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夏風邪にご用心

 校舎の手洗い場に、消毒用のアルコールが置かれるようになって半年が過ぎた。冬場にインフルエンザが大流行したのだ。あのときは、ほんと大変だった。うちのクラスでも十人ほどが感染して、けっきょくバレンタインデーを目前に学級閉鎖という最低最悪の憂き目をみた。女子のほとんどが、期待に胸をふくらませて買ったチョコをしかたなく自分で食べた。仲間うちでは愛子がホンコンA型にやられて体重を五キロも減らした。ゆみ子はいいよねえ、風邪ひかなくて。はいはい、どうせバカですから。いちおう拗ねてはみたけど、たしかにその通り。後ろの席にすわる子がどこからか菌をもらってきてコンコンやりはじめても、あたしはへっちゃら平気。

 インフルエンザウィルス?

 はんっ、どっからでも掛かってきなさいってーの。

 君たちとは根性が違うのよ、根性が。

 でも今朝ベッドから這い出したとき、あれっと思った。筋肉痛でもないのに、体の節々がやけに痛むのだ。洗面台で顔を洗っているとき、ぞくりと寒気が走った。朝ご飯もぜんぜん喉を通らなかった。いよいよおかしいなと思い熱を計ってみたら、なんと三十八度二分もあった。えっ、まじ? 体温計の目盛りを二度確認してから深いため息をつき、そしてあたしはふらふらとゾンビのような足取りでベッドへ逆戻りしたのだった。ばたんきゅー。

「今ごろインフルエンザに罹るなんて、ちょーウケるんですけど。てか、あんたってほんと流行に疎いよねえ。あたしらが去年のうちに卒業したバルーンスカートにスパッツなんて格好いまだにしてるし、つい最近まで高性能マスカラの存在知らなくて、これってちょー便利だよねーとか感激してるし、クロックスのビーチサンダルとか突っかけて平気でコンビニまで出かけちゃうし、エビ売れとか大昔に死滅したワード恥ずかしげもなく使うし……」

 携帯電話から沙織のはずんだ声が、機関銃のようにぽんぽん飛び出してくる。さてはこいつ、あたしが風邪ひいたのを面白がっているな。バルーンスカートはいてなにが悪いのよ。可愛いじゃん。あたしにちょー似合うじゃん。だいいちファッションの流行と、このくそ暑いのに風邪ひいて寝込んでいるというきわめて同情すべき事実とに、なんの因果関係があるってゆーのよ。ああ、いかん、憤ったらまた少し熱上がってきたかも……。

 適当に相づちを打って電話を切ったら、きーんと耳鳴りがした。やばいやばい、こんな風邪早く治してしまわないと週末にはデートの約束があるのだ。もっちヨウスケと。土曜日の夜、一緒にお祭りを見に行く約束をした。高山神社の例大祭。ふっふっふ、っとなぜかここで不敵な笑み。なにを隠そう、そのときに着ていくための浴衣を、もうインターネットで注文してあるのだ。生成り地のかすりに、紅い菊の花弁とピンクの桜吹雪を散らした素敵なデザイン。帯は薄紫で、ところどころに金糸の胡蝶が縫いつけてある。三点セットで付いてくる下駄は、黒い漆塗りのぽっくり。赤い鼻緒に水玉模様を散りばめたキュートな逸品。それだけじゃないんだぜ。なんと今回は奮発してヨウスケのぶんまで注文してあったりする。こっちはイナセな男もので、白地に不規則な格子模様を描いたシックなデザイン。うん、あれを着たヨウスケはまた一段と男前になるに違いない。浴衣姿の美少年と美少女が手をつないで神社の境内を練り歩く……そんな二人を道行くひとびとが眩しそうに振り返る。

 ねえねえヨウスケ、あたし金魚すくいがやりたい。

「おう、まかせとけ、俺様の言う通りにやればバケツいっぱいすくえるぜ」

 ねえヨウスケ、あの射的のクマさんとって。

「がってんでい、クマでもダイヤの指輪でもお前ぇーのお望みのものをゲットしてやるよ」

 えーん、ヨウスケ、あん蜜が食べたいよう。

「お安いご用だ、ようし、このまま甘味処へ突撃するぞ。どけどけ、じゃまな中ぼうども」

 ねえヨウスケ、あそこのかき氷美味しそうでマジヤバいんすけど。

「いいねえ、夏はやっぱかき氷だねえ、冷たくて頭がキーンとするところなんか、ほんとクセになるぜ」

 あっ、ヨウスケ見て見て、あそこにタコ焼きの屋台があるよ。

「てめーふざけんなよっ、さっきから食べてばっかじゃねえか!」

 あ痛たたたっ、嬉しさがこみ上げてきてあれやこれやと妄想してたら偏頭痛がしてきた。やばいやばい、安静にしてないとこりゃお祭りどころか命があぶないかも……。

 目を閉じて氷枕に頭を沈めると、なんだか深海の底に横たわっているような不思議な気分になった。やがて意識がすうっと遠のき、そのまま夢の世界へと落ちてゆく。こんな状況でもすぐ眠りにつけるのが、あたしの取りえだったり。

 ……どれくらい眠っていたのだろう、不意にママの呼ぶ声がして目が覚めた。巨大なカエルの背にまたがって見渡すかぎりの大海原を気持ちよく滑走しているところへ、とつぜん腕に巻いた通信機から「ゆみ子、ゆみ子」とあたしを呼ぶママの声が聞えてきたのだ。我ながら、なんちゅうアホらしい夢。でも熱はだいぶ下がったみたいで、体はすごく楽になっていた。ベッドのうえでもそもそと寝返りをうち、そっと目を開けてみる。カーテンのすき間から差し込む陽射しはもうだいぶ優しくなって、フローリングの床にペン立ての小さな影絵をつくっている。もう夕方近くになるのかな。

 羽ぶとんにくるまってぐずぐずしていると、部屋のドアが遠慮がちに開いた。

「もう、ゆみ子ったら、さっきからお母さん呼んでるじゃない」

 夕飯の支度をしていたらしいママが、エプロン姿で現れた。

「ごめん、あたし熟睡してたかも」

「お友だちが見えてるわよ」

「え、だれだろう?」

「さあ、お母さんの知らない子」

 ちょっと首をひねってからママは、声をひそめてニヤけた顔をした。

「でも、なんかすっごく綺麗なのよ。まるでファッションモデルみたい。ゆみ子のお友だちに、あんな素敵な子がいたのねえ」

 すっごく綺麗? クラスの仲の良い友だちを順番に思い浮かべてみた。ううむ、わりとイケてる子がいないわけじゃないけど、どれも帯にみじかしタスキに長し。さすがにファッションモデルとまでは……。

「とにかく部屋へ上がってもらうわね」

 そう言ってママの姿がドアの向こうへ消えたとき、あたしの頭のなかで稲妻のように閃くものがあった。

 ヨウスケだ!

「あっ、ママちょっと待って」

 必死に呼び止めたけど時すでに遅し、ママの履くスリッパの音がパタパタと階段を駆け下りてゆく。あたしは、あわてて鏡台の前へ駆け寄り、起き抜けの顔をおそるおそるチェックした。げっ、やばいです、ノーメイクでちょーぶさいくです。おまけに髪の毛は、どがーんって爆発しちゃって、まるで化学の実験に失敗した科学者みたい。ふえーん、こんな間抜けな姿ヨウスケには見せられないよ。あたふたとブラシを手に取り、ヘアミストしゅっしゅっ、とにかく必死で髪を梳く。顔はどうしよう、BBクリームでニキビ隠しておくだけでいいか。まつ毛は、もうあきらめよう。などとムダな抵抗をしていると、背後でがちゃりとドアの開く音がした。

「あわわ、ヨウスケ、まだ入っちゃダメだってば」

 あわてふためいて後ろを振り向くと、そこには白い制服姿をしたショートヘアの女の子が立っていた。まるでティーンズ誌の見開きページからそのまま抜け出てきたような、飛びっ切りの美少女。

 彼女は静かに微笑みながらドアを後ろ手に閉めると、いたずらをたくらむ子猫の瞳で部屋のなかをゆっくり見回した。あたしは間抜けな表情のまま、一時停止ボタンを押したビデオ画像みたいに固まってしまった。え、なんで?

 そう、お見舞いにやって来たのは、ヨウスケではなかったのだ。

「……卯月先輩」



 つづく……。


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