浴衣姿の美少女
高山神社の例大祭があるという日曜日は、朝から良いお天気だった。体調は万全、パパからお小遣いもゲットできたし、浴衣の着付けもばっちりママに教わったし……あとはこのネイルカラーを、むむむむむっ。あたしってば小さいころから手先がちょー不器用で、マニキュアを塗るのがとっても下手クソ。すぐにはみ出しちゃう。とくに右手の爪を塗るときには、それはそれは全神経を指先に集中させていないと、まるで幼稚園児の塗り絵みたいになっちゃう。こめかみをプルプルと震わせ、他人には絶対見せられないような究極の寄り目で自分の指先を凝視する。生成り地の浴衣に映えるようにネイルカラーはちょっと派手めに、ピンク、グリーン、オレンジの三色を使ってアレンジするつもり。なんだけど、ああ、また失敗――。除光液を使ってはみ出した部分をきれいに拭き取る。ヨウスケを迎えに行く時間までにはまだ少し余裕があるけれど、髪もアップにしなくちゃならないしあまりグズグズもしていられない。さあ今度こそ、と指先に気合いを込めた瞬間、机のうえに放り出してある携帯電話が鳴りだした。
「ああん、もう」
マニキュアが半乾きの手でそっと電話機をつかみ取る。ディスプレイに表示されている名前は「チャコ」だった。およ、めずらしいな、休みの日にあの子のほうから電話をかけてくるなんて。いったいなんの用だろう?
「ちぃーす」
まずは元気にごあいさつ。でもチャコはなんだか浮かないようすで、とても沈んだ声で応じてきた。
「……あ、ユコちゃん、ごめんね。お休みのところ急に電話したりして」
「ううん、あたしはべつに構わないよ」
「あのさ、じつはユコちゃんに、ちょっと話しておきたいことがあるんだけど……」
消え入りそうな声でそこまで言って、急に彼女は押し黙った。なんだろう、すごく不安な気持ちになる。チャコは、沙織たちとは違って冗談など言うキャラじゃないし、繊細でしかもわりと思い詰めるタイプだから、もし真面目な相談ならこっちもヘタな受け答えはできない。あたしは彼女が話しやすいようリラックスした雰囲気を作りつつ、できるだけ優しい声音で訊ねてみた。
「え、なになに、話しておきたいことって?」
「あのね……」
「うん」
こくり、と彼女が固唾を飲み込むのが分かった。なにをそんなに緊張しているんだろう。とても言いにくそうにしているのが電話越しにも手に取るように伝わってくる。じつは数学の宿題で分からないところがあるんだけど。なんて相談じゃないことだけは確か。てか、あたしよりチャコのほうがずっと成績良いし。取りあえず黙って話のつづきを待っていると、わずかな沈黙のあとで彼女がこう切り出した。
「ねえ、ユコちゃん。これからちょっと会えないかな」
「ごっめーん、今日はデートの約束があるの」
「……もしかして、ヨウスケくんと?」
「うん、まあね。てへへ……」
一応、照れておく場面だと思ったので可愛く笑ってみたけど、またしても沈黙がおとずれてしまった。困ったな、こういう雰囲気ってちょー苦手。
「ねえ、チャコちゃん、それってなにかすごく緊急性のある話なの?」
そう訊ねると、ちょっと考えてからチャコが言った。
「緊急……ってわけでもないんだけど」
「じゃあさ、明日じっくりお話しない? もし学校で話しづらいことなら放課後どっかでお茶しながらでもいいし。あっ、そうだ、あたしミスドの割引券持ってるんだ。今ちょっとリッチだし、明日はチャコちゃんにドーナツおごってあげるよ。ねっ、ねっ、そうしよう。うん、それがいい」
たたみかけるようにそう言うと、チャコは仕方ないといったふうにため息をついた。
「そうだね、よく考えてみたら、べつに急いで聞いてもらうことでもないし……」
「なんかゴメンねー。今日はちょっとバタバタしててさ」
「いいの。もしかしたら要らぬおせっかいかもしれないんだし……。それよりユコちゃん、もしかして今日は卯月先輩とも会う?」
「ヨウスケをアパートまで迎えに行くから顔くらいは合わせるかもしれないけど。でも、どうして?」
またしばらくの沈黙があって、チャコが言った。
「ううん、いい。やっぱり明日話す」
そう言われるとむしょうに聞きたくなるけれど、そんなことをしている余裕はない。「おっけー、それじゃ明日ね、バイバイ」と言って電話を切り、マニキュアはもう適当に仕上げて、手早く髪のほうに取りかかった。あたしは短めのセミロングだからアップスタイルにするのってけっこう難しいんだけど、ムースを塗りたくってドライヤー片手に悪戦苦闘、終いには無造作にたばねた髪を力技でウリャっと捻ってピンで留めなんとか完成。ちょっとザツな仕上がりだけど、まあ良っかって感じ。アップの髪はきっちり作ってしまうとオバサンくさくなる。適度にラフでゆるふわな感じが返って可愛く見えるのだ。とムリヤリ自分を納得させておいて、キッチンにいるママに声をかけた。
「じゃあ、行ってくるね」
ママは濡れた手をエプロンで拭きながら、わざわざ玄関まで見送りに来た。
「気をつけてね。あまり遅くなっちゃダメよ」
「はあい」
「あと、ハメをはずし過ぎておバカなことしないでね」
なにを言うか。
「それにしても……」
と、ママはあらためて浴衣姿のあたしを頭のてっぺんから足のつま先まで眺め、ちょっと眩しそうに目を細めた。
「ゆみ子、綺麗になったわねえ」
真顔で急にそんなことを言われると、こっちとしてもリアクションに困る。あたしは照れ隠しのため、袖を振って七五三の記念撮影みたいにおどけたポーズを作ってみせた。ママは微笑んで、少し遠くを見つめるような目でつぶやいた。
「ホント、私の娘時代にそっくり」
はいはい、ごちそうさま。
「おみやげなんて気にしなくてもいいからね」というママの声に押されて玄関を出た。ぜんぜん気にしてませんけど。てか、今の今まで思いつきもしませんでした。
バスで行くつもりだったけど、右手にヨウスケの浴衣を入れた大きな紙袋を提げているので、偶然通りかかった空車のタクシーを拾った。ごま塩頭を短く刈り上げた運転手さんは、バックミラー越しにあたしのことをチラチラと盗み見てから口を開いた。
「どっかで祭りの縁日でもあるのかい?」
「高山神社の例大祭なんです」
「ああ、なるほど」
右折のウィンカーを出しながら運転手さんはゆっくりとうなずいた。
「どうりで市役所前から天神山にかけてものすごく混雑しているわけだ。交通規制も掛かってたけど、あれはたぶん神輿でも通るんだろうな」
「お天気も良いし、きっと賑やかなんでしょうね」
「でも気をつけたほうがいいよ。人ごみに紛れてスリや痴漢も出没してるから。お姉ちゃん綺麗だし、きっとすぐに目をつけられちゃうよ」
そう言ってまた、あたしのほうへチラッと視線を投げた。その途端わき道からオートバイが飛び出してきて、運転手さんはあわてて急ブレーキを踏んだ。タイヤが悲鳴をあげ、あたしはつんのめって助手席のヘッドレストに勢い良くおでこをぶっつけた。
「きゃっ」
せっかくセットした髪がちょっとだけ乱れてしまった。運転席の窓を開け、遠ざかるバイクの後ろ姿に向かって運転手さんが怒鳴り声を張りあげた。
「バカ野郎っ!」
そして申しわけなさそうにこっちを振り向く。
「お客さん、大丈夫ですか?」
あまりだいじょうぶじゃないけど、しおらしく「はい」とうなずいておいた。バイクも悪いけど、脇見運転してるタクシーのほうも悪い。でも許しちゃう。ついあたしの浴衣姿に目を奪われてしまったんだもんね、しかたないよ。みんな、この美貌がいけないのだ。
ヨウスケのアパートの前でタクシーを停めると、運転手さんはちょっと拍子抜けしたような顔になった。
「あれ、お祭りの会場まで行くんじゃないの?」
「いえ、取りあえずアパートまで彼氏を迎えに来たんです」
彼氏ってより、じつは女の子なんだけどね。運転手さんは合点がいったというふうにうなずき、白い手袋をはめた親指をグイッと立ててみせた。
「そうか、じゃあ頑張ってね」
「はい、ありがとうございます」
走り去るタクシーを見送ってから、ヨウスケの暮らすアパートの入り口をくぐった。ちなみにオートロックじゃないから、だれでも自由に出入りできちゃう。おかげでエントランスホールの壁ぎわにならぶ郵便受けには、いつも投げ込みのチラシがこれでもかというほど突っ込まれていた。
おニューのぽっくりを、ポックリポックリ鳴らしながらエレベーターに乗り込み、四階のボタンを押す。ヨウスケの暮らす部屋は、四〇三号室。エレベーターを下りてから三つ目のドアの前に立つと、丸っこい字で「UDUKI」と書かれた表札を見上げた。さてと、行きますか。軽く深呼吸してからインターホンを鳴らす。ボタンの横にあるちっこいカメラに向かってそっと笑みを投げかける。すると、やや間があって「……ハイ」というヨウスケのふて腐れたような声が聞えてきた。
あれれ、なんだか知らないけど今日はずいぶんと機嫌が悪いみたいだぞ。少し躊躇したけど、スチール製のドアをそっと押して玄関へと足を踏み入れた。
「あの、迎えに来たよ……」
「わっ、バカっ、まだ入ってくるなってば」
リビングの奥でヨウスケが裏返ったような声を出した。その姿を見て、あたしは唖然としてしまった。なんで……? 力の抜けた指先をすり抜けて、浴衣の入った紙袋がどさりと落ちた。
「ヨウ……スケ? って、ええーっ!」
あたしのほうを振り返ったのは、可愛らしい浴衣で華やかに着飾った飛っきりの美少女だったのだ。
つづく……。