「野和のお嬢様をお迎えに差し上げました」
「はてさて、アポがあったとは彼女から聞いていませんが」
「すみませんね、アポなしのもので」
「次からはアポをしてからお越しになって下さい。それなりに僕達もお茶菓子などの準備をさせて頂きますので」
「はは、そうも行きませんよ。ここでケリをつけさせて頂きましょう」
僕は時計をちらっと見る。
彼女の五十メートルのタイムは七秒程度。かなり速い。それで計測すると、ここまで来るのに多く見積もって十五秒ほど……。
その隙に紅薔薇は鏡の薄明かりで両手に武器を作りだして構えている。小さな鎌、というのが気になるが……。
「気をつけて……霧……くん」
息を切らしながら美夜先輩が身体を近づけて早口に囁く。その間に紅薔薇は武器を振りかぶっていた。投擲まで一瞬。僕は後ろ手で腰にぶら下げていたある物を掴んでいた。
あと五秒……足音がわずかに聞こえる。
僕は計測を止めて先輩に早口に言った。
「媛奈のこと、お願いします」
そう言いながら自分の能のない頭をフル回転させた。
鏡の方向の光量は低い。
が、自分たちの方に光は向いている。
彼女はもう七秒足らずでつく。
敵は三人。
こちらは護衛対象が一人。
護衛できる人間が二人。
美夜先輩の武器はクレイモア。
紅薔薇の武器は小さな鎌二つ。
他の敵は剣と斧。
何か懸念事項があり。恐らく紅薔薇について。
その瞬間、紅薔薇が鎌を投擲する。それは緩やかに僕の胸元へと向かってくる。それがスローモーションではっきりと分かる。
僕は鏡の方の照明から発せられる光でぼんやりとした影が僕の足下へと近づく。
僕は一歩出してその影を踏む。それと同時に後ろ手に握っていた懐中電灯のスイッチを入れながらその宙で僕の胸を狙う鎌を照らした。その強烈な光が敵の背後の影に強烈な影を残す。
先輩はそれを見て全てを察していたようだ。素早く媛奈を庇い、クレイモアを床に突き立てて盾代わりにする。僕はそれを確認して素早く、膝を軽く曲げながら飛んだ。
次の瞬間、重力方向は前方に感じる。
つまり僕は壁に姿を現して三人の背後を取るような形となっていた。
背後について全く警戒していなかった男女二人の首筋に懐中電灯と絶影刀の固い部分を容赦なく振り下ろした。こういうのはプロがやらない限り綺麗に意識は刈れない。
だから容赦なく殴る。
そして重力が僕の身体を地面へ叩きつける前に壁を蹴り、紅薔薇の頭目掛けて絶影刀を振り下ろした。
だが、紅薔薇は身を翻して手に持っていた鎌で絶影刀を受け止めていた。
紅薔薇はゆっくりと凶悪な笑みを浮かべて見せる。
「指定した影に飛ぶ能力か。良いね、そういう能力、好きだよ」
「生憎、告白されてもうちには姫様がいるものでね」
「おやおや、媛奈お嬢様かい?」
ため口になって戯けて言う紅薔薇。その豹変に僕は苦笑を漏らしながら地面に軽く足がつくのを感じながら笑って言った。
「いいや、お姫様はもっと剣呑さ」
僕はすぐに膝に力を抜いてその場でしゃがみ込む。
その頭上を通り抜けて凄まじい速度で何かが通り過ぎた。紅薔薇は目を見開いて鎌を構えるがその鎌を押しつぶす勢いの一振りで紅薔薇は横の鏡に頭から突っ込んだ。
ガシャンと凄まじい音が響く中、僕の隣に降り立ったのは可憐な少女であった。
だが吊り目でその手に握られた無骨な背丈ほどありそうな黒い太刀は剣呑な光を放っている。その組み合わせは限りなくアンバランスだ。
「霧兄ぃ、時間稼ぎご苦労様」
「全く、人使いの荒いお姫様だ」
そこに立っていたのは我が妹、蕾であった。




