卯月せんぱい
「むかし、たむらのみかどと申すみかどおわしましけり。そのときの女御たかきこと申すみまそかりけり。それうせたまいて……」
一時限目の授業は、古典だ。
正直、あたしたちの将来において、これってなにかの役に立つの? みたいな退屈度ナンバーワンの教科。せっかくの爽やかな朝の目覚めがもう台無しって感じで、とにかく眠いことこの上ない。教室内を見渡してみても、イスに座ったままこっくりこっくり船を漕いでる子や、なかにはネムリヒメの美樹みたいに、堂々と机に突っ伏して爆睡してる強者までいる。かろうじて起きてる子だって教科書のかげにかくれてマニキュア塗ってたり、コミック読んでたり、ぼんやり窓の外を眺めながら物思いに耽っていたり。もう在原業平なんて、ぜんっぜんお呼びじゃないって感じの気の抜けた授業風景。
かく言うあたしだって、上の空で考えごとをしてたりする。
ヨウスケのこと。
同じがっこの生徒だったなんて思いもよらなかった。あんな不思議オーラを放つ美少女が、同じ校舎のなかで、同じ制服着て、一緒に学校生活を送っていただなんて、今まで気づきもしなかった。まあ学年が違うってのもあるんだろうけど……。でも昨日知り合ったばかりの子と再びがっこの前でめぐり会えるなんて、ほんと世の中ってせまい。十七才にしてそんな達観するようなこと言うのやだけど、まじでそう思った。
「……そこばくのささげもの木のえだにつけて、堂のまえにたてたれば、山もさらに堂のまえにうごきいでたるようになむ見えける」
古典担当の金田一先生が、眠気にさらに拍車をかけるような心地よいバリトンボイスで、伊勢物語の一節を読み上げている。横溝正史の小説に出てくる同姓の探偵よろしく、鳥の巣みたいなヘアスタイルをした三十代なかばの男性教諭だ。授業に熱が入るとそのぼさぼさ頭をかきむしるクセがあるので最前列の子なんかはちょっと警戒してるけど、意外にも毎日きちんと洗髪してるらしくて映画みたいにフケが飛び散るということはない。ただ見た目がなんて言うか、とっても貧相。顔は栄養失調おこしたナマズみたいだし、いつも眠たそうに目をしょぼつかせている。うちのがっこの男性教諭って、どうしてこうルックスのイケてないヤツばかりなんだろ。やっぱ生徒と色恋沙汰なんか起こされちゃ困るので、わざと外見しょぼい人ばかりを採用してるのだろうか……。
「あー、ここんとこ試験に出るからな、ようく聞いておくように。えー、右大将に、いまそかりける、藤原の、常行ともうす、いまそかりて……」
その冴えない金田一先生があたしたちに背を向けて、かつかつと黒板にチョークを走らせはじめた。少し右上がりの、ちまちました神経質そうな文字がならぶ。あーあ、だるくてノートなんか取る気になれないや……。あっそうだ、携帯で黒板をまるごと写真に撮ってしまおう。そうすればノートへ書き写さずに済むしね。うん、あたしって天才。
そう思いついて制服のポケットから電話機を取り出したとき、手のひらのなかで発光ダイオードが点滅した。
およよ。
音を立てないようそっとディスプレイをひらいてみる。画面いっぱいに紙ヒコーキのイラストが浮かび上がった。
――新着のメールが一件あります。
だれだろう?
目だけで教室内を素早く見回し、このメールの送り主を探してみる。でも相変わらず気持ち良さそうに熟睡してる美樹は論外としても、沙織はさっきから仏頂面で教科書に落書きしてるし、いつもメールでちょっかいかけてくる愛子はボーイズラブのコミックを読むのに夢中だ。他にメールしてくるような子っていたっけ。
うーむ……。
とりあえずメールの中身を確認してみた。
――ゆこちゃん、昨日のお昼ごろ卯月先輩と一緒にいたでしょ?
あたしのことを、ゆこ、って呼ぶクラスメイトは一人しかいない。窓ぎわの一番後ろの席にすわってる、チャコちゃんを見た。ポパイに出てくるヒロインのオリーブみたいに、ひょろりと背の高い女の子。彼女はあたしと目が合うと、いたずらっぽい視線でウィンクしてきた。
そして、ふたたびのメール。
――卯月先輩とけっこう親しいんだね
――だれそのひと?
――あれ、知り合いじゃないわけ?
もう一度、チャコちゃんのほうを見る。シャンプーのCMに出てくるようなさらさらした長い髪を揺らして、不思議そうに首をかしげている。
あっ、そう言えばヨウスケのお姉さんが、たしか自分のことを卯月って名乗ってたっけ。とゆーことは、ヨウスケの苗字も卯月なんだ。ウヅキヨウスケ……。なるほどね。でもチャコちゃん、どうしてヨウスケのこと知ってるんだろう?
――チャコは、ヨウスケと知り合い?
すぐに返事が来た。
――ヨウスケなんて知らないよー、だれそれ?
ああ、メールだと、まどろこしくてイライラする。はやくこのくそつまんない授業終わんないかなあ。そう思った瞬間、金田一先生がくるっとこちらを振り向いた。そして手についたチョークの粉をこすり落としながら、教室内を睥睨しはじめた……。
「えー、じゃあこの問題、誰に答えてもらおうかな」
あたしって、こういうとき決まってドジを踏む。おとなしく下向いてりゃいいものを、ぐるーり生徒の顔を見回す先生とばっちり目が合ってしまった。
「お、よしっ井上、答えてみろ」
「げっ」
あんのじょう指名されて、イスの上でのけぞる。やばいぞやばいぞ、ぜんぜん授業なんて聞いてなかったぞー。
「……えと」
質問に答えられずもじもじしていると、先生がその鳥の巣みたいな頭をぐしゃぐしゃ掻きむしりながらつめ寄ってきた。
「うん? どうした井上、いまそかりの活用形だぞ、はやく答えろ」
いま……そかり? ってなんだっけ?
「え、えーと……」
冷や汗をにじませながら、どっかに答え書いてないかなー、なんて教科書の上に視線を泳がせていると、また携帯電話のLEDが光った。今それどころじゃないのにい……。でも発信者のメールアドレスが沙織のものだと知って、ほっと安堵の息をつく。助かった、神さま、仏さま、沙織さま……。先生にばれないよう注意しながら、そっとディスプレイを盗み見る。
――ばーか、らぎょうへんかくかつよう、にきまってんじゃん
沙織って見かけによらず、秀才だったりする。
「はい、えっとお、ラ行変格活用です」
「よし正解。じゃあついでに、同じラ変のなかで、侍り、の未然形を言ってみろ」
あわてて、ふたたび携帯へと視線を戻す。
――はべらむ
と書いてあった。
「侍らむ、です」
「……うん、まあ、ちゃんと予習しているようだな」
頭を掻きむしるのをやめて、先生はふたたび黒板へと向きなおった。沙織に向かって手を合わせ、感謝の意を伝える。彼女は形の良い鼻をつんと突き上げ、あんなの答えられて当然でしょー、みたいな顔をした。
彼女は、ほんとはもっと偏差値の高い高校へ行けたはずなのに、あたしや美樹や愛子たちと一緒にこの学校を選んだ。ケンジみたいな本物のおバカと付き合ってるせいで無理にレベル合わせて自分もバカっぽい言動してるけど、彼女の部屋には、あたしなんかじゃとても読みこなせないような分厚い哲学書が何冊も並んでいる。一度だけ、世界史の野口教諭と一神教について熱く論じあっている様子を見かけたことがあるけど、スピノザとか、汎神論とか、アニミズムとか、あたしの十七年間の人生では一度だって登場したことのないような難しい単語がぽんぽん飛び出してきて驚いた記憶がある。
彼女の夢は、昔も今も変わらない。
報道カメラマンになってインドのダラムシャーラーとかいうところへ行くこと。そこでチベット亡命政府の長だったダライ・ラマ十四世に会うことだ――。
古典の授業が終わり、その沙織が両手を高く持ち上げてうーんと伸びをしながら、あたしの席までやってきた。
「金田一に指されるなんて、あんた要領わるすぎー。あいつは自分と目が合ったやつしか当てないのに」
「あはは、さんきゅー、おかげでまじ助かったよ」
「じゃあ今日はひとつカレー味ということで、よろしく」
「……ほいほい」
じつは沙織に授業中助けてもらうと、一回につき学食でミニカップ麺を一個おごらなければいけない。いつの間にか、そういうルールができてしまった。若くして宗教や哲学なんかに造詣が深いくせに、ちゃっかりしてるってゆーか、ほんと現金なやつなのだ。
彼女と無駄話しながらのろのろ教科書を片づけていると、後ろのほうから名前を呼ばれた。見ると、のっぽのチャコちゃんが黒髪を揺らしながら近づいてくる。
「あのね、さっきの話のつづきなんだけど……」
あっ、そうそう、彼女にヨウスケのこと訊くんだった。
「うんうん、ヨウスケのことね?」
「……じゃなくて、ゆこちゃんが昨日会っていた、卯月先輩のこと」
「まあ、どっちでも同じなんだけど……」
苦笑いするあたしに、沙織が不思議そうな目を向けた。
「なになに、なんの話? ヨウスケ? ウヅキ? だれそれ?」
「ごめん沙織、後で話すから――」
そう謝っておいて、チャコちゃんのほうへ向き直る。
「でさ、その卯月先輩って下の名前なんてゆーか知ってる?」
すると彼女はあたしの隣の席へ寄りかかり、長い髪の毛先を指でくるくるもてあそびながら言った。
「名前は、そうねえ……千里。うん確か、うづきせんり、だったよ。千里の道も一歩から、の千里じゃないかな」
よっしゃ、ヨウスケの本名ゲット。あいつ卯月千里っていうんだ。
あたしが感慨深げに何度もうなずいていると、チャコちゃんは急に声をひそめて囁いた。
「……でもね、あのひとって、なんかヤバいらしいんだ」
つづく……。