第四話 地獄のグルーヴと優等生の破戒
第四話 地獄のグルーヴと優等生の破戒
軽音部の部室は、新しいメンバー構成で、昨日までの寂寥感が嘘のように満ちていた。大音響は、ストラトキャスターを肩にかけ、新メンバーたちを見据えていた。
ドラムの神田雷は、スティックを正確に握り、一切の無駄がない姿勢で座っている。サイドギターの藤原旋風は、アコースティックな響きを持つギターを抱え、その表情には内向的なメロディメーカーの影が落ちていた。
そして、ベースギターを抱えた神崎梓。彼女の困惑は隠しようがなかった。ベースは重く、ネックは太い。指先は弦の冷たさに戸惑っていた。
「大音響くん、本当にこれでいいの? 私、楽譜も読めないし、ベースラインなんて、どう引けば……」
神崎が不安そうに尋ねると、神田が冷たい視線を送った。
「経験のない素人が、いきなりベーシストですか。大音響、いくらなんでも冗談がきつい」
藤原も小さく頷いた。「僕たちの音は、遊びじゃない。リズムの土台が崩れたら、何もかも成立しない」
大音響は、二人の天才的な新メンバーの疑念を意に介さなかった。
「楽譜? くだらない。お前たちが奏でるのは、計算された音ではない。魂の叫びだ」
彼は神崎に歩み寄ると、ベースのボリュームノブを最大に回した。
「神崎、いいか。お前は今日、ベースを弾かない」
神崎は目を丸くした。「え?」
「弾くんじゃない。聴け。そして、感じろ」
大音響は、ドラムの神田を見た。
「雷。お前の最も正確なビートを刻め。メトロノームよりも正確に、だが、一音たりとも感情を挟まずに。お前の音が、このバンドの骨格となる」
神田は反射的に頷いた。彼は、感情を排した正確無比なビートを刻むことにかけては、誰にも負けないという自負があった。
スティックがシンバルを叩き、バスドラムが床を揺らす。
タツ、ドム、タツ、ドム。四分音符のビートが、部室を満たす。神田のビートは、一切の揺らぎがない、冷徹な機械のようだった。
「梓。お前は、そのビートを身体に入れるんだ。お前の優等生の頭で分析しようとするな。五感の全てを、雷のビートに捧げろ」
大音響はそう命じると、自らもギターを手に取った。彼は、YUKIATSUの得意とした、複雑で即興性に富んだフレーズを弾き始めた。神田の正確なビートの上で、大音響のギターは、狂乱するように、そして挑発するように唸りを上げた。
神崎は、ベースを抱えながら立ち尽くしていた。彼女の優等生としての理性は、「弾き方を知らない」と悲鳴を上げている。だが、彼女の身体は、神田のビートに、大音響のギターに、激しく呼応していた。
神田の正確なビートは、まるで重いハンマーのように神崎の心臓を叩き、大音響の音の奔流は、彼女の優等生の殻を叩き割ろうとする。
(ダメ、弾けない。どこを押さえればいいの? 何をすれば……)
恐怖と混乱の中で、神崎は目を閉じた。彼女の頭から、規則、常識、優等生としての立場、すべてが消え去った。残ったのは、ただ、神田のビートが作り出す、空間の重力だけだった。
その時、大音響の、鋭い声が部室に響いた。
「違う! 雷のビートは、ただの線だ。お前のベースで、その線に厚みを、粘りを与えろ!お前が大地だ!雷が天から降るなら、お前は地から這い上がれ!」
大音響は、YUKIATSUとしての記憶の中で、伝説のベーシストが刻んだ、あの地を這うようなグルーヴを求めていた。
神崎は、絶望的な緊張の中で、身体の奥底から何かが湧き上がってくるのを感じた。それは、理屈ではない、本能的な揺れ。
彼女の指が、無意識にベースのネックを握りしめ、弦を弾いた。
ブォォォォン……
空気を切り裂くような大音響のギターとは対照的に、神崎のベースは、部室の床下から響くような、重く、粘りつくような低音だった。それは、神田の正確な四分音符の間に、絶妙な遅延と圧力を加え、ビートに生命を吹き込んでいた。
神田の目が、驚愕に見開かれた。彼の正確で無感情なビートが、まるで生き物のように、躍動し始めたのだ。
「これだ……!」
大音響の顔に、初めて、満足と歓喜の笑みが浮かんだ。彼の求めていた、地獄の重さを伴うグルーヴ。YUKIATSUのバンドの土台を支えた、あの至高のグルーヴが、神崎梓という優等生の身体で、今、覚醒したのだ。
神崎は、自分が何をしているのか全く分からなかったが、指が勝手に動き、身体がビートに合わせて揺れていた。それは、誰かの指示ではなく、彼女の魂が、ベースという楽器を通して、初めて自己を表現している瞬間だった。
藤原は、弾くのを止め、ベースを抱えた神崎を凝視した。
(優等生なんかじゃない。これは、天賦の才。僕のメロディは、このグルーヴの上でなら、世界を変えられるかもしれない……)
大音響は、満ち足りた音の土台の上で、再びギターを弾き始めた。その音は、以前よりもさらに激しく、そして、どこか高揚感を帯びていた。
神崎梓は、優等生としての殻を破り、大音響という名の狂気の渦へと、完全に足を踏み入れたのだった。
どうも。藤原旋風です。サイドギターをやっています。
今日の練習、正直に言って、鳥肌が止まりませんでした。
僕の音楽は、メロディがすべてです。どれだけ美しく、どれだけ聴く人の心に寄り添えるか。それが僕の唯一の才能だと思っていました。大音響には「内向的で自己完結的だ」と酷評されましたが、それも否定できません。
でも、今日の練習で、僕のメロディの土台が、完全に変わってしまいました。
神田雷くんのドラムは、本当に正確です。彼のビートの上でなら、どんな複雑なフレーズでも完璧に弾ける。だけど、それはまるで、美しい設計図の上で作業をしているようで、どこか息苦しかった。
そこに、神崎さんが加わったんです。
ベース未経験の優等生。最初は、正直に言って、馬鹿にしていた。大音響の狂気に付き合わされているだけだと。
ですが、彼女がベースを弾き始めた瞬間、僕の耳を疑いました。
「グルーヴ」って言葉は、音楽用語として知っていましたが、彼女のベースは、グルーヴというより重力です。地を這うような、粘りつくような、まるで泥の中で何か巨大なものが蠢いているような低音。神田くんの正確なビートの周りを、その重力が包み込み、引きずり込み、全体を一つに圧縮する。
僕のメロディは、普段は空を舞う鳥のようでしたが、神崎さんのベースの上では、大地を疾走する猛獣に変わりました。
大音響が求めていたものは、これだったのか。彼の狂気的なギターの音を、世界に叩きつけるための、最も強固で、最もエモーショナルな土台。
神崎さんは、自分の才能にまだ気づいていないでしょう。彼女の無意識の身体が、最高の音楽を求めている。
このバンドは、本当にヤバいことになりそうです。僕の美しいメロディが、大音響の業、神田くんの正確性、そして神崎さんの地獄のグルーヴと組み合わさって、どんな毒を世界に撒き散らすのか。
期待しかありません。そして、少しだけ、僕のメロディが、このバンドの熱に負けて焼き尽くされてしまわないか、不安でもあります。
藤原 旋風




