第五話 教室を壊すノイズと、過去からの来訪者
第五話 教室を壊すノイズと、過去からの来訪者
優等生神崎梓の「破戒」は、校内で大きな波紋を呼んだ。
「神崎さんが軽音部に入ったらしいよ。しかもベースだって」 「あの、いつも冷静な神崎さんが? しかも、あの問題児の大音響と一緒のバンド?」
廊下で、教室で、生徒たちの囁きは、神崎に向けられる好奇と困惑の視線に変わった。クラス委員の席に座る神崎の耳には、そのすべてが、自分が選び取った「間違った道」への否定として聞こえた。
(私は、一体何をしているんだろう?)
指先には、ベースの弦を弾いた後の微かな痛みと、皮膚に吸い付くような低音の残響が残っている。昨日の練習で覚醒したグルーヴの快感は、優等生としての「正しさ」を突き破る、強力なノイズだった。
大音響は、周囲のざわめきを完全に無視していた。彼の関心は、ただ一つ。神崎のベースと神田のドラムが作り出す、極上の土台の上で、いかにYUKIATSUの魂を最大限に解放するか、だ。
「梓。お前のグルーヴは最高だ。あの重さは、人を窒息させられる。だが、まだ足りない。もっと泥をつけろ。お前の優等生の清廉潔白さを、その四本の弦で汚し尽くせ」
放課後、大音響の指導はますます過激になっていた。彼は、部室のエアコンを切り、窓を閉め切り、灼熱の密室で練習をさせた。
「汗をかけ。血を流せ。その熱量が、音になる。音を恐れるな。お前たちが出す音は、この世界に対する宣戦布告だ」
その頃、校門の外には、一台の黒塗りの車が止まっていた。運転席から降りてきたのは、スーツ姿の精悍な男性。その鋭い瞳には、音楽業界の荒波を渡ってきた者の年季が刻まれている。
彼の名は、氷室 優作。かつて夭折したギタリスト、YUKIATSUのマネージャーを務め、彼の狂気と才能を誰よりも近くで見てきた人物だ。
「まさか、この高校に……」
氷室の元に、「YUKIATSUを彷彿とさせる高校生がいる」という、信じがたい噂が届いたのだ。彼は、好奇心と、そしてある種の恐怖に駆られ、この学校を訪れていた。
部室棟に近づいた氷室の耳に、校舎の壁を突き破るような轟音が届いた。
神田の正確なビート。藤原の美しいが捻じれたメロディ。そして、地を這う神崎の重低音。そのすべてを切り裂く、大音響の鋭利なギターソロ。
その音を聴いた瞬間、氷室の体が硬直した。
(この音……このピッキングの癖、フレージングの狂気! まさか……YUKIATSU!)
彼の音は、YUKIATSUの「業」そのものだった。あの魂を焼き尽くすような演奏を、なぜこの高校生が再現できるのか。氷室の額に、冷や汗が滲んだ。彼は、大音響の正体を知る、最初の外部の人間となるかもしれない。
その日の練習は、一人の教師の登場によって、強制的に中断された。
生徒指導部主任の赤木先生は、怒りに顔を赤くし、部室のドアを乱暴に開けた。
「おい! 大音響! お前、また音量を上げすぎだ! そして、この部室の室温は何だ!? 危険だぞ!」
赤木先生は、汗だくの部員たち、そして床に散乱した楽譜(大音響が破り捨てた教則本の一部)を見て、さらに激昂した。
「しかも神崎! お前までいるのか! お前はクラス委員だろう! なぜ、こんな危険な活動をしているんだ! すぐにベースを置いて、家に帰りなさい!」
赤木先生の言葉は、生徒たち、特に優等生である神崎梓の立場を、容赦なく抉り取った。
神崎は、ベースを抱きしめたまま、身体が震えるのを感じた。クラス委員としての責任感と、ベースが弾き終わった後に残る、自己表現の強烈な快感。二つの世界が、彼女の中で激しく衝突していた。
「先生、これは、音楽活動です。危険な活動では……」
神崎が絞り出すように反論しようとした瞬間、大音響が一歩前に出た。
「赤木先生、だったか。くだらない校則を振りかざして、他人の魂に口を出すな」
大音響は、ギターネックを指差し、挑戦的な笑みを浮かべた。
「俺たちの音は、お前たちの作り上げた秩序を破壊するためのノイズだ。不快か? それでいい。お前たちは、俺たちの音楽から目を背け、耳を塞ぐことしかできない」
赤木先生は、激しい動揺の後に、声を荒げた。
「大音響! 今すぐ退部だ! そして、神崎! お前は、この馬鹿げた活動から手を引け!」
神崎は、自分が選択すべき瞬間が来たことを悟った。優等生としての地位を守るか。それとも、この狂気的なバンドの一員となるか。
彼女は、ベースを床に置かず、しっかりと肩に担いだまま、大音響の横に並び立った。
「赤木先生」
神崎の声は、驚くほど冷静で、深く響いた。
「私は、退部しません。そして、ベースを置くつもりもありません。私は、彼が必要とする地響きとなることを選びました。優等生の私を、もう放っておいてください」
その瞬間、神崎梓は、完全に優等生の殻を打ち破った。彼女は、自らの意思で「間違っている音」の世界を選び取ったのだ。
大音響は、神崎をちらりと見、満足そうに口角を上げた。
「見ての通りだ、先生。俺のバンドの土台は、もう誰にも壊せない」
部室のドアの外。氷室優作は、その一部始終を立ち聞きしていた。彼の顔には、驚きと、そして確信が浮かんでいた。
(間違いない。彼は、YUKIATSUの魂を宿している。そして、あのベーシスト。彼女は、あの狂気を支える、新たな核になる……)
氷室は、そっとその場を離れた。彼は、この高校に現れた「災害」を、どう扱うべきか考え始めていた。この新生バンドは、世界を、そして彼の過去を、再び揺るがすことになるだろう。
俺か。俺が、この茶番について語るのか。
どうでもいい。優等生のクラス委員が、自分の役割を捨てたところで、世界に何の影響がある? くだらない。
だが、あの女──神崎梓。あいつは、俺の期待を超えた。
初めは、ただのリズムの塊だと思っていた。優等生的な、硬すぎる身体に宿った、最高のグルーヴ。俺の音を支えるためだけの、ただの土台だ。
だが、あの教師、赤木とかいうクソ野郎に追い詰められた時、あの女の目を見た。
あの時、あいつは選んだんだ。自分の築き上げた「正しい」世界を、俺の「間違った音」のために、自らぶち壊すことを。あの瞬間、あいつの身体から放たれる低音に、魂の重さが加わった。
優等生の皮を破り捨てた音は、美しい不協和音だ。
神田雷は、俺の音の「骨格」を、正確無比に支える。藤原旋風は、俺の音に、聴衆を誘惑する「毒」と「甘美さ」を仕掛ける。そして、神崎梓は、俺たちの音を大地に繋ぎ止め、聴衆をその場に縫い付ける「重力」を担う。
これで、揃った。
俺の魂、YUKIATSUの業を、この世界に再び叩きつけるための、最高の武器が。
そして、校門の外にいたスーツの男。あの気配、覚えているぞ。あの男は、俺の過去だ。俺が置き去りにしてきた、音楽業界という名の巨大な棺桶から這い上がってきた腐肉。
だが、構わない。
俺の音は、過去も、現在も、すべてを焼き尽くす。
このバンドの音は、もう誰も止められない。覚悟しておけ、この世界。
大音響




