「桜ノ馨リ」
2010.10.27 の作品です。
・内容
タイトルは桜、という匂いの無い「におい」を具現化したもので、果敢無さを強調する意味でもあり、少女「雪」の、白い雪と白い肌、冬のものである事と対照的に描いたものです。
「お兄ちゃん」と呼ぶ少女(幼女)を描きたかっただけだったりしますすいません。
春の風が頬を掠めた。柔かな風は止め処なく揺蕩っている。此処は馨りに満ちていた。息苦しい程に鼻腔を一杯にするその匂いを、脳髄から神経全てを搖すぶり刺激するその匂いを、誰も知らないと云う。こんなに強い芳香を放つ『桜のにおい』に、誰も気付かない。
年月を経る毎にそのにおいが薫ってくる位置は高くなった。幼い頃、俺の顔よりも遥か下から漂ってきたソレは、いつしか俺の鼻の位置を超えて、高みから落ちてくるようになった。繊細な長い髪はゆらゆらと風に靡き、その絹糸が流れる度に芳香は俺の鼻腔を擽った。シャンプーの『桜の香』は彼女だけが有つ『馨り』。
俺の家の隣には二つ下の女の子とその家族が住んでいた。彼女の一家は俺が小学校へ入学する春先、風に運ばれるが如く予兆もなしに引っ越してきた。それは今では微かな記憶として留まっているだけだ。彼女はいつの間にか“其処”にいた。あまりに静かに、何もなかった場所に、本当に何もないかの如く生気をにおわせず、ただ桜の馨りだけを匂わせて。元から其処に在ったかのように、端から“ないもの”であったかのように、彼女は静かにしゃがみ込んでいた。
薄桃色の綿生地のワンピースが地面の灰色を唐突に色付けた。まるで葉も落ちた冬の寂れた桜の木が、花を咲き誇らせたように。
ずっと俺だけが特別にしていた場所である、家の向かいの空き家。張り巡らされた黄色と黒で編まれた警告色のロープと、赤と青で描かれた吃驚マークの表示は、幼い子供の好奇心を煽るには充分だった。
以前はその空き家に一番近かったのが俺の家だったが、新しく建った彼女の家は丁度真正面に位置していた。彼女の家の二階からは屋根に空いた大きな穴が見え、其処から中を覗くことが出来る。その場所は俺しか知らない世界だったのに。突然に訪れた四歳の女の子は同じように――否、それ以上に容易くこの世界を識ることが出来、そして俺と同じように入ってきた。俺が其処へ初めて入ったのは五歳の時で、俺よりも一年早くこの場所を識った彼女を密かに妬んだ。
初めての光景を見て立ち尽くしていた俺に、白と桃色を有った少女は笑い掛けた。その笑顔はとても幼く純粋な笑みだったからだろうか。嫉妬や驚愕に張り詰めていた糸が解れた気がして、俺たちは直ぐに打ち解けた。
彼女の傍に寄ると、識らない馨りが漂ってきた。どうやら茶色がかった黒の長い髪が発していたようだ。後に聞いて『桜のかおり』のシャンプーのものであるのを知ったが、初めは互いに語彙も有たなかった故に通じることはなかった。――その馨りは俺にいつも彼女の居場所を教えた。春を過ぎてもそこだけは常に、桜色の空間が存在する。
小学生の俺はランドセルを持っていた。彼女はそのことに憧れ、いつも丸い瞳で見つめる。そして大きく口を開けて言うのだ。
「いいなぁ。ゆっちゃんもほしいなぁ、『らんろせる』!」
「『らんろせる』じゃないよ、『ランドセル』。雪はまだまだ子供だなぁ。」
小さな彼女が下から見上げる憧れの眼差しは、幼い俺には誇らしかった。度々自慢をしては嬉しくなった。そして未だに上手く『ランドセル』を言えない彼女を揶揄しては、膨れっ面が此方に向くのを愛らしく想った。
二年の歳月は束の間に過ぎ、既に空き家は綺麗に取り壊された。其処は草の生い茂る空き地となった。遂に彼女も赤いソレを背負い始める。もう『らんろせる』は忘却の彼方へと葬られ、彼女も二年前の俺と同じくして光沢を帯びた赤い『ランドセル』を小さな身体に背負う。
平仮名許りの文字の大きな教科書を詰め込んだソレを、彼女は嬉しさも誇らしさもないといった風に、重々しげに背負っていた。俺の“黒”は徐々に艶を失い、重さばかりが増す。背中のソレは俺にとっても忌まわしいだけとなる。
彼女が遊びに来た時、俺の教科書を見て目を丸くした。ムッとしながら訝しげに見る。「どうした?」と尋ねると、幼い彼女は唸るように呟いた。
「雪、よめない……。へい、くち?な、よ……」
彼女が国語の教科書と睨み合っているのに気付き、「どこ?」と後ろに回る。小さな指が示した一部分が彼女にはまだ読めないと知る。可笑しく想いながら、強気になった俺は声を強めて言った。
「違うよ。へいわ、な、せかい。」
「これは?た、……」
「たいよう、だよ。雪はほんとに子供だなぁ。」
頬を膨らませながら、自分には難しい教科書を彼女はずっと睨んでいる。それを誂いながら、俺は愛らしさと僅かな優越感に浸る。彼女と過ごす時間は俺の一番の至福だった。
小学校を卒業して、俺は中学という一つの大きな境を跨いだ。彼女は漸く五年生になったところだ。それでも一、二年前には大きな身長差があったのに、今は俺と大して変わらない程に成長した。昔からずっと長く垂らされた髪は遂に腰の位置迄伸び、濡羽色の深みを増している。愛らしい存在だった彼女は、同年代の女子と比較にならない程に美しく成長しているのを思い知る。
――それでもまだ、二年遅れの彼女は子供だった。……少なくとも、俺にとっては。
彼女の口数は年を経る毎に減った。それを確かに感じている俺でさえ、『一番話せる存在』には変わらないようで、屈託なく笑っていた彼女が今では口を鎖しながら過ごしているのは明らかだった。
「雪。友達、ちゃんといるのか?」
黒い学ランを着た俺は、ブラウスとミニスカートを着こなしている彼女に問い掛けた。スカートの下からは真白で異常な程に細い、それでいて線の綺麗な脚が窺える。身長差のなくなった二つ下の『子供』である彼女は、俺の言葉にだけは昔みたいに覚束ない『子供の表情』を泛べた。今にも消えそうな灯火みたいに儚さを懐わせる笑顔を。
「いつも心配し過ぎだよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんこそ、新しい環境はどうなのよ。」
「俺は心配要らねえよ。子供の癖に心配すんな、……雪。」
彼女の大人びた表情や声色が無性に恐くて目を背ける。いつものように口にする『その言葉』は、唯一の頼みの綱で、願望だった。切れないことを祈りながら、暗示のように繰り返す。そうしていなければ、俺の中の何かが砕け散るような気がしていたから。秩序を保っていた世界が、音を立てて地割れを起こすような気が。
「そうだよね。……中学って楽しいのかな。」
彼女は『その言葉』をいつだって否定しない。頼りない笑みを見遣りながら、彼女も或いは『その言葉』に何かしら救いを求めていたのかも知れない。俺は安堵の息を吐く。
「楽しいよ。小学校より、ずっと。」
「いいなぁ。」
あの頃と変わらない。現にこうして同じ遣り取りをしている。
――そう言い聞かせながらも、彼女自身が意識して口にしているのは解っていた。もうあの頃の瞳の輝きも、憧憬や好奇心も、悉く消え失せている。
成長すれば当然だ。譬え彼女の成長が早過ぎるのだとしても、この二年の差を追い越されはしない。そう自分に必死に言い聞かせた。
俺は中学二年になり、夏休み前に差し掛かった。お互い登校日で、六年生と云えど小学校と中学との時間割では明白な差がある。だからいつも俺の帰宅する時間になると、彼女が家の前に立つのを見るのだ。その日も授業を終え、いつものように彼女が立っているのを当然の如く信じていた。
重い鞄を背負いながら帰路を歩く。家迄の一直線の細い道を歩きながら、彼女の影を探す。それでも依然として彼女の姿は見られない儘、自分の家の前に着いてしまった。刹那的に烈しい不安に襲われる。考えてみれば当然のことだろう。毎日同じ場所で俺を待っている方が可笑しな噺だ。そう頭の中で呟いて、後頭部を摩りながら家の中へ入った。
夕食を終えて自室へ戻ろうと階段に通じる玄関を通り掛るのと同時に、家のチャイムが鳴った。「優くん出て。」母親の声が居間から聞こえる。「あーい」と大口を開けて、面倒臭さの籠った声で、母と外の影の両方に応えながら気怠く扉を開ける。――そこには彼女の姿があった。乱れた服と、暗くても解るほどに無数に散らばった脚や顔の擦り傷、打撲のような痣。いつにもなく暗く見えたのは、夜闇の所為だろうか。彼女の口元は無理に笑みを作ろうとして引き攣っていた。
驚きを隠せない儘、母親の掛けた言葉も耳に入らない内に自分の部屋へと彼女を引き込んだ。その手首の細さや血の廻りを感じさせない冷たさを、自分の汗ばんだ掌から感じながら、黙って部屋へ走った。
いつも彼女から漂う『桜のかおり』が、この日はとても薄かった。彼女は縫い包みのように押し黙って、ただ俺に引っ張られた。俺の身体に一切の抵抗を感じなかった。体重が掛る筈の階段も、本当に縫い包みに摩り替ったのではないかと感じる程に軽い。“生”を懐わせない彼女に触れて、初めてその脆さを識る。
「お兄ちゃん……。ごめんね、いきなり押し掛けて。」
俺が目の遣り場を失って、落ち着きなく言葉を探し続けている間に沈黙が生まれたのを、先に破ったのは彼女だった。
「何言ってるんだよ。雪、お前……どうしたんだよ……」
「帰り道でね、二、三〇代くらいかな……男の人にね……、」
続きを聞きたくなくて遮ろうとした俺に気付いて、彼女は黙って相変わらず笑みを繕おうとする。その度に切れた唇の端がひくついている。見ているだけでも痛々しい。何をされたかの想像はつく。事実を識ることへの恐怖もあったが、何よりそんな言葉をこんな表情をした彼女の口から出ることが何よりも恐かった。それでも彼女は俺よりも平生としていて、何故か俺の方が苦しそうな表情をしているのを自覚していた。その光景に様々な感情が生じては、雨雲のように形のない黒が拡がっていく。
「笑おうとするなよ……。平気な顔、するな」
俺の声は震えて、泣きそうな顔を逸らしながら腕を伸ばした。その掌で彼女の髪をくしゃくしゃにする。彼女は少し安心したように頼りなく笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん。ごめん……」
「礼なんか言うな。ごめんなんて言う必要ないだろ。馬鹿……」
「うん、ねえ……私、もう子供じゃなくなったのかな」
俺の掌で乱された自分の髪に軽く触れて呟いた彼女の言葉が俺には重過ぎて、心が乱れていく許りだった。濡れた目蓋を左腕で拭いながら、切願と成り果てた『その言葉』を何とか絞り出す。
「まだ子供だよ、雪は……」
翌年、俺が中学三年になり、彼女が受験を経て入学した名高い私立の中高一貫校の一年生になった頃。その年から始めたのか、覗いた白い手首には無数の傷が刻まれていた。身長は彼女の方が少しだけ高くなっていた。クラスでも身長が低い側の俺は、学校でも少しそれを負い目に感じていたが、彼女と並んだ時にはその僅かな差が何哩もの距離であるかのように思えた。そしてそれ以上に、立っている位置が入れ換わることへの得体の知れない恐怖が大きかった。もうそれは直ぐ其処にあるかのようだった。
空き地となっていたあの場所には新しい家が建とうとしていた。平日の昼間は何時も工事の音が鳴り響いていることを母親から聞いた。彼女と顔を合わせる機会は極端に減った。学校も違う上、彼女の通う学校は電車を乗り継ぐ程の距離だった為、登下校の時間も合わない。会う度に彼女は俺の学校と比較にならない高度な内容の学習をしていて、その都度年上の俺の方が知識の劣っていることを痛感させられた。それでも彼女はソレをなるべく隠そうとした。それが俺にとって安心になり、同時に未知の不安ともなった。
暫く顔を合わせずに過ごして何ヶ月かが過ぎ、俺が近くの公立高校へ通い始め、彼女が中学二年になった頃、俺が帰宅した時間――普段ならまだ家にいない筈にも拘わらず、彼女の姿が其処にあった。
「あれ?雪、学校は?」
「行けなくなったの。不登校続きなんだ……ずっと。」
暫く見なかった彼女は、以前の細身にも況して痩せていた。とても健康には見えない。焦点の合わない濁った眼は虚空に向けられている。それでも俺の方に向き直った時の彼女の視線は穏やかで、それでも温度のなさを隠しきれずにいる。その冷たさに、俺は鋭利な刃先で突き刺されるような心地がした。
「ねえ、家に行ってもいい?」
彼女は薄笑いを泛べていたが、嘗てない真剣さが表情や声色にあった。仰け反り、目を逸らしてしまいそうになるのを堪え、逃げたい気持ちを抑えて俺は承諾した。俺はまだ大丈夫だと。彼女はまだ、あの頃と同じ場所にいると、淡く稀薄になった期待であれど、信じていた。
母親は家にいた。幼馴染の彼女を連れてくるのを、母さえも気に留めない。それが僅かながらも懐いている消えそうな期待を強くするのを手伝って呉れた。笑顔で迎える母親に、彼女は律儀に愛想笑いを泛べながら頭を下げた。そして間髪入れずに俺の後に続いて部屋に向かった。その空間が、いつもひとりで過ごしている時と変わりがある筈なんてないと言い聞かせながら、扉を開いて中に入った。扉は彼女の手によって閉められ、空間は外界から遮断された。
沈黙の音が、耳を劈く。音のないこの部屋は、いつもと同じ筈にも拘わらず、彼女と共有する事によって空気の圧力を全身で感じることとなる。それともベッドに俺と並んで掛けた彼女から『桜のかおり』が漂い、空気に色付けしたのだろうか。その馨りは、この小さな部屋では些か刺激が強過ぎた。
暫しの沈黙が続いた。彼女は俺の方を見ることなく、軅て口を開く。
「何も、しないの。」
問い掛ける時のような声の抑揚はなく、まるで独り言みたいだった。
「雪は……」
いつもの『その言葉』を繰り返そうとする。それさえも、彼女がブラウスのボタンを外しているのに気付いて続きが出なくなった。
酷く白い肌だった。鎖骨や肋骨が其処に翳りを強く刻んでいる。薄桃色の印象が強かった彼女の身は、その暖かな色とは対照的に、冷たい蒼白さを有っていた。胸の膨らみも想像以上に大きかったのを、この時初めて識った。もう子供のソレではないのだと、五感から脳髄に拒絶を赦さないことを伝える。すらりと伸びた細い腕の先にある手首の夥しい傷は、蒼白い膚の中では鮮やか過ぎた。濃い紫と緋の傷跡は鮮やかで、どうしてかそのコントラストに烈しく惹かれた。唾液が込み上げ、心臓が烈しく脈打つのが判った。後頭部が罅割れるように痛み、耳鳴りがする。
「まだ……まだ、私は子供?」
彼女の狡猾な瞳が視界に這入る。恐ろしくて直視も出来ずに、身体を捻って目を逸らす。此処から逃げ出したいと思った。眼前の光景から。向けられる視線から。――自分の中に生じた黒い渦から。
「ずっと、好きだったんだよ。」
「……知ってる。」
知らない筈はなかった。それでもこうして性の違いを意識する日が来ることを信じたくなかった。映る世界が正しく視えても、都合の良いようにこじつけながら造り替えた。もう、それは通用しない。二年の差があったとしても、俺が成長すれば、彼女も同じように成長する。――否、その成長は同じものである筈もなく、経験し得ることでさえ俺の『二年前』とは違うのは当然だった。
「私たちは、男女、だよ。」
耳を塞ぎたかった。何も聞こえない真っ暗な穴の中に這入りたかった。この馨りが届かない場所へ。悪魔の聲で囁く沈黙を紛らわすように口を開いた。
「雪は!……子供だ、」
子供なのは俺の方だ。声を張り上げた後にハッとして、彼女を恐る恐る見遣る。彼女は哀しそうに、そして何故か救われたかのように、笑っていた。
「服、着るね。もう帰るから、……ごめんね。」
彼女は素早く白いブラウスで身を覆い、ボタンを掛けた。その真白なブラウスよりも、彼女の膚の方が“白”と云うに相応しいと想った。隠されていく“白”と同時に、彼女が普段見せずに過ごしてきたものの大きさに気付かされた。
玄関先で母親に「お邪魔しました」と言った彼女の明るい声は、普段通りを懐わせた。あんなに大きなモノを隠しながらこうして笑顔を繕う彼女を想うと、胸が頻りに痛む。
「……雪」
無意識に俺は彼女の背中を小さく呼び止めた。彼女は造作なく振り向く。
「無理、するな。」
今し方傷付けておいて何も言えた義理じゃないことことは充分に理解していた。けれど、彼女は俺が何を言っても否定しない。そのことにつけ込む俺は、いつ迄も大人になりきれない子供だった。それに較べ、彼女はずっと“大人”だった。
「大丈夫だよ。――お兄ちゃん、」
彼女はそれだけ言うと、隣に在る自分の家へ帰って行った。それなのに彼女が何処か遠くへ行ってしまうような気がした。否、もう遠い所にいるのだと気付いていた。俺の感情を、彼女は簡単に汲み取ってしまう。誰かを不安にさせないよう、不快を感じさせないよう、彼女は自分を殺して生きている。
俺よりも背が高い彼女の後姿は、細すぎて今にも折れて仕舞いそうだった。風に吹かれたら飛ばされる気さえする程、彼女は軽いのだろう。それでも地に立っているのは、背負っている錘の所為だと感じた。彼女の存在は揺蕩っていて、追い駆けることも掴もうとすることも叶わない。部屋に漂う彼女の残り香が無性に息苦しくて、それでもこの『桜のかおり』が消えないであり続けるのを祈った。
虚ろな笑みを泛べながら、ずっと変わらず俺のことを呼ぶ。風に同じ馨りを燻らせながら。その姿は、俺の脳裏に焼き付いているモノの方がずっと鮮明で、現実に生きる彼女はあまりに稀薄だった。それでもその消えそうな灯火を、いつも限界迄放っていた。その日見送った彼女の後姿が、あの時彼女が部屋に残していった『桜のかおり』が、彼女が存在していたことを示す『最期の証明』だった。
数ヵ月後、彼女は死んだ。少し離れた――彼女の通う学校に近い、細く聳え立つ廃ビルの屋上から飛び降りたらしい。死体を見ることもなく、身内だけで執り行われた葬儀は知らぬ間に終えられ、暫くして彼女の家は引っ越したらしく、売り物件となった。彼女の家の正面に当たる場所に建った新築の家には、もう人が住んでいる。小さな子供が彼女の家が在ったその周りを興味深そうに見つめるのを、幾度か目にした。彼女と過ごした何年もの月日は実体を有たず、四季が過ぎていくのに近い感覚だったように懐う。
俺は高校二年に成ると急激に身長が伸び、学年でも上から数えて一桁の、細長い躯体と成った。ずっとコンプレックスだったそのことでさえ失ったのが、侘しさに拍車を掛けた。
彼女があの日堕ちたのは、背負っていた錘の所為だろう。それとも軽過ぎて、人知れず風に流されている儘なのかも痴れない。彼女が『死ぬ』ことはない。“死ぬ”と云うにはあまりに生気が薄く、“生きて”さえいなかった彼女は。
いつか店先で見た『桜のかおり』のピンク色の容器に入ったシャンプーは、高値だった為か売れ行きが悪く廃番になり、軅てどの店舗からも消えた。誰の記憶からも、その馨りは忘れられたのかも知れない。
――それでも春になると、俺は確とそのにおいを感じた。桜の薄桃色に彩られた景色の中から、確かに。
身長は悠に一八〇糎を超えていた。もし彼女が隣にいても、俺の方が高い筈だった。それなのに、一度背を追い越されたあの時から、風の運んでくるその馨りはいつだって俺よりもずっと高い位置から薫ってくる。
彼女が死んでから丁度二年経った四月八日の今日も、コンクリートの灰色一面を薄桃色で塗り潰すかの如く桜の花びらが落とされていた。あと僅かで木々からはその淡色も、馨りも消えていくのを感じる。
――そんな時期。俺は窓から見える、春の淡いコバルト色の空に呼び掛けるように見遣った。椅子を登ると、天井に頭をぶつけそうになる。桜の木々が遠く下方に観える。
そして苦労して掛けたロープの輪に、俺はその頸を通した。
二年の歳の差があった彼女と俺の立ち位置は完全に逆転し、俺の方が丁度二年、遅れたのだ。それでも彼女とあの場所を共有したあの最初の日と同じよう、同じ最期に身を委ねたかった。俺の陳腐な、崩れきった自尊心の下で。
花吹雪は最期の一片も残さずに、人々を魅せた。
・解説
コンプレックスと「まだ子供だ」という発言の中の主人公の精神葛藤を描きたかったのですが、曖昧に。
書き始めの部分は、「雪」の存在を誰も憶えていないであろう事への悲嘆でもあります。ちなみに自殺の決行の直前くらいだと思います。
性別を意識する事の恐怖、「まだ子供だ」と自身と少女に言い聞かせることで関係を崩したくなかった、的な感じです。
生きてさえいなかった、は存在が希薄過ぎた事、何も残していかなかった事等…。
主人公は少女「雪」の事を異性として好きになれない、ではなく、なりたくなかった、に近いです。
彼女が死んでから身長が急に伸びた、という点が個人的に好きだったりします。それでも桜の木の花の高さには及ばないので、見下されている訳でなく、「見下される立場でしか居られない自分」を描きたかったのですが…。
・反省点
最後の括り方が不明です。
展開がごたごたとし過ぎている気がしてなりません。あとテーマが毎回似たり寄ったりですいません、という感じです。




