山岳の亡霊 〜六人全員死亡のはずの遭難事故。吹雪の避難小屋で俺を助けた無口なひげの男は、仲間を食って生き延びたと噂されていた〜
ネットで「黒鷲岳」と検索すると、いちばん上に、こんな記事が出てくる。
『【未解決】1998年 黒鷲岳遭難事故 ―― 6人全員死亡、1人の遺体だけが今も見つからない理由』
大学の山岳部、六人。冬の黒鷲岳で吹雪にあい、全員が死んだ。五人の遺体は、吹雪がやんだあと、避難小屋の近くで見つかった。
ひとりだけ、見つからなかった。当時二十七歳。隊でいちばん年上だった、篠原という男だ。
コメント欄は、もっとひどい。
『見つかった遺体、一部が欠けてたって話、本当?』
『篠原だけ生き延びて、仲間を食って下山したって説あるよな』
『冬の黒鷲の避難小屋に、ひげの男が出るらしい。それが篠原の亡霊』
俺、相沢海斗は、登山系の動画を上げている大学生だ。登録者は、八百人。しゃべるのが好きで、気になったことは聞かずにいられない。友だちには「お前は口から先に生まれた」と言われる。
この話を、動画にしようと思った。
――今思えば、本当に、ばかだった。
*
二日目の午後、天気が急に崩れた。
「はい、えー、ちょっと雪が強くなってきましたね! でもこれくらいなら全然――」
スマホに向かってしゃべっていた、その途中だった。
尾根に出たとたん、空が、消えた。
上も下も、右も左も、真っ白。風が、横から殴りつけてくる。体が、ぐらっと持っていかれた。ひざをついて、雪にしがみついた。
スマホが、手の中で、ぶるぶる暴れた。画面に雪が張りついて、自分の顔も映らない。
――やべえ。
立ち上がって、前を見た。
さっきまで見えていた、赤い目印の旗が、ない。
足あとも、ない。自分の足あとが、もう雪に埋まっている。
どっちから来た?
右か。左か。
分からない。
――やべえ、やべえ、やべえ。
とりあえず、まっすぐ歩いた。まっすぐのつもりで。十歩。二十歩。足が、ずぼっと、ひざまで沈んだ。引き抜くと、また沈む。
地図アプリを開いた。指が、画面に反応しない。手袋を外して、素手でさわった。現在地の青い丸が、ぐるぐる回って、止まらない。
圏外。
バッテリー、十二パーセント。
寒さで、数字が、見ているうちに十一に変わった。
「うそだろ、うそだろ、うそだろ……」
声に出したら、風に持っていかれて、自分の耳にも届かなかった。
素手にした指が、もう白くなっていた。あわてて手袋をはめる。指が、うまく入らない。指先に、感覚がない。
歩いた。とにかく歩いた。止まったら終わりだと、どこかで読んだ気がする。
一時間。いや、二時間かもしれない。時計を見る余裕もなかった。
まつげが凍って、まばたきするたびに、ぱりぱり音がした。鼻水が、くちびるの上で固まっている。息を吸うと、のどの奥が、刺されたみたいに痛い。
さっきから、同じ岩の横を通っている気がする。
気のせいだ。気のせいであってくれ。
足を前に出した。
出したはずの右足の下に、地面が、なかった。
体が、がくんと前に傾いた。とっさにうしろへ倒れこんだ。雪の上に、尻もちをつく。
さっきまで足を置こうとしていた場所から、雪のかたまりが、ざざざっと、白い闇の下へ落ちていった。
音が、返ってこなかった。
どこまで落ちたのか、分からないくらい、下。
――死ぬ。
初めて、本当にそう思った。
ここで死んだら、俺は、二十八年後のネット記事になるんだろうか。『【未解決】黒鷲岳 配信者遭難事故』。登録者八百人。コメント欄で、好き勝手に言われる。
いやだ。
いやだいやだいやだ。
歯が、がちがち鳴った。止めようとしても、止まらない。体が、勝手に震えている。震えているうちは、まだ大丈夫だと、これもどこかで読んだ。震えが止まったら、やばい。
俺は、雪の上に座りこんだまま、動けなくなった。
そのとき、吹雪の向こうで、何かが動いた。
「……そっちは崖だ」
低い声だった。
「三歩下がれ。俺の背中についてこい」
男の背中は、大きかった。雪をかきわけて、迷いなく進んでいく。目をつぶっても歩けるみたいだった。
やがて、雪の中に、黒い小屋の影が見えた。
古い避難小屋だった。記事に書いてあった、あの場所だ。
*
小屋の中で、男は黙ってストーブに火を入れた。
五十代の半ばくらい。白いものがまじったひげ。深いしわ。目つきは鋭い。しゃべらない。俺の手を取って、指を一本ずつ確かめて、「わきの下で温めろ」とだけ言った。
俺は、しゃべった。こわいとき、俺はしゃべる。
「いやあ、ほんと助かりました! 俺、相沢っていいます。大学生で、山の動画やってて。あ、登録者八百人なんですけど。おじさん、ここに住んでるんですか? 地元の人? 名前、聞いてもいいですか?」
「……」
「無口っすね!」
男は、答えなかった。鍋をストーブにかけた。
鍋の中には、肉が入っていた。赤黒い、大きな塊だった。
「それ、何の肉ですか?」
「聞かない方がいい」
俺の口が、そこで初めて止まった。
――篠原だけ生き延びて、仲間を食って下山した。
いやいや。ないない。あれは二十八年前の話だ。
でも、男は、まさにそれくらいの年だった。
*
肉は、食えなかった。
「腹、いっぱいで」とうそをついた。男は、何も言わずに、俺の分を鍋に戻した。
夜になった。ストーブの前で、男は、ナイフを研ぎはじめた。
しゅっ。しゅっ。しゅっ。
刃渡り二十センチはある、大きなナイフだった。
「あの、それ、何に使うんですか」
「さばく」
「何を」
「……」
答えてくれ。頼むから、答えてくれ。
俺は、寝袋にもぐって、目を閉じたふりをした。眠れるわけがなかった。
壁に、古い木の板が打ちつけてあった。そこに、刃物で刻んだ線が、びっしり並んでいる。五本ずつ、まとめて。百本以上。
数を数えている。何を?
――五人分、とか。
自分で考えて、自分でぞっとした。
*
夜中、ぎいっと戸が鳴った。
薄目を開けると、男が、ずだ袋をかついで外へ出ていくところだった。
俺は、こっそり寝袋から出た。やめておけ、と頭のどこかが言った。でも、気になったら止まらないのが、俺だ。
吹雪は、少しおさまっていた。月の明かりで、雪が青白く光っていた。
小屋の角から、顔だけ出した。それ以上は、近づけなかった。
男は、小屋の裏の斜面を、少し登ったところで止まった。二十メートルくらい先だ。
そこに、雪の小山が、五つ並んでいた。
男は、ずだ袋を下ろして、中身を雪の上に出した。
月が、雲に入ったり出たりしていた。暗くなるたびに、男の姿が消える。
また、月が出た。
骨だった。
白くて、長い骨が、何本も。ちょうど、人の腕や、足くらいの長さの。
それ以上は、見えなかった。見たくもなかった。頭の中では、さっき読んだコメント欄の文字が、ぐるぐる回っていた。
男は、小山のわきの雪を、素手で掘りはじめた。骨を、ひとつずつ、穴に入れていく。雪をかぶせて、手で押し固める。
それから、小山の前にひざをついて、長いあいだ、動かなかった。
俺は、口を両手でふさいで、小屋まで走って戻った。
寝袋の中で、がたがた震えた。スマホを出して、録画ボタンを押した。証拠を残さなきゃ。何かあったときのために。
「えー、相沢です。今、黒鷲岳の避難小屋にいます。あの、もし俺が帰らなかったら、このおじさんが――」
「何を撮ってる」
すぐうしろで、声がした。
俺は、スマホを落とした。
*
「す、すみません! ちがうんです! いや、ちがわないんですけど!」
俺は、しゃべった。止まらなかった。
「見ちゃったんです、骨! 裏の、雪の山のとこ! あと鍋の肉、聞かない方がいいって言ったし、ナイフも研いでたし、壁の線も五本ずつだし! ネットに書いてあるんです、篠原って人が、仲間を、その」
男は、黙って俺を見ていた。
「……篠原さん、ですよね?」
長い沈黙があった。
それから、男は、ぶはっと吹き出した。
腹を抱えて、ストーブの前に座りこんで、笑った。しぶい顔が、くしゃくしゃになっていた。
「鹿だ」
「……え」
「全部、鹿だ。肉も、骨も。ふもとの猟友会から分けてもらう。聞かない方がいいって言ったのは、さばくところを想像すると、街の若いのは食えなくなるからだ」
「じゃ、じゃあ、裏の骨は」
「埋めた。小屋のそばに置いとくと、キツネが来る」
「でも、あれ、人の足くらいの長さで……」
言いながら、ストーブの横のずだ袋が、目に入った。
口から、枝分かれした、茶色い角が、にょっきり突き出していた。
……鹿だ。どう見ても。
男は、何も言わずに、あきれた顔で俺を見ていた。
「……雪の山の前で、ずっと、ひざついてたのは」
男は、答えなかった。
男は、鍋の肉を器によそって、俺の前に置いた。
「食え。冷めるとまずい」
おそるおそる、一口食べた。
うまかった。信じられないくらい、うまかった。
*
食べながら、俺はまた、しゃべった。黙っていられなかった。
「じゃあ、篠原さんなのは、本当なんですね。生きてたんですか。なんで? どうやって? なんで名乗らなかったんですか? ネットで、めちゃくちゃ言われてますよ。食ったとか、亡霊とか」
「……よくしゃべるな」
「よく言われます」
男は、ため息をついた。それから、ぽつりぽつりと話しはじめた。俺が聞いて、男が少し答える。また聞いて、また少し答える。
あの冬、吹雪の三日目に、ひとりで救助を呼びに下りたこと。道に迷って、反対側の谷に出てしまったこと。五日かけて、小さな村にたどり着いたこと。
駅前の、小さな食堂に入ったこと。財布の小銭で、うどんを頼んだこと。
棚の上のテレビで、ニュースが始まったこと。
黒鷲岳の遭難。五人の死亡を確認。画面に、五人の名前が、一人ずつ出た。全部、知っている名前だった。
そして最後に、一人だけ、「行方不明」の文字。
その一人が、自分だったこと。
「で、なんで名乗らなかったんですか」
俺は、身を乗り出した。
「借金があったとか? 家族と縁を切ってたとか? 新しい人生を、みたいな?」
男は、ストーブの火を見ていた。
「こわかったんだ」
「……え?」
俺は、器を持ったまま、男の顔を見た。
「……こわかった?」
「俺は、救助を呼びに下りた。でも、誰も呼べなかった。五日も、山の反対側をさまよってた。そのあいだに、あいつらは、死んだ」
男は、太い指で、ひげをなでた。
「食堂のカウンターで、となりの客が、テレビを見ながら言った。『一人だけ見つかってないってよ。……仲間置いて、逃げたんじゃねえのか』」
ストーブの火が、ぱちっと鳴った。
「あそこで、俺が篠原だって名乗り出たら、どうなると思う」
俺は、答えられなかった。
「五人を置いて、自分だけ山を下りて、自分だけ生きて帰ってきた男だ。救助を呼びに行った、なんて、誰が信じる。あいつらの家族の前に、どんな顔で出ればいい」
男は、少し黙った。
「うどんが、目の前で冷めていった。一口も食えなかった。三時間、そのいすから立てなかった。そのあとで、駅に来た電車に乗った。行き先は、見なかった」
「……それから、ずっと?」
「名前を聞かない親方のところで、大工をやった。二十八年。最初の何年かは、毎晩、夢を見た。あいつらが、小屋で、俺を待っている夢だ」
男は、壁の刻み目を見上げた。
「毎年、冬に一回、ここへ登る。一本ずつ刻む。五人分」
俺は、器の中の肉を、黙ってかんだ。
*
翌朝、吹雪は、うそみたいにやんでいた。
男は、登山口まで、俺を送ってくれた。歩きながら、雪の深いところ、崩れやすいところを、ひとつずつ教えてくれた。口数は、また少なくなっていた。
登山口の看板の前で、男は立ち止まった。
「あの、篠原さん」
俺は、スマホを握りしめた。
「昨日の夜の動画、消しました」
「そうか」
「あと、ひとつだけ、聞いていいですか」
「まだあるのか」
「今も、こわいですか」
男は、少しだけ黙った。
それから、片方の口の端だけで、笑った。
「お前みたいなのに見つかるのが、いちばんこわい」
「次に冬の山に来るときは、天気図くらい読めるようになってから来い」
男は、片手を上げて、背を向けた。
雪の斜面を、ゆっくり登っていく。大きな背中が、だんだん小さくなっていく。
一度も、振り返らなかった。
*
家に帰って、俺は、あの記事のコメント欄に、一行だけ書きこんだ。
『黒鷲岳の避難小屋に、亡霊はいませんでした。鹿肉のうまい、ひげのおっさんがいただけです』
いいねは、ひとつもつかなかった。
ほかのことは、誰にも話していない。
次の冬、俺は、天気図の読み方を覚えて、もう一度黒鷲岳に登った。
避難小屋の壁には、新しい刻み目が、五本、増えていた。
(了)
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連載中の『臆病者はいらない』も、よろしくお願いします。
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