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うっそーっ!

 ほっぷ、すてっぷ、じゃんぷで、はずみをつけて水たまりを飛び越えると、制服のスカートが風をはらんでふわっとひるがえった。一瞬だけ水面がきらっと輝く。今朝はなんだか調子がいい。心も体もやけにはずんでいる。パワーがみなぎっている。もうゼンマイを目一杯巻いたチョロQみたいに、五体がエネルギーのはけ口をもとめて張りつめている。

 ああ、久しく忘れていたこの感覚……。心のなかに誰かが住みついている。誰だろう? ひょっとしてヨウスケ? って、まさかね。たぶん今度の日曜日に出会うはずの、沙織たちが紹介してくれるというサッカー青年に違いない。まだ見ぬ人だけれど、でもサッカーやってるってことで、中学のとき付き合ってた恋人とイメージが重なってしまった。同時に、恋愛しながら過ごしてきたあの切なくて甘ったるいような日々のことが胸によみがえり、過去の思い出と未来への期待がごちゃまぜになって、勝手に新しい恋人のイメージを作り上げてしまったのかもしれない。

 とにかく予感だけはするのだ。

 なにか、とてつもなく素敵な恋がはじまるような、そんな予感が……。

 最近覚えたてのラブソングをふんふんハミングしながら、早朝の横断歩道を渡っていると、不意に背後から声をかけられた。

「よっ、今日はいつにも増して、ごっ機嫌みたいじゃーん。なにか良いことでもあったのかなあ?」

 ふり向くと、沙織が腰に手を当てて、にやにやしていた。

 ――あの顔ってぜったい、あたしをおちょくろうとしているときの顔。

 あたしは、すっとぼけた表情で小首をかしげて見せた。

「何のことお?」

 すると、あんのじょう、

「危険な恋の予感に、わくわく、どきどき、ってかあ?」

 なーんて言ってきた。

 ――まったくもう、この子ってばいつもこうなんだから。

 でも、だいじょうぶ、ほんとに楽しい気分のときって心にもゆとりがあるから、少しくらいからかわれたって、へっちゃら平気。あたしは余裕しゃくしゃくの表情で、あっかんべーしてやった。

「びーっ」

「あれま」

 あたしが思いどおりの反応をしめさないものだから、沙織はちょっと拍子抜けした顔をして、それからすねた目で空を見上げた。

「なーんだ、つまんねーの」

 それは悪うござんしたね。

 未明に少し雨が降ったせいで、風が薫っている。なんていうか、洗い立てのシーツみたいな香り。吸い込むと、鼻の奥に心地よい刺激がつんと突き上げてくる。そんな爽やかな風を頬にうけて、あたしは沙織と肩をならべ通学路を歩きだした。水たまりに映りこんだ雲の動きがやけに緩慢で、その青い空のなかをアメンボが気持ちよさそうに滑空している。あたしは、もう一度水たまりを飛び越えようと身構えて、沙織に腕をつかまれた。

「ちょっと止めなさいよ、子どもじゃあるまいし」

「いいじゃん、ジョイナーやらせてよ」

「だめだめ。もしあんたがヘマをして水たまりの上に着地したら、あたしまで水かぶるんだからね」

 沙織は、丸襟の真っ白いワンピースを着ていた。もちろん、あたしだって同じかっこう。襟元と袖口のところにマリンブルーのラインが入っていて、左胸には高校のエンブレムが刺繍されている。つまりはこれが、うちのがっこの夏服というわけ。どこにでもあるような私立の女子校なのに、どういうわけか制服がとってもお洒落。べつにお嬢様学校と呼ばれるようなところではないし、大学進学率も中くらい、スポーツもとくに強いというわけじゃなく、ほんとなんの特徴もない私大の付属高校なんだけど、なぜか制服のデザインにはこだわりがあるみたいで、県内でも珍しい純白のワンピースを採用している。……でも、こういうのってなんか良い。あまり欲張らず、なにか一つだけ、たった一つだけでいいから、他の学校にはないような輝ける部分を持っている。あたしも沙織も、この制服に憧れてうちの学校を選んだ。ちなみに襟と袖口にあるワンポイントのラインは、入学年度によって、赤、青、緑と色が分かれていて、その色を見分けることによって何年生なのか判るようになっている。今年の新入生は緑、そして先輩たちは赤といったぐあいに。

 学校が近づくにつれ、同じ制服を着た女の子たちの数がしだいに膨らんでゆく。夏の初めの月曜日、楽しさと気怠さが同居するなか、大人と子どもの境目を生きる彼女たちの顔に、底抜けの明るさはない。みな、笑顔の裏に何かしら悩みをかくしている。はやく大人になりたくて思いっきり背伸びしてるくせに、その一方で大人社会に対して意固地で感傷主義的な反感も抱いている。ゆらゆら揺れ動くあたしたちの精神は、いつだってすっごく不安定――。

 そんなことを考えながら、校門に吸い込まれてゆく生徒たちの姿をぼんやり眺めていると、一人の女の子の顔があたしの目に飛び込んできた。

「えっ」

 ――あれって、もしかしてヨウスケ。

 うっそーっ!

 一瞬、自分の目を疑った。

 でも間違いない、あのオリエンタルで、コケティッシュで、ミステリアスで、存在感抜群の美少女って、ヨウスケの他にはいない。

 校門の内へと流れ込んでゆく生徒たちの一団に見え隠れしながら、彼女はゆっくりと歩いていた。周りの友人たちと楽しそうにお喋りしている。ときおり真っ白い八重歯を覗かせて、ころころと気持ち良さそうに笑っている。お洒落にカットされたショートヘアが、校舎の屋根をかすめる朝日にぼんやり透けて輝いている。制服のワンピースなんか着ているせいで昨日とは少し雰囲気違って見えるけど、掃きだめに鶴ってゆーか、イモくさい高校生の中にあって、一人だけアイドル歌手のように眩いオーラを放っている。あんな目立つやつって他にいない。ぜったいに見間違えるわけがない。

 驚いた――彼女が、同じがっこの生徒だったなんて。しかも赤いラインの入った制服着てるってことは、あたしの先輩? まじっすか? 信じらんないよ、あのやんちゃで子どもっぽい言動から察するに、てっきり年下だと思ってたのにーっ。

「……ちょっと、ゆみ子? どうしたの?」

 急に立ち止まったあたしに驚いて、沙織が横から顔をのぞき込んだ。

「なんか忘れ物でもした?」

 はっと我に返り、ゆっくりと首を振る。

「え、いや……、違うよ」

「じゃあなによ。――あっ、分かった、新しい恋愛を始める前に、もう一度自分という人間を根本から見つめなおしてみる気になったのね」

「んなわけないでしょ」

 言いながら、あたしは走り出していた。

「ごめん、あたしちょっと先行くね」

「あれれ、なによ、トイレなら付き合うしい」

「違うってば」

「ちょっと待ってよー、親友を置き去りにする気ー? かむばーっく、まいふれーんど」

 追いすがろうとする沙織に、

「まじ、ごめん」

 と謝っておいて、あたしはヨウスケがいたあたりへダッシュした。

 なによあの子ってば、妙に意味深な態度とってたくせに、女子校通ってるってことは思いっきり女の子じゃん! もうこうなったら、ぜったい本名聞き出しちゃる。

 ――そのとき不意に、背後からぐっと腕をつかまれた。

「ちょっと沙織やめてよ、今だいじな用があるんだからあ」

 少し怒った顔で振り返ると、沙織のかわりに、グレーのスーツを着たひょろりと背の高い中年女性が立っていた。白髪染めの行き届いた黒髪をアップにして、細い縁なし眼鏡をかけている。あごの尖った逆三角形の顔が、昆虫界の残忍なハンター、カマキリを連想させる。彼女こそは現代国語の教諭にして我が校の生活指導担当、オールドヒステリーの大山教諭であらせられる。うちのがっこで教鞭を振るう先生たちの中で、あたしがもっとも苦手とするおばさんなのだ。

「お、大山せんせ、おはようございますう。あたしに何か用ですかあ? 今ちょっと急いでるんですけど、一時限目の予習とかしなくちゃいけないしい」

「ウソおっしゃい!」

「ほんとですう、まじ急いでるんですう、お願い、行かせて」

 なんとか彼女の手をすり抜けて再び走りだそうとすると、今度はぎゅっと耳を掴まれた。

「痛でででででででで、痛ででで――」

「待ちなさいって言ってるでしょ」

「せんせ、ひどいですう、年頃の娘の顔になんてことするんですかあ、耳が広がってダンボみたいな面相になったら、もうお嫁に行けなくなるじゃないですかあ」

 あたしが涙目になって抗議すると、大山教諭は、きっつーいバニラ系の香水の匂いをぷんぷんさせながら、ふんと息巻いた。

「あなたは普段から授業もちゃんと聞いていないのだから、少しくらい耳が広がっていたほうが具合が良いのよ」

「せんせ、そんな言い方ってあんまりですう」

「そんなことより……」

 こちらの抗議には耳を貸さず、彼女は陰険なカマキリ顔をぐぐっと近づけてきた。あたしは、思わずびくっと肩をすくめる。

「あなた、昨日のお昼ごろ、駅前の通りでオートバイを走らせていたわね?」

「き、き、昨日ですかあ? 昨日はたしか朝から両親と祖父のお墓参りに行ってたような……」

「何言ってるの、あなたのお爺ちゃん、まだお元気でしょ!」

 しまった、祖母と言えばよかった……。

「あなたの後ろに乗ってた子、ヘルメットかぶってなかったわよね?」

 うわあ……、最悪だあ。返答に窮してあたしが目を泳がせていると、背後から沙織が追い抜いていった。

「あたし先行くねー」

「ちょっと待ってよー、親友を置き去りにする気ー? かむばーっく、まいふれーんど」

 どさくさにまぎれて沙織のあとを追おうとしたけど無駄だった。獲物を捕らえたカマキリのごとく、大山教諭の骨張った指はあたしの腕にしっかり食い込んでいる。

「いいですか、そもそも我が校は生徒たちの自由な気風を尊重するがために運転免許の取得にも寛容なのです。けれどもそれは、交通法規を遵守するという大前提のもとに我が校の生徒として恥ずかしくない社会秩序を……」

 哀れ――、朝から、なーんか良いことあるんじゃないかなーなんて気がしてたけど実はそうでもなかった不運な少女は、それから一時限目の予鈴が鳴るまで延々と生活指導先生のねちっこい説教を聞かされるのであった。

 もちろん、ヨウスケの姿はとっくに校舎のなかへと消えている。



 つづく……。


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