◆16◆
皆が驚くのも無理はなかった。同じ中学だった人間はこのクラスに俺と健太と稜輔、あとは彼女とその女友達しかいなかったのだ。入学式前のあの短時間で、人の品定めをする人間なんてそうはいない。
「トイレに行っていたら、教室の場所がわからなくなって」
栗色でセミロングの、流行ど真ん中とでもいうような髪の毛は降り注ぐ日で光り、益々それは明るめの茶褐色を帯びていた。
「一度事務室まで戻って、場所を聞いてましたぁ……」
乱れた髪型を素早い手付きで元通りにしながら、香坂杏奈は恥ずかしそうに顔を赤らめて教卓の担任へと理由を説明した。
「ああ、聞いてるよ。君の席は、あの空いてるところだから」
またもや相澤はくすりと一笑し、白い粉で汚れた手を軽く払った後に、彼女の机を指した。
彼女はそそくさと空いている席に向かい、藍の丁度前に腰を下ろした。
そうだった、実は彼女の座席はかなり俺の近くだった。藍の前だから、つまり俺から見て左斜め前だということになる。相澤が教室に入ってきて、クラス全員が席に着いた時に分かったことだった。
ほんの一メートル先に、憧れの君の背がある。夢に描いていた通りの好シチュエーションだ。欲を言いうと本来なら隣同士がベストなのだが、しかしそれでは周りの男共から常に睨まれて気が気じゃいられないだろうし、それに第一、今の隣の少女でも全く申し分がない程可愛い子だ。だからこれ以上は何も言うまい。
俺は改めて、机の下でガッツポーズをした。
「これから自己紹介するんだけど、この黒板に書いてあること言うんだ」
杏奈が座り終えると、相澤はざっとそんなことを彼女に説明していた。
今まであれ程自己紹介のことだけで騒いでいたというのに、今度はクラスメイトの殆どが話題を彼女にすり替えていた。また、隣の少女も例外ではなかった。
「芸能人みたいだね」
自分の世界に入り込み、込み上げてくる嬉しさを隠すことに必死だった俺は、声を潜めながら顔を近寄せる藍の方を向いた。目線は、すぐ前の杏奈の後ろ姿にあった。
「うん、前の学校でもファンクラブできてた」
「へぇー、すごいねー!?」
藍は幼子のように目を丸くして驚いたけれど、俺は彼女も杏奈には負けてないと思った。いや、俺だけじゃない。皆だって思っているに違いない。現に、先程もクラスのまだ友達にもなっていない男子が、藍のことを話しているのがちらっと聞こえていた。藍だってファンクラブの一つや二つ、設立されていてもおかしくはなかった。
「それじゃあ、始めるか」
杏奈が来てから数分後に自己紹介は始まった。お約束通り稜輔は少しふざけた感じで(しかも結花のことまで言っていたし)、健太はいつも以上の仏頂面で全くおもしろいことも言わなかったけれど、それでも女子は見蕩れていた。
そういえば、項目にあった『先生の第一印象』だが、健太の答えはこうだった。
「先生の第一印象は……。別に? 特に、何も思いませんでした」
健太は少し前に失言でメディアの餌食となった女優のように、しれっと言い切ってみせた。俺からは見えなかったけれどきっと健太の顔は氷点下を優に越えていたはずだ。
それを間近で直視しても、教卓の前の相澤のにこやかな表情は保たれたままだった。もしかして健太は未だ機嫌を悪くしたままなのだろうか、と思ったがどうすることもできなかった。
俺の自己紹介はというと、特に何の面白味もない地味なものだった。
「藤森貴幸です、第一中からきました。趣味はスポーツ全般で、特技は野球です。先生の第一印象は……ええっと。第一印象はなんだかスーツ着てる人がいるなと思いました」
いやそうとはいえ、のっけからアホなことを言っていたのだが。そこだけ、少し笑いが起きた。地味な笑いだった。
「よろしくお願いします」
前の奴らも最後の一言にそれを言ったが、考えるのが面倒臭かったので俺も同じことを言って終わった。
男子の次は女子の番だった。
「香坂杏奈でーす、第一中でしたぁ。みんなからは杏奈とか、杏奈ちゃんとか呼ばれてました。趣味はぁー……ええっと、なんだろう。うーん、ネイルとショッピングかなぁ。特技は、オムライスにケチャップで絵を描くことです。先生の第一印象ー? 先生はぁ、ちょっとカッコイイ人だなって思いました。あ、最後に! 好きなタイプはちょっと知的でかっこよくて杏奈を守ってくれる人でーす」
砂糖菓子のような甘くて高い声、しかしどこかセクシーな彼女が女子の中盤でそう紹介すると、男共は更に彼女を見てうっとりとした顔つきになった。俺も似たようなことになりかけていたが、なんとか平常心を保った。
「よろしくお願いしまぁーす」
やはり杏奈も同じ言葉を使った。彼女は最後の一言に飛び切りの笑みを浮かべて小首を傾げてみせた。
他の男と同様、俺ももう彼女の全てが可愛いくて可愛くて仕方なかった。メロメロという死語はそんな自分達のことを指しているのに間違いなかった。
続いて、番は藍だった。
「瀬之崎藍です、第二中でした。趣味は読書で特技はピアノです。先生の第一印象は、優しそうな人だと思いました。よろしくお願いします」
藍は藍で、本当に無駄のない自己紹介だった。
先程まで綻ばせていた顔もなんだか沈んで見えた。あの時、あいつが言っていた「笑わない子」の藍は、このことなんだと思った。なるほど、やはりあれは嘘ではなかった。
俺と話している時はあんなにも心の底から笑ってくれていたのに、どうしてここまでも別人のように頑なな表情で話すのだろうか。落ち着いた雰囲気で話しているのとは少し違う、何もここまでしなくても、というくらい表情は閉ざされていた。
健太がどうしてそこまで怒っていたのか、そんな理由よりも彼女が笑わない訳の方が気になっていた。
でもその時は、いくらすぐに打ち解けられたといっても、その理由を会って間もない彼女に聞けるはずもなかった。