第二話 暴君とヒロインの不協和音
大音響が軽音部に入部して一週間。部室は、かつての和気あいあいとした空間から、張り詰めた戦場へと変貌していた。
部長の三年生、村山はるかは、地元の文化祭レベルの演奏を目指す穏健派だったが、ひびきの圧倒的な才能と、彼が放つ音の凄まじさに、反論の言葉を持てずにいた。ドラムの岸田たつや、リードギターの田村ゆうたもまた、ひびきの有無を言わさぬ指導に、ただ従うしかなかった。
「田村、お前は指が動くことだけに満足している。それは、楽器を弾いているんじゃない、ただ指の運動をしているだけだ。ピッキング一つに、殺意を込めろ。それができなきゃ、お前は永遠に凡庸だ」
ひびきは、田村の指先をストラトキャスターのネックごと掴み、力任せに弦を押さえさせた。田村の指が悲鳴を上げる。
「痛っ……痛いです!」
「痛い? ロックとは痛みを伴うものだ。その痛みを音に変えろ。お前の音には、血が通っていない」
ひびきは容赦しなかった。彼の指導は技術論ではなく、精神論、いや、魂論だった。彼は、YUKIATSUとして生きていた時代の、極限まで自分を追い込む哲学を、そのまま高校生たちに押し付けていた。
彼らが取り組んでいるのは、ひびきが持ち込んだ、複雑極まる変拍子と、超絶技巧を要するオリジナル曲だった。難易度は彼らのレベルを遥かに超えていたが、ひびきは「できない」という言葉を許さなかった。
「岸田、お前のリズムは重すぎる。だが、重いだけだ。もっと深淵の底から響かせろ。お前のビート一つで、地獄が揺れると思え。もう一度、頭から」
その時、部室のドアが控えめにノックされた。
「あの、軽音部ですか?」
戸口に立っていたのは、一人の女子生徒だった。整った顔立ちに、知的な雰囲気を漂わせる二年で、校内でも評判の優等生。彼女の名は、神崎 梓。クラス委員を務める彼女は、以前、図書室で静かに本を読んでいる、平凡な大音響と挨拶を交わしたことがあった。
神崎は、部室内の異様な光景に目を奪われた。
まず、部屋中に充満する、濃密な空気。以前の軽音部は、もっと弛緩した、運動部の休憩所のような匂いがしていたはずだ。そして、異様な熱気。アンプは最大近くまで回され、ドラムセットは激しく叩きつけられ、ベースは唸っている。
そして、その中心にいる、大音響。
神崎は驚愕した。彼女が知っている大音響は、いつも教室の隅でぼんやりと座っている、目立たない少年だった。しかし、今目の前にいる大音響は、まるで別の生き物だった。
ストラトキャスターをまるで体の一部のように抱え、鋭い眼光で部員たちを射抜いている。その背中からは、ステージ上で観衆を支配する王者の威厳が滲み出ていた。
特に彼の声。以前の彼の声は、控えめで、少しこもっていたはずだ。しかし、今彼の口から出る言葉は、重く、深く、そして有無を言わさぬ説得力に満ちていた。
「岸田、止めろ。最悪だ。魂が震えていない」
ひびきがそう一喝すると、ドラムの岸田は、明らかに疲労困憊の様子でスティックを置いた。
神崎は戸惑いながらも、勇気を出して話しかけた。
「あの、大音響くん……?」
ひびきは、その声に気づき、初めて顔を上げた。彼の視線が神崎を捉えた瞬間、神崎は背筋が凍るのを感じた。
それは、以前の彼が持っていた、どこか焦点の定まらない目ではなかった。それは、すべてを見透かし、すべてを焼き尽くすような、研ぎ澄まされた、鋭利な光を放つ瞳だった。
「誰だ。用がないなら帰れ。ここは遊び場じゃねえ」
その声は冷たく、完全に他人行儀だった。
神崎はショックを受けた。以前の彼なら、「あ、神崎さん」と、少し照れながら挨拶を返したはずだ。
「わ、私は……先生に頼まれて、文化祭の準備期間の確認に来たんだけど。それより、大音響くん、どうしたの? 別人みたい」
神崎は、変化を認めざるを得なかった。この一週間で、大音響の存在そのものが、別人のものに置き換わってしまったようだ。
ひびきはフンと鼻を鳴らした。
「別人? 元々こういう人間だ。お前が勝手に勘違いしていただけだろう。文化祭の準備? ああ、うちは出る。だが、お前たちが普段聞いているような、馴れ合いの音楽じゃない。聴衆の神経を逆撫でしてやる」
部長の村山が、慌ててフォローに入った。
「す、神崎さん、ごめんね。彼はちょっと熱血なだけで……」
「熱血?」ひびきは村山の言葉を遮った。「違う。これは業だ。音楽とは、自らを焼き尽くす業。お前たちには、それが理解できていない」
ひびきは、神崎に向き直った。
「神崎梓、だったな。優等生のクラス委員。お前は、正しいことと、間違っていることの区別がつけられるつもりか」
「ええ、もちろん」神崎は少しムキになって答えた。
「そうか。では、教えてやる。俺の音は、お前たちが聞くべきではない、間違っている音だ。だが、この世界で最も美しいものもまた、間違っている音から生まれる。お前は、その違いを理解できるか?」
神崎は何も言い返せなかった。目の前の大音響は、哲学者のように深遠な言葉を吐き、そして、狂人のように激情を放っていた。
「さあ、用が済んだなら出て行け。俺たちは、世界をぶっ壊すための練習に戻る」
神崎は、一歩も動けずに立ち尽くす軽音部の三人と、その中心で圧倒的な存在感を放つ大音響を見て、部室を後にした。
(彼は、大音響くんなの? それとも、誰か別の、恐ろしい存在が彼の中に入り込んでしまったの?)
神崎の心には、恐怖と、そして抗いがたい好奇心が渦巻いていた。彼女の平穏な日常に、大音響という名の不協和音が、響き始めたのだった。
私は、ただ先生に頼まれて軽音部の確認に行っただけでした。本当に、ただそれだけのつもりだったんです。
でも、あそこはもう、私の知っている軽音部じゃありませんでした。
田村くんや岸田くん、村山部長の顔つきが、もう全然違うんです。楽しそう、というよりは、何か恐ろしいものに追い立てられているような、張り詰めた緊張感。そして、あの部屋に充満していた、熱気と、異常なほどの音の圧力。
そして、大音響くん。
彼が、あんなに変わってしまうなんて、想像もしていませんでした。私が知っている大音響くんは、図書室で静かに本を読んでいる、控えめな人でした。でも、部室にいた彼は、まるで――まるで、ステージの上に立つ、狂気的な支配者のようでした。
言葉も、視線も、すべてが鋭利で、人を突き刺す力を持っていました。「ここは遊び場じゃねえ」「魂が震えていない」……。あんな言葉、彼は絶対に言わない人だったはずです。
私が「どうしたの? 別人みたい」と尋ねたとき、彼の瞳の光。あれは、本当に怖かった。私のことなんて、どうでもいい。ただ、自分の音楽、自分の業だけを見つめている、孤高の存在。
彼は、「俺の音は、お前たちが聞くべきではない、間違っている音だ」と言いました。そして、「世界で最も美しいものも、間違っている音から生まれる」と。
優等生として、私は常に「正しい」道を選んできました。規則を守り、常識に従い、誰も傷つけない生き方。彼の音楽は、その私の「正しい」世界のすべてを、根底から否定しているように感じました。
正直に言って、恐ろしいです。彼は、本当に大音響くんなのでしょうか。それとも、彼の中には、私たちには理解できない、何か別のものが宿ってしまったのでしょうか。
でも……彼の音を聴いた部員たちの目も、ただ怯えているだけではありませんでした。あの音には、恐怖を凌駕する、抗いがたい魅力と、真実のようなものが込められている気がしました。
私は、彼の「間違っている音」が、なぜあんなにも力強いのかを知りたい。優等生の私にとって、彼は、見てはいけない、触れてはいけない不協和音です。
私は、このまま引き下がるわけにはいきません。大音響くんが、この一週間でどう変わってしまったのか。そして、彼の言っている「業」とは何なのか。
彼の周りで起きていること、すべてを探り始めようと思います。
神崎 梓




