静かな電話
-同時刻
宍道は今、家にいた。しかし、心ここに在らず。
彼は帰ってきたときのことを思い起こしていた。
街で、暫く呆然と立ち尽くし、ファストフード店で腹ごしらえをした後、宍道はとうとう家に帰る事を決意した。―――危険だとしても俺の居るべき場所はあそこなのだから。そんなことを思いながら、狭い道へと足を進める。道に足を踏み入れると、ついさっきの記憶がよみがえる。怒声、悲鳴、苦悶、絶望、憎悪、怨恨……喜悦、悦楽、悦喜、喜楽……優越感、劣等感……。覚悟を決めて、一歩、また一歩と足を前に進める。しかし、住宅街はさっきとはうってかわって、奇妙なほどに静寂を保っていた。静かだけれど――静かだからこそ油断はできない。また襲われた時に対抗できるよう街で買ったドライバーを、ポケットの中で右手に強く握り締め、辺りを警戒しながら少しずつ自宅へと近づいていく。汗でドライバーが滑らないように、こまめに手のひらを、ジーンズで拭く。タン……タン…………タン……タンッ、と自分の足音だけが、住宅街に響く。
「………………」「……………………………」
………………………………。
結局、警戒はまったくの徒労に終わり、宍道は何事もなく家へと着いてしまった……いや、無事、着くことができたのだった。
つまり、そんなことで、謎は深まるばかり。宍道は、完全に混乱してしまった。
(……あれは夢だったのかもしれない)
(もしかしたら、テストの結果に驚いたあまり、そんな愉快な幻覚を見ていたんじゃないか?)
(うん、そうだ。夢だったに違いない)
一人で納得していると背後から高い電子音。いきなりのことに、ぶるっ、と身震いする。――携帯電話。……心臓が止まるかと思った。いや、本当に一瞬止まっていたんじゃないか。ディスプレイには知らない電話番号が表示されていた。だが、おそらく、見知っている人物からだ。
「もしもし」
「もしもし。宍道君?私、白波千奈美。おぼえてるかな。テストのとき話したでしょう?」
予想通り。
「ああ、おぼえてるよ」
気だるいのが相手に伝わるように、わざと、重々しく返事をする。
こんなときに電話で話したくなんかない。例え相手が総理大臣でも、ETのような宇宙人でも、ハリウッド女優並の美人でもだ。
…………宇宙人は話してみたいかもしれないな。
それより、やはり名前は教えるべきではなかった。名前が知られることは、住所も、電話番号も、顔も、自分の全てを知られるということなのだ。平安時代頃では、名前を知られることは存在を支配されることと同じだと考えられていたらしい。まあ、案外今もたいして変わらないのかもしれない。
「で、何のようなの」
つい、ぶっきらぼうな対応になってしまう。
しかし、白波がそれを気にする様子はなかった。
「それがね、私の家の周りで、子供たちが暴れだしたの。うん、ただふざけてとかじゃなくてね。うーん、言いにくいな。とにかく、皆頭が壊れちゃったかのような感じで……」
「!」目が覚めたかのように体全体に力が入る。
夢じゃなかったのか。突然、腕が痛み出す。見れば、腕にはたくさんの擦過傷があった。あのできごとは揺るぎない事実だったのだ。自分以外にも子供たちの騒ぎを知っている人物がいたという安心感と現実だったと判ったショックが宍道を襲う。やはり、名前を教えなければよかった。
「それって、皆……俺たちと同い年ぐらいだよな」
「う、うん。そうだけど……」
………………。
「じつは、俺の周りもそんな感じなんだ。いや、だった、って言ったほうがいいのか。今は、逆に不気味なほど静かでなにも起きていない」
「よかった。宍道君は知ってたんだね。あっ、よかったなんて言っちゃだめか。でも、テレビとか、ネットとか見ても何もそのことについて、報道されてなくて、すごく不安だったの」
報道されていないのか!
白波の町でも異変が起きているというなら、他の地域でも異変が起きているだろう。なのに、報道されてないということは……。
「もしかして、それって……」
「うん。大きな組織が、事実を隠しているんだと思う」
そうなると、この事は一人で抱えられる問題じゃない。
「白波、よく聞いてくれ。さっき、俺は少年に包丁で殺されかけたんだ」
「えっ、宍道君大丈夫なの?怪我は?病院には行った?」
「いや、それは安心していい。それに、大事なところはそこじゃない。とにかく俺は少年に追い詰められて、もう殺される、と覚悟までした。そこに、どこからか3人のスーツ姿の男がやってきて、突然、少年に向けて銃を撃ったんだ。俺は銃が撃たれてから、男達が居ることに気づいたんだけど――そこは、まあいい。そして、男達は倒れた少年を捕まえ、どこかへ連れて行ってしまったんだ。少なくとも味方には見えなかった。白波の話からするとおそらく、やつらは組織の人間だったのだろう。やつらは、隠してるだけじゃなく、事件が発覚する前に積極的に打ち消しにきている」
刹那、沈黙の後、白波が確信したことを確認するように問いかけてくる。
「それって、組織にとって不都合なことがおきてるってことだよね」
「そういうことだ。それも、おそらく最悪の不都合だ」
「そんなの…………」
そんなの、俺だって信じたくない。ごく普通の日常の裏で、こんな不自然なことが起きているなんて。
いや、まだそう判断を下しきってしまうのは早過ぎる。
それに――少し、心に引っかかることもある。
「でもまだ、想像で話してるだけだからな。ちょっと、図書館に行って調べてみたいこともあるから、何か分かったら、電話するよ」
「うん、分かった。じゃね」
「あっ、そうだ。ひとつだけ、聞いていい?」
「なに?」
「試験の評価、何だった?」
こんなときに何を言い出すんだ、と思われるかもしれないが――自分でもそう思うが、もしかしたら、これが、一番聞きたいことだったのかもしれない。
少し困ったような声で、千奈美は言う。
「それって、どうしても言わなくちゃいけないかな」
「できれば頼む」
「…………「S」……だよ」
「……そうか、ありがとう。じゃあね」
ツーツー、ツーツー、ツーツー、ツーツー
――――――会話終了。
少なからず、白波には不快な気持ちをさせた。
……謝るのは事実を確認してからだ。
-翌日
――――なんで、宍道君?
ピリリリリリッ
目覚まし時計。
千奈美は痛みを抑えるように頭を右手で掴む。
…………嫌な夢を見た。
犬が鞭で虐められている。野次馬がそれを取り囲むようにし、笑いながら眺めている。その中には宍道君はいない。いない、が――さらにその上から、宍道君はその光景を見下ろしている。犬を笑い飛ばすでもなく、貶すでもなく、助けるでもなく、ただ、無表情で見下ろしている。助ける価値があるかどうかを値踏みするような目で見て、最後まで助けないという選択をとって――――。
そんな夢だった。数学的思考の危険性―――自分のために、あるいは、他人のために…………なんでもいい。とにかく総合的に考えて、最も得になる答えをただ選択し、実践する。他は捨てることになっても――。それが、あの天才という言葉だけでは決して言い表せない、神がかり的な頭脳を持つ宍道君の――堂本宍道の出した答えなのか。
……いや、これはただの夢だった。
宍道君がそんなことをするはずがない。
…………本当に?
まだ、ろくに話も交わしてないのに何故そう言いきれるのだろう。
昨日、いきなり成績のことを聞いてきたのも私を自分が話す価値のある人間かどうか、値踏みしただけなのかもしれない。
堂本宍道という人格を視るまで、むやみに信用しないほうがいい。
テストのときの会話では、状況が特殊すぎて判断できないし。
千奈美はそんなことを思いながら、リビングまで歩き、流れ作業のようにテーブルの上のリモコンを手に取り、いつものように白いソファに座り、分かりきっていることを確認するように、でも期待を少し込め、テレビの電源を入れる。
……まあ、予想通り。
100種類以上あるチャンネルを一つ一つ念入りに調べてみたが、昨日の騒動のことについては、何も取り上げられていなかった――と思ったが、何局かはこの騒動を取り上げていた。……しかし、誤った解釈で。
『各地で麻薬中毒者続出!警察は密売人を捜索中』
……そんな程度では、なかった。そもそも、使ったことがないので、麻薬のことをよく知っているわけではないが、一度や二度の摂取で殺人を犯したり、自殺を試みようなどと思わないはずだ。
たしかに症状は、麻薬のそれに近いので警察が勘違いするのも無理はないけれど……。それより、組織は事件を完全には打ち消せなかったらしい。しかし、勘違いをさせているのだから大成功、とまではいえなくても目的を達成した、とはいえるのかもしれない……。
千奈美は用は済んだとばかりに勢いよくソファから立ち上がり、自室に置いてある黒い大きなケースを取りにいく。今日はバイオリンの授業があるのだ。暇つぶしになんとなく、3年前から通い続けているのだけれど、筋が良かったらしく、大会で賞もいくつか貰っている。つまらない毎日の暇つぶしの一つであり、数少ない楽しみの一つでもある。机の横に立てかけてあるケースを手に取ろうとしたとき、机の上に置いてあった携帯電話からメールの着信音が鳴った。
-堂本宍道-
11時に会いたい
場所は会場の近くの駅のファミレス
もちろん、昨日のことについてだ
メールを見てから、バイオリンのケースを見つめ、また携帯電話を見つめる。
そして、「ハァ」と諦めたようにため息をつく。
今日はバイオリン教室は、諦めないとな。