◆10◆
聞いていた話が違うではないか。
俺の前にいる、このよく笑う瀬之崎藍という少女は一体誰なんだ?
確かにあいつは言っていた。この子は笑顔を見せない、と。
その時はもうすでに、目的だったはずの杏奈のことは狭い脳内の本当に隅の方に追いやられていた。
「――どうして?」
藍は不思議そうに尋ねた。
それもそうだろう。知らない男子が自分の名前を、しかもフルネームで知っているのだ。俺を怪しんだっておかしくはない。実際、盗撮されていたくらいなのだから、周りには怪しむべき行動をとっている奴がいたはずなのだ。
「どうしてあたしの名前、知ってるの?」
「君、有名だったからなあ」
そう何気なく俺が言う。
すると彼女は今まで綻ばせていた顔を突然、少し薄暗くさせた。優に胸まではある濡れたように光る黒髪を靡かせて。
「……」
何て答えればいいか分からない、そんな表情だった。俺は訳が分からなかったけれど、すぐに何か触れてはいけないことに触れてしまったんだと感じた。
「ご、ごめん。俺、何か気に障ること言った?」
「……]
「ごめんね」
「う、ううん。何でもないよ」
「ほんとに?」
「うんうん、ほんとにほんとに。そっかあたし有名人だったんだ」
目線を下の方に落としたまま彼女は首を縦に振る。そして握ったままだったハンカチを鞄の中へと閉まった。二つの金具が合わさったパチンという音が鳴る。
「さあ、君の名前は?」
「?」
重そうな鞄を片手に持ち、彼女のもう片方の手の指さす方向には、俺が見とれていた掲示板があった。
「どこにあるの?」
そういうことか、と俺は答える。
「E組だよ」
「E組!? なんだ、あたしと一緒じゃない」
一年E組二十九番 瀬之崎藍
こんなに美人な子と同じクラスになったという、有りの儘の気持ちを上手く隠してE組の欄を見た。確かにそこには藍の名があった。
「うーん、そうだなあ……長岡健太くん?」
その時言われて初めて気付いた。健太も同じクラスだったのか。親友の彼に対してすまない、という気持ちになってくる。この学校に入学できたのも健太が協力してくれたおかげなのに、自分のこと――つまり色恋ばかりを考えていたことには呆れの二文字しか覚えない。
「違うよ、もうちょっと右。健太は俺のダチなんだ」
「へえ、そうなんだ。じゃあね、沼田啓介だ!」
誰だよそれは、と俺は返事をする。まあ十数個もの名前の中から一つだけを当てるのは難しいことだと思うが。
「違うなー」
「えー? 分かった分かった。祐吾くんでしょ、藤崎祐吾! 祐吾って顔してるもんね」
「はは。残念ながら、その横なんだけど」
思わず俺は微苦笑を浮かべた。この顔立ちのどこが祐吾なのだろうか。無論、俺はその藤崎祐吾というクラスメイトの顔は知らない。
「あ、ごめんね。そっちだったの……松上」
「違うって」
もう何と言えばいいのか。
悉く間違いばかりを言い当て、ハズレだと分かると一憂し、きっと当たれば一喜をするでろう少女。
今隣にいる彼女は表情がないどころか、出逢ってからのこの間もない間に目まぐるしく変化するその感情を、俺の前にさらけ出していた。そんな彼女の姿を、素直に可愛いと感じた。
あいつが言っていたことは事実なのだろうか……。いや、そんなことはどっちだっていいんだ。
今俺が見ている全てが真実なんだ、そう思った。
「分かった! 藤森くんだ」
「……」
俺は某クイズ番組の名物司会者のように正解を渋り、藍の方を向いた。
彼女もそれに答え、俺の目をじっと見つめた。
「正っ解っ!」
「やった〜! まあね、ホントは最初から分かってたんだけどね!」
そんな可愛らしい嘘を彼女は咬ます。
「藤森……たか……たか?」
「たかゆき、だよ」
「貴幸くんかあ、うん、それっぽい」
さっき祐吾みたいな顔してるって言ったくせに、そう俺が言うと彼女は、えへっと笑ってみせた。
「最初はとっつきにくい子なのかと思ったけど」
「えー? 何よそれぇー?」
「冗談、冗談。高校初めての友達は君ってことか。よろしく、瀬之崎……」
「瀬之崎さん」では今更だから余所余所しい気がするし、「瀬之崎」なんて呼び捨てはだめた。とすると……女子とはこんなに仲良く話すことは滅多になかったから、彼女のことを何と呼べばいいのか分からなかった。ここはプレイボーイっぽく『ちゃん付け』でいくか、そんな風にふざけてみる。
「藍、ちゃん……?」
「藍、でいいよ。君はいっつも何て呼ばれてるの? まさか、『寝言ヤロー』とか?」
「まさか」
「じゃあ……『おバカくん』?」
いくら何でもそれはないだろう。
「貴とか、貴幸とかかな」
「じゃあ、貴だね。あたしの友達一号も君だよ。よろしくね貴」
「よろしく」
女子を下の名前で呼び捨てにしたことなんて一度たりともなかったものだから、その行為がとても気恥ずかしかった。
「――藍」
初めてその名をこの口で声に出すと、彼女もまた照れくさそうに少しはにかんだ。
後方の並木道の花弁は気まぐれに舞っていった。目的地も分からないままに。先日までは満開に思えた木々の子供達は儚きまでに散りゆき、まだ初夏の装いも見えてこないこの時に自らの運命を受け入れる。
汚れなき花に見えるあれは、やがて人の足に踏まれてしまう。もしくは、最期を看取られないままひっそりとその身体に薄茶色が帯びてゆき、誰もが心奪われていた頃とはほど遠い姿になるのだ。
しかしそれでもなお、人々の中には季節を問わず鮮やかに淡紅の一色のみが咲き乱れる。
道端の亡骸を手に取り、それに深い哀傷の念を抱く……そんな人間はこの星に一握り程度しかいない。
一見、鮮麗ばかりで塗り固められたようにも思えるこの桜でさえも、辿る現実とはそんなものだ。
俺には、緊張が解れてもなお薄紅色をした愛らしい頬を持つ彼女を、取り巻くもの全てが純真無垢であると思えた。何の疑いも持たなかった。
尤も、あの時のほんの些細な、彼女に表れた心意の意味することなんて知るはずもなかった。