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◆06◆

「集中夏期コースっていうのはな、夏休みの間に重点的に勉強するためにあるんだよ。今のお前には最適だろ?」

 翌日学校で会った健太は俺に塾について教えてくれた。俺は今まで野球のことしか頭になかったので(杏奈は別だが)本当に塾については無知だった。考えようと思ったことすらないし、もちろんそれまでに一度だって学校以外の場所で勉強をしようだなんて思わなかった。

「兄貴にはちゃんと教えてやってくれるよう頼んどくからさ」

 俺が通うことにした塾には、健太の兄貴が勤めていた。英語と数学を教えていたが、健太と同じで頭が良く、教え方が上手いので塾内でも人気のある講師だった。

 健太が薦めてくれたその『集中夏期コース』は俺のようなできの悪い生徒用のクラスもあるので、夏休み中はそこに通い、その後は普通のクラスに入るようになった。



 勉強なんて大嫌いだった。

 健太は運動が得意だった。頭も良いし、おまけに顔もかっこいいので女子からも騒がれていた。健太は一見天才肌のように見えるけれど、実は誰よりも努力家だった。毎日どんなに疲れていても夜遅くまで机に向かっていることを俺は知っていた。野球ばかりをしていた頃は、そんな健太が理解できなかったし、それにもの凄く羨ましかった。どうしてあんなに熱心に取り組めるのだろう、と。



 しかし目標に向かっていたあの中学三年の夏、俺は違っていた。愛用のマイグローブ、バット、ボール、全てにさよならをして庭の倉庫の奥深くに封印をした。そして今までろくに座ったことのなかった、埃と積み上げられた漫画だらけの勉強机を整理して、黙々と勉強に明け暮れたのだった。

 布団に入る時にはさすがに疲れきっていたが、不思議とそれは苦ではなかった。止めたいとか、もうこのくらいでいいだろうとか、そういった怠けた気も全くといっていい程起こってこないのだ。

 俺には杏奈と同じ学校へ通うという目標があった。それに真っ向から突き進んでいた。

 あの時になって初めて気付いたのである。そうか、健太にも何かしらの強い意志があって、それへ進んでいるのだと。

 でもその大きな志が一体何なのか、俺には予測すらつかなかった。



 夏休みに入ってからは凄まじかった。自分が想像していたよりも遙かに多くの課題に取り組まなければならなかった。

 蘭城高校の一般入試の学科試験は、国・数・理・社・英の五教科の内から自分の好きな三科目を選択し、受験をする。これは本当に有り難かった。それはもう、理事長に直接会ってお礼を言いたいくらいに。

 公立の高校を受けるのは五教科が必須だった。ただでさえ馬鹿だというのに、そんなに多くの教科を学んでいたらそのうちきっと、夏の暑さに頭がやられてしまっただろう。蘭城高校にもそうだが、杏奈にもまた感謝をした。彼女が公立の学校を受けるとあの時稜輔から聞いていたら、今頃俺はどうなっていただろう、そう思った。

 俺は数学、理科、英語の三科目を受験することにした。

 理科は五教科の中で一番に得意だった。化学式を答えろとか言われても、それはちんぷんかんぷんだったのだが、おかしな言い方をすれば生まれ持った男の感というか、妙に理科だけに関してはテストの点数もそう悪くはなかった。言うまでもなく、理科についても同じで、勉強はしたことはない。

 また数学と英語は、健太の兄貴がその教科を教えているというので選んだものだった。理科以外の四教科のできは、どれも似たり寄ったりだったのである。



 俺はその三教科を習うべく塾へと行ったのだが、夏休みのコースはたいてい昼過ぎに授業が終わった。

 夏休みから通い始めた奴なんてそうはいなかったので、皆は受験生と言えども、勉強が済むとさっさと友達同士でファーストフードやゲームセンターに立ち寄ったりしていた。健太はおそらく寄り道はしていなかったろうけれど、彼もとっとと帰宅していた。

 しかし、俺にはそんな余裕がなかった。家に帰って勉強すればいいのだが、それができない。できるのは塾で出された宿題とか復習くらいで、そう、予習ができないのだ。

 だから俺は、授業後は生徒のために開放してあるクラスに一人残り、滴る汗で問題が滲んでもめげずに精を出した。授業が済んだ後は講師が冷房を切って教室を出るのだ。またここも省エネかよ、と暑さに苛立ちながらも、それでも頑張った。

 ちょくちょく健太の兄貴の元へ顔を出した。この数式はどう使うのかとか、その訳が分からないとか、色んなことを尋ねた。分からないことは全て聞いた。知っている人だったのであまり遠慮もしなかった。というか、脳内にはそんなこと考えるスペースはなかった。

 彼はとても熱心に指導してくれた。基礎的な公式を知らなくても、文法を覚えるのに時間がかかってもずっと待ってくれたし、コツもたくさん教わった。はたまた、範囲外の理科も教えてくれた。

 後になって知ったのだが、あまりにも真剣に俺が勉強をし始めたので見かねた健太が彼に相当頼んでいたらしい。多分、それほど熱心にし出すとは思っていなかったのだろう。

 そんな感謝すべき健太をよそに、俺は健太も彼のように気の長い人間になればいいのに、などと思っていた。まあそれはその時初めて思ったのではないが。でもそんなことは口が裂けても本人には言えないことである。



「おーい、貴幸。もうそろそろ帰れよ」

 午後六時を回って来た頃、決まって彼はやって来た。俺はろくな休憩も入れずに紙と睨めっこをしていたから時間の経過を意識していなかったのだ。

 買ったばかりなのにもう汚れの目立つ教材をしまい、今日も終わりかと家路につく。そんな日の繰り返しだった。

 あれ程勉強をしたのには後にも先にもないだろう。いや、絶対にない。あの期間は健太よりも勉強をしていたはずだ。

 最初はあまり協力的でなかった母さんも、夏休みの後半にはちょっと休んだ方がいいんじゃないの、と身体に気を遣い始めた。勉強のやり過ぎで心配されることなどそうはないだろう。

 違う塾に通う稜輔から用事で電話がかかってきた際に、その話をすると最初彼は半信半疑だった。杏奈に対する想いが強いことは知っているけど、あの貴幸が勉強を? というふうに。

 でも、そんな彼も信じざるを得ない成果が序所に目に見え出した。



 九月も半ば、隣では余裕の蘭城高校A判定の健太と稜輔が、先程担任に渡された俺の用紙を覗き込んでいた。

「マジかよ……」

 驚きを隠せない様子だった。二人してもう一度、いや二度と俺の名前欄を確認する。しかし、その欄には何度見ても藤森貴幸の文字があった。

「マ・ジ・だ・よっ!」

 夏休み前に受けた時にはE判定だった模試の結果が、体育祭が終わる頃には見事B判定になっていた。点数からしてギリギリB判定ということだろうけど、でもそれは合格圏内には変わりなかった。

 人間、その気になれば何でもできるというのは嘘だが、このくらいはまだ容易い方だ。でも、嬉しかった。

「うお〜!? マジかぁ! やったな、おめでとう、貴!」

 自分のことのように喜ぶ稜輔や健太の顔が少し、ほんの少しだけ今にも零れ落ちそうな涙で滲んでいた。



 季夏直後の空からはまだ燦々と日が照りつけていて、窓辺から見上げた青色はどこまでも澄みきったまま広がっていた。

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