↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

山岳の亡霊 〜六人全員死亡のはずの遭難事故。吹雪の避難小屋で俺を助けた無口なひげの男は、仲間を食って生き延びたと噂されていた〜

作者: ペイン
掲載日:2026/10/23

ネットで「黒鷲岳(くろわしだけ)」と検索すると、いちばん上に、こんな記事が出てくる。


『【未解決】1998年 黒鷲岳遭難事故 ―― 6人全員死亡、1人の遺体だけが今も見つからない理由』


 大学の山岳部、六人。冬の黒鷲岳で吹雪にあい、全員が死んだ。五人の遺体は、吹雪がやんだあと、避難小屋の近くで見つかった。


 ひとりだけ、見つからなかった。当時二十七歳。隊でいちばん年上だった、篠原という男だ。


 コメント欄は、もっとひどい。


『見つかった遺体、一部が欠けてたって話、本当?』


『篠原だけ生き延びて、仲間を食って下山したって説あるよな』


『冬の黒鷲の避難小屋に、ひげの男が出るらしい。それが篠原の亡霊』


 俺、相沢海斗は、登山系の動画を上げている大学生だ。登録者は、八百人。しゃべるのが好きで、気になったことは聞かずにいられない。友だちには「お前は口から先に生まれた」と言われる。


 この話を、動画にしようと思った。


 ――今思えば、本当に、ばかだった。


   *


 二日目の午後、天気が急に崩れた。


「はい、えー、ちょっと雪が強くなってきましたね! でもこれくらいなら全然――」


 スマホに向かってしゃべっていた、その途中だった。


 尾根に出たとたん、空が、消えた。


 上も下も、右も左も、真っ白。風が、横から殴りつけてくる。体が、ぐらっと持っていかれた。ひざをついて、雪にしがみついた。


 スマホが、手の中で、ぶるぶる暴れた。画面に雪が張りついて、自分の顔も映らない。


 ――やべえ。


 立ち上がって、前を見た。


 さっきまで見えていた、赤い目印の旗が、ない。


 足あとも、ない。自分の足あとが、もう雪に埋まっている。


 どっちから来た?


 右か。左か。


 分からない。


 ――やべえ、やべえ、やべえ。


 とりあえず、まっすぐ歩いた。まっすぐのつもりで。十歩。二十歩。足が、ずぼっと、ひざまで沈んだ。引き抜くと、また沈む。


 地図アプリを開いた。指が、画面に反応しない。手袋を外して、素手でさわった。現在地の青い丸が、ぐるぐる回って、止まらない。


 圏外。


 バッテリー、十二パーセント。


 寒さで、数字が、見ているうちに十一に変わった。


「うそだろ、うそだろ、うそだろ……」


 声に出したら、風に持っていかれて、自分の耳にも届かなかった。


 素手にした指が、もう白くなっていた。あわてて手袋をはめる。指が、うまく入らない。指先に、感覚がない。


 歩いた。とにかく歩いた。止まったら終わりだと、どこかで読んだ気がする。


 一時間。いや、二時間かもしれない。時計を見る余裕もなかった。


 まつげが凍って、まばたきするたびに、ぱりぱり音がした。鼻水が、くちびるの上で固まっている。息を吸うと、のどの奥が、刺されたみたいに痛い。


 さっきから、同じ岩の横を通っている気がする。


 気のせいだ。気のせいであってくれ。


 足を前に出した。


 出したはずの右足の下に、地面が、なかった。


 体が、がくんと前に傾いた。とっさにうしろへ倒れこんだ。雪の上に、尻もちをつく。


 さっきまで足を置こうとしていた場所から、雪のかたまりが、ざざざっと、白い闇の下へ落ちていった。


 音が、返ってこなかった。


 どこまで落ちたのか、分からないくらい、下。


 ――死ぬ。


 初めて、本当にそう思った。


 ここで死んだら、俺は、二十八年後のネット記事になるんだろうか。『【未解決】黒鷲岳 配信者遭難事故』。登録者八百人。コメント欄で、好き勝手に言われる。


 いやだ。


 いやだいやだいやだ。


 歯が、がちがち鳴った。止めようとしても、止まらない。体が、勝手に震えている。震えているうちは、まだ大丈夫だと、これもどこかで読んだ。震えが止まったら、やばい。


 俺は、雪の上に座りこんだまま、動けなくなった。


 そのとき、吹雪の向こうで、何かが動いた。


「……そっちは崖だ」


 低い声だった。


「三歩下がれ。俺の背中についてこい」


 男の背中は、大きかった。雪をかきわけて、迷いなく進んでいく。目をつぶっても歩けるみたいだった。


 やがて、雪の中に、黒い小屋の影が見えた。


 古い避難小屋だった。記事に書いてあった、あの場所だ。


   *


 小屋の中で、男は黙ってストーブに火を入れた。


 五十代の半ばくらい。白いものがまじったひげ。深いしわ。目つきは鋭い。しゃべらない。俺の手を取って、指を一本ずつ確かめて、「わきの下で温めろ」とだけ言った。


 俺は、しゃべった。こわいとき、俺はしゃべる。


「いやあ、ほんと助かりました! 俺、相沢っていいます。大学生で、山の動画やってて。あ、登録者八百人なんですけど。おじさん、ここに住んでるんですか? 地元の人? 名前、聞いてもいいですか?」


「……」


「無口っすね!」


 男は、答えなかった。鍋をストーブにかけた。


 鍋の中には、肉が入っていた。赤黒い、大きな塊だった。


「それ、何の肉ですか?」


「聞かない方がいい」


 俺の口が、そこで初めて止まった。


 ――篠原だけ生き延びて、仲間を食って下山した。


 いやいや。ないない。あれは二十八年前の話だ。


 でも、男は、まさにそれくらいの年だった。


   *


 肉は、食えなかった。


「腹、いっぱいで」とうそをついた。男は、何も言わずに、俺の分を鍋に戻した。


 夜になった。ストーブの前で、男は、ナイフを研ぎはじめた。


 しゅっ。しゅっ。しゅっ。


 刃渡り二十センチはある、大きなナイフだった。


「あの、それ、何に使うんですか」


「さばく」


「何を」


「……」


 答えてくれ。頼むから、答えてくれ。


 俺は、寝袋にもぐって、目を閉じたふりをした。眠れるわけがなかった。


 壁に、古い木の板が打ちつけてあった。そこに、刃物で刻んだ線が、びっしり並んでいる。五本ずつ、まとめて。百本以上。


 数を数えている。何を?


 ――五人分、とか。


 自分で考えて、自分でぞっとした。


   *


 夜中、ぎいっと戸が鳴った。


 薄目を開けると、男が、ずだ袋をかついで外へ出ていくところだった。


 俺は、こっそり寝袋から出た。やめておけ、と頭のどこかが言った。でも、気になったら止まらないのが、俺だ。


 吹雪は、少しおさまっていた。月の明かりで、雪が青白く光っていた。


 小屋の角から、顔だけ出した。それ以上は、近づけなかった。


 男は、小屋の裏の斜面を、少し登ったところで止まった。二十メートルくらい先だ。


 そこに、雪の小山が、五つ並んでいた。


 男は、ずだ袋を下ろして、中身を雪の上に出した。


 月が、雲に入ったり出たりしていた。暗くなるたびに、男の姿が消える。


 また、月が出た。


 骨だった。


 白くて、長い骨が、何本も。ちょうど、人の腕や、足くらいの長さの。


 それ以上は、見えなかった。見たくもなかった。頭の中では、さっき読んだコメント欄の文字が、ぐるぐる回っていた。


 男は、小山のわきの雪を、素手で掘りはじめた。骨を、ひとつずつ、穴に入れていく。雪をかぶせて、手で押し固める。


 それから、小山の前にひざをついて、長いあいだ、動かなかった。


 俺は、口を両手でふさいで、小屋まで走って戻った。


 寝袋の中で、がたがた震えた。スマホを出して、録画ボタンを押した。証拠を残さなきゃ。何かあったときのために。


「えー、相沢です。今、黒鷲岳の避難小屋にいます。あの、もし俺が帰らなかったら、このおじさんが――」


「何を撮ってる」


 すぐうしろで、声がした。


 俺は、スマホを落とした。


   *


「す、すみません! ちがうんです! いや、ちがわないんですけど!」


 俺は、しゃべった。止まらなかった。


「見ちゃったんです、骨! 裏の、雪の山のとこ! あと鍋の肉、聞かない方がいいって言ったし、ナイフも研いでたし、壁の線も五本ずつだし! ネットに書いてあるんです、篠原って人が、仲間を、その」


 男は、黙って俺を見ていた。


「……篠原さん、ですよね?」


 長い沈黙があった。


 それから、男は、ぶはっと吹き出した。


 腹を抱えて、ストーブの前に座りこんで、笑った。しぶい顔が、くしゃくしゃになっていた。


「鹿だ」


「……え」


「全部、鹿だ。肉も、骨も。ふもとの猟友会から分けてもらう。聞かない方がいいって言ったのは、さばくところを想像すると、街の若いのは食えなくなるからだ」


「じゃ、じゃあ、裏の骨は」


「埋めた。小屋のそばに置いとくと、キツネが来る」


「でも、あれ、人の足くらいの長さで……」


 言いながら、ストーブの横のずだ袋が、目に入った。


 口から、枝分かれした、茶色い角が、にょっきり突き出していた。


 ……鹿だ。どう見ても。


 男は、何も言わずに、あきれた顔で俺を見ていた。


「……雪の山の前で、ずっと、ひざついてたのは」


 男は、答えなかった。


 男は、鍋の肉を器によそって、俺の前に置いた。


「食え。冷めるとまずい」


 おそるおそる、一口食べた。


 うまかった。信じられないくらい、うまかった。


   *


 食べながら、俺はまた、しゃべった。黙っていられなかった。


「じゃあ、篠原さんなのは、本当なんですね。生きてたんですか。なんで? どうやって? なんで名乗らなかったんですか? ネットで、めちゃくちゃ言われてますよ。食ったとか、亡霊とか」


「……よくしゃべるな」


「よく言われます」


 男は、ため息をついた。それから、ぽつりぽつりと話しはじめた。俺が聞いて、男が少し答える。また聞いて、また少し答える。


 あの冬、吹雪の三日目に、ひとりで救助を呼びに下りたこと。道に迷って、反対側の谷に出てしまったこと。五日かけて、小さな村にたどり着いたこと。


 駅前の、小さな食堂に入ったこと。財布の小銭で、うどんを頼んだこと。


 棚の上のテレビで、ニュースが始まったこと。


 黒鷲岳の遭難。五人の死亡を確認。画面に、五人の名前が、一人ずつ出た。全部、知っている名前だった。


 そして最後に、一人だけ、「行方不明」の文字。


 その一人が、自分だったこと。


「で、なんで名乗らなかったんですか」


 俺は、身を乗り出した。


「借金があったとか? 家族と縁を切ってたとか? 新しい人生を、みたいな?」


 男は、ストーブの火を見ていた。


「こわかったんだ」


「……え?」


 俺は、器を持ったまま、男の顔を見た。


「……こわかった?」


「俺は、救助を呼びに下りた。でも、誰も呼べなかった。五日も、山の反対側をさまよってた。そのあいだに、あいつらは、死んだ」


 男は、太い指で、ひげをなでた。


「食堂のカウンターで、となりの客が、テレビを見ながら言った。『一人だけ見つかってないってよ。……仲間置いて、逃げたんじゃねえのか』」


 ストーブの火が、ぱちっと鳴った。


「あそこで、俺が篠原だって名乗り出たら、どうなると思う」


 俺は、答えられなかった。


「五人を置いて、自分だけ山を下りて、自分だけ生きて帰ってきた男だ。救助を呼びに行った、なんて、誰が信じる。あいつらの家族の前に、どんな顔で出ればいい」


 男は、少し黙った。


「うどんが、目の前で冷めていった。一口も食えなかった。三時間、そのいすから立てなかった。そのあとで、駅に来た電車に乗った。行き先は、見なかった」


「……それから、ずっと?」


「名前を聞かない親方のところで、大工をやった。二十八年。最初の何年かは、毎晩、夢を見た。あいつらが、小屋で、俺を待っている夢だ」


 男は、壁の刻み目を見上げた。


「毎年、冬に一回、ここへ登る。一本ずつ刻む。五人分」


 俺は、器の中の肉を、黙ってかんだ。


   *


 翌朝、吹雪は、うそみたいにやんでいた。


 男は、登山口まで、俺を送ってくれた。歩きながら、雪の深いところ、崩れやすいところを、ひとつずつ教えてくれた。口数は、また少なくなっていた。


 登山口の看板の前で、男は立ち止まった。


「あの、篠原さん」


 俺は、スマホを握りしめた。


「昨日の夜の動画、消しました」


「そうか」


「あと、ひとつだけ、聞いていいですか」


「まだあるのか」


「今も、こわいですか」


 男は、少しだけ黙った。


 それから、片方の口の端だけで、笑った。


「お前みたいなのに見つかるのが、いちばんこわい」


「次に冬の山に来るときは、天気図くらい読めるようになってから来い」


 男は、片手を上げて、背を向けた。


 雪の斜面を、ゆっくり登っていく。大きな背中が、だんだん小さくなっていく。


 一度も、振り返らなかった。


   *


 家に帰って、俺は、あの記事のコメント欄に、一行だけ書きこんだ。


『黒鷲岳の避難小屋に、亡霊はいませんでした。鹿肉のうまい、ひげのおっさんがいただけです』


 いいねは、ひとつもつかなかった。


 ほかのことは、誰にも話していない。


 次の冬、俺は、天気図の読み方を覚えて、もう一度黒鷲岳に登った。


 避難小屋の壁には、新しい刻み目が、五本、増えていた。


(了)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


 少しでも心に残るものがあれば、ブックマークと、下の★★★★★で応援してもらえるとうれしいです。


 連載中の『臆病者はいらない』も、よろしくお願いします。

 https://ncode.syosetu.com/n4083mx/

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。