◆08◆
結花で一色の稜輔と別れた後、俺は気の抜けたまま掲示板を眺めていた。何分そうしていたのだろう、ずっと同じ場所を見つめていた。何度彼女の名前を見ても、あまり実感が湧いてこなかった。
そういや前にも似たようなことがあったなと合格発表の日を思い出した。あの日も確か、ここに来たはずだ。今日は二度目のはずなのにこの場所への来方がちんぷんかんぷんだったなんて、本当に俺は……と再度自分に言う。もう終わった話なのにやはりまだ俺は、自分の馬鹿さに少し落ち込んでいた。
いやでも、あの時は案内の看板が道順にあったじゃないか貴幸、などとそんな問答を一人している時だった。
「きゃっ」
思いがけない薫風に後方の誰かが驚いた。聞き覚えのある人声だった。
振り向くと少女が一人立っていた。彼女はやや目線を足下に落としていた。可愛げに今にも捲れてしまいそうな頼りない膝よりも少し上の丈のスカートを押さえ、白い肌に引き立ったその初々しいまでの紅い頬を益々紅潮させていた。
「――君……」
そう乾いた口を開いた途端に、何かが薄桃色の花弁と共に俺の眼前に飛ばされ一瞬にして視界を塞いだ。顔に覆い被さったそれを息と一緒に吸い込みそうになる。微かに、あのバスの車内で香った匂いが甦る。そうか、あれは桜の薫りだったのか。
顔のそれを剥がすと、正体はピンク色をしたハンカチだった。本当に今思うと、彼女は何というか……どうしてあんなにも期待を裏切らない少女だったのだろうか。
張り付いていた数枚の花弁を取り、あっ、と声を漏らす少女に差し出した。
「君、俺に声を掛けてくれた子だよね?」
「乗り過ごさなくてよかったね」
「はは、ほんとに……。ありがとう」
気まぐれの風はもう通り過ぎていた。彼女は僅かに乱れた髪を整えるために、押さえてたままだったスカートから手を離して、右手は髪を気にし、左手でハンカチを受け取った。
「ううん、こっちこそハンカチありがとう」
初めて見せるその微笑は、俺に疑問の念を抱かせた。
瞬く間に眠っていたはず記憶が甦ってきた。
「……君ね」
「うん」
「寝言言ってたんだよ」
唐突に、彼女は話し出す。
「え?」
「ふふ、寝言言ってたの。あたし君の後ろの席に座ってたんだけどね、前に座ったかと思えばすぐに寝息が聞こえてくるし。入学式の日から相当疲れてるのかなこの人……って見てたら何か言ってるの。え? って思ったんだけど、聞いてたら確かに君がもごもご呟いてた」
「マ、マジで……?」
「うん、そう。もうあたしおかしくておかしくて。ずっと笑い堪えてたんだよ? 高校前になっても起きないから、君のこと知らなかったけど声掛けたの」
ほんと、おかしかったなあ、そう言う彼女は想像していた以上に声を上げ、お腹を抱えて笑い出す。
「……」
先程の彼女の様子が移ったかのように、みるみるうちに赤面してゆくのが自分でも分かった。
「カオ、真っ赤だよ?」
首を傾げてくすっと一笑した後、また思い出したように止まらぬ笑いに落ちる彼女。
「俺、何て言ってた?」
「ん〜、何て言ってたかはあんまり聞こえなかったなあ」
「ならいいけど……」
「あはは、残念っ」
少女は少し前にはやった某芸人の真似をしてみせる。この芸を見たのは一体何時ぶりだったろう。他の人間かこんなことをしたらきっとしらけるだろうけど、彼女だったらそうはならなかった。君なら何をしても許される、彼女はそんな容姿をしていた。
「君、おもしろいね」
「そう……? てか、よくバカって言われる」
「うん、ちょっとおバカかもね……。あはは!」
これ程の至近距離でこの少女の満面の笑みを、まさか自分が見れるとは思わなかった。
「あ、そうだ。言ってなかったね」
少し笑いの落ち着いた彼女は言う。
「うん?」
「あたしの名前はね」
「――ああ」
「瀬之崎」
「藍、だろ?」
「え……」
「知ってるんだ」
過ぎたはずの芳春愛でる甘い薫りが、再び俺達の身体をすり抜けてゆく。
これが、俺と彼女の出逢いだった。
今のところ毎日更新しておりますが、三日坊主の私なので一体いつまで続けられるのか分かりません……(笑)
昼ドラのようなどろどろな話を狙っています。というかそんな内容です。
話の展開としては本当に始まりの方なので、まだ10分の1程度かと思います。申し訳ありませんが、もう暫く冒頭部にお付き合いくださいませ。