胸騒ぎ……
ふわり、教室のカーテンが揺れた――。
ほどいて風になびかせた少女の髪の毛みたいに。
はた、はたと、白いナイロンの生地は、窓から入り込む夏の気だるさを受け流して大様にひらめく。
やわらかな風がふわっと鼻先をなでてゆく。そこに匂いを感じる。
校庭から流れ込む土の香り、草木の瑞々しさ、かすかな漂白剤と、それから誰かさんの香水の匂い……。
ふわ、ふわり――。
ざわり。
同時に、あたしの心にも小波が立った。
「そのヤバいっての……ちょー綺麗とか、ちょー憧れちゃうとか、そういう意味での、ヤバい?」
「ううん、違うよ。ちょー危ないとか、ちょー関わりあいにならないほうがいい、みたいな、ヤバい」
チャコちゃんは大まじめにそう言って、あたしの目の奥をちらっと覗き込んだ。
うむむむ……。
たしかにヨウスケって、雰囲気ふつうじゃないところがある。なんて言えばいいのかな、野性的というか、デンジャラスというか……、そう、まるで自由にサバンナを駆けて獲物を狩る肉食獣みたいなしなやかさと奔放さを備え持っている。てっきり飼い猫だと思って抱き上げたら筋金入りの野良で、なにするんだよー、って暴れられて、顔や腕を引っ掻かれてしまう。そんな感じ。
でも、それってヤバいってゆーのとは少し違う気もする。
昨日、ほんの数時間だけ一緒に過ごしたけど、彼女からはいわゆる不良の匂いみたいなものは嗅ぎ取れなかった。ただ自由気ままに、天真爛漫に、自分の思うがままに行動している。それだけ。そこに性悪な攻撃性やすさんだ人生観などは存在しない。
具体的にどうヤバいんだろう……。
「ねえチャコ、それってどっち方面からの情報よ?」
「うちの姉貴方面」
「ああ、ネネさん……。あれ、ひょっとしてヨウスケってか卯月先輩、ネネさんと同じクラスなわけ?」
「そうだよ。中ぼうのときも同級生だったし、今も一緒のクラス」
チャコちゃんには、ネネさんという年子の姉がいる。高校も一緒で、つまりはあたしたちの先輩。
余談だけど、彼女たちのパパは若いころ太閤記の大ファンだったらしい。だからもし自分に子どもが生まれたなら、男ならば秀吉、女には寧々と名付けようと固く心に決めていたという。でも子どもの名前を親の趣味で決めてしまうなんて、ずいぶんとはた迷惑な話だ。寧々はまあ許せるにしても、秀吉なんて名前付けられた子どもって、かなり不憫だと思う。まあ幸いにして生まれてきたのは二人とも女の子だったけど、でもチャコちゃん、あやうく茶々という名前を付けられるところだった。茶々ってゆーのは、もちろん太閤秀吉の側室、淀殿のこと。けっきょく夫婦ゲンカのすえ折中案として茶子に落ち着いたんだけど、でもたまにカラシと読み違える子がいて、そんなときは未だにちょっとだけ親を恨むって愚痴をこぼしていた。
そのチャコちゃんが口重に語りはじめた。
「なんかね、卯月先輩って中学のときは学校へ来たり来なかったりを繰り返してたんだって。だけど登校拒否ってゆーのとはちょっと違うんだな。とくにイジメにあってたわけじゃないし。なんて言うか、もっと深刻な事情ってゆーか、ワケアリっぽかったみたい」
「それって単に病弱だったとか……」
「違う違う、いたって健康、スポーツ万能、一時は陸上部に席置いてて、インターミドルの県予選を上位通過したこともあるって――。でもね、中学三年のときだったか、二ヶ月ほどまったく登校しなくなったことがあって、そのときは京都にある医療少年院へ送られたって噂流れたみたい。先生たちも彼女のことは、まるで腫れ物にさわるみたいに扱ってたらしいよ」
医療少年院……、それってちょっと穏やかじゃないな。
「それとね、ここへ入学したばかりのころの話なんだけど、卯月先輩、恐い上級生たちに目ぇ付けられて便所へ連れ込まれたんだって。ほらあの人ってルックスちょー可愛いじゃない。普通にしてても、やっぱ目立っちゃうらしくってさ」
たしかにヨウスケって目立つ。外見のケバケバしさとかじゃなく、存在そのものの輝きが自然と人目を引いてしまうのだ。例えて言うなら、造花をたばねたブーケのなかに、一輪だけ生きた本物のバラがまじっている。だれが見たって、その一本だけ瑞々しさが違う、美々しさが違う、命の輝きが違う。だから女の子はみんな彼女を見てまず憧憬し、やがて嫉妬心を芽生えさせるのかもしれない……。
「美人の後輩をいじめるなんて情けない先輩たちだよね」
「うんうん、まるで自分はブスだから面白くなくてやってるんです、って喧伝してるようなものじゃんね」
「でもね、姉貴たちが慌てて先生呼びにいって戻ってみたら、上級生たちみーんな鼻から血ぃ流して便所のタイルの上にうずくまってたんですって――。で、当の卯月先輩はってゆーと、洗面台んとこで涼しい顔して手に付いた血を洗い落としてたって……」
一瞬、頭のなかでヨウスケの精悍で美しい顔が、にやりと笑った。あいつならやりかねない。不良の先輩たちを叩きのめすなんて朝飯前だろう。なにせ電車のなかで痴漢の指をへし折ったくらいだから。
「うちの姉貴もさ、あの人とは一応友だち付き合いしてるけど、やっぱそれなりに距離は置いてるみたい。なんか一緒にいると、ときどき恐くなることがあるんだって――」
「恐い……って、どんなふうに?」
「ふだんはもの静かなんだけど、なにかの拍子に突然、豹変するの。キレるとか癇癪起こすんじゃなくって、まるで人が違ったみたいになってしまうのよ、ほら、ジキルとハイドって話あるじゃない。あんなふうに」
ざわり――。
心のなかで無数の蛾が羽ばたくように感情がうごめいた。すごく苦いものを飲み込んだときのように胃がきゅっと縮み上がる。なんだろう、この胸騒ぎ。さっきまでは、あんなにハッピーだったのに。ヨウスケのことが、だんだん分からなくなってきた。お腹に力が入らない。なんだか……息も……くるしい。
と思ったら、だれかに後ろから首を絞められていた。
「ぐ、ぐるじい……、ぢょっとやべろ」
必死に指をふりほどいて涙目で振り返ると、美樹が真っ白い歯を見せて笑っていた。やけにアイラインを強調したメイクが、まるでエジプトの壁画に出てくる女王様を思わせる、ちょっとエキゾチックな美人だ。
「なーに深刻な顔してヒソヒソやってんのよ? あー、さては、ゆみ子ぉ、あんたもしかして……」
「……な、なによ」
「ハラんだわね!」
「ばっ、ばかなこと言わないでよ、彼氏もいないのにどーやって孕めるってゆーのよ、あんまり危ないこと言わないでよね」
「きゃはは、ばーか冗談よ」
美樹はネムリヒメの異名を持つだけあって、授業中のほとんどの時間を夢の世界で過ごしている。その眠りっぷりは見事なもので、まるで充電中の家電製品みたいにひっそりと、しかし確実にエネルギーをため込んでいる。居眠りのしかたも巧妙で、古典の金田一みたいに注意しない先生のときには堂々と机に突っ伏すけど、数学の前田のようにうるさいやつの授業では、あたかも頬杖ついて教科書と睨めっこしているふうを装って、目立たないようこんこんと眠り続ける。とにかく授業中はひたすら眠っているのだ。そのおがげで休み時間になると元気百倍、勇気凛々、迷惑千万、妙にテンションが高くなり、うるさいことこの上ない。
「妊娠したんじゃないとしたら、なに真剣な顔して悩んでんのよ? ねーねー、教えろよぉ」
「ぜひ、あたしも聞きたい」
沙織が腕を組んで、美樹に同調する。
「え、だれだれ? だれが妊娠したって?」
そこへ、ボーイズラブのコミックを読み終えた愛子もやって来て、三人であたしを取り囲むかたちとなった。
「だからー、妊娠したとかそーゆーあぶない話じゃなくって」
仕方ないなあ、もう……。
チャコちゃんと目を合わせてくすっと苦笑いしてから、あたしは三人の友人に向きなおった。昨日出会った不思議な女の子、ヨウスケのこと、とても美人で、謎めいている、その彼女の話を、順を追って聞いてもらうことにしたのだ。
つづく……。