ヨウスケ危うし!
「ちょっとアンタ、そんな物騒なもんさっさと引っ込めなさいよ。もしそれであたしたちが怪我でもしたら、アンタ間違いなく家裁行きだよ。裁判で今までやらかしたカンキンやらゴーカンの事実が露見したらもう少年刑務所ちょっこーだかんね。そのへんのこと、ちゃんと分かっててやってんでしょうね?」
高木のクソッタレを勇ましく怒鳴りつける、あたし。ちょっとお姉さん口調になってるかも。あたしだって言うときゃびしっと言うのよ。もちろんヨウスケの背中に隠れながらだけど……。
しかし高木のクソッタレも負けてはいなかった。
「けっ、うるせえよ。いったんこいつを出しちまったら俺はもう止まらねえんだよ。てめえら二人ともその可愛い顔ずたずたに切り裂いて二目と見られねえ面相にしてやっから覚悟しとくんだな」
「そ、そんな脅しになんか乗らないんだからね!」
「脅しじゃねえよ。もしてめえらがこのナイフで死んだとしても俺はまだ十七歳だ、現行の少年法では極刑にはならねえ仕組みになってんだよ。それにうちの親はちょー金持ちだ。きっと俺のために大金積んで良い弁護士を雇ってくれるさ。なによりそこのバカ女が俺のダチを二人もノシちまったおかげで、こっちは大いばりで正当防衛を主張できるってわけ。身の危険を感じて相手を威嚇するつもりでナイフ振り回したら誤って刺さっちゃった、ってね」
「ぐう……」
ぐうの音も出ないんじゃ悔しいので「ぐう」と言ってやったが、こいつ本気か? 刃物で自分の肉体が傷つけられたときのことを想像して、鳥肌が立った。この調子だと、脅しなんかじゃなく本気で切りつけてくるかもしれない。あんな刃渡りの長いナイフでまともに刺されたら死んじゃうかも。てか絶対に死ぬ。急に膝がかくかくと笑いだし立ってるのがつらくなった。ついでに緊張のあまりおしっこへも行きたくなっちゃった。まじ怖くて泣きそう……思わずヨウスケのジャケットの背中へしがみつく。
「お前ェよう、そいつを使うってことは、たとえこの俺にもう片ほうの指へし折られても文句を言えねえってことになるが、そこらへん腹くくってやってんだろうな? 両手が使えなきゃそりゃあ不便だぜ、飯も食えねえ、便所へも行けねえ、マスもかけねえ。お前ェ、ママにたのんでしごいてもらうつもりか、あ?」
ヨウスケのハスキーボイスが一段と低くなる。それにしてもなんて下品なセリフ。高木のクソッタレの歪んだ口もとが、ひくひくと震えた。
「へへ、大口たたけるのも今のうちだぜ。まず手前ェを半殺しにして動けなくしてから、目の前でその女を犯してやる。今日ここで俺と会ったことを死ぬほど後悔させてやっからよ」
ヨウスケがあたしを横目で睨みながら囁いた。
「いいかゆみ子、俺があいつを上手く引きつけておくから、その隙にお前ェは逃げろ。あのドアから出たら脇目も振らずにただひたすら走れ。廊下に出ても立ち止まるんじゃねえぞ。無事に建物の外へ出られるまで全力で走り通すんだ」
「いやよ、ヨウスケをここに置いてあたしだけ逃げらんない」
「ばかやろう、あのゲス野郎は本気なんだ。ここにいたら怪我するだけじゃ済まないかもしれねえんだぞ。お前ェ死にてえのか?」
「いいよ、ヨウスケと一緒なら死んだって怖くないもん」
ヨウスケの背中にぎゅっと頬を押しつける。汗とコロンと、甘やかな体臭があたしの鼻孔をくすぐる。
「バカなこと言うな。俺様はそう簡単に死んだりはしねえよ。だけど、お前がいたんじゃ足手まといなの。はっきり言って邪魔くせーんだよ」
「なによ、それっ」
「いいから、ちょっと下がってろって」
そう言うとヨウスケはしがみつくあたしの体を自分から引きはがし、むりやり後方へと押しやった。ひどい。たとえ嘘でもいいから、俺もお前ェと一緒に死ねるなら本望だぜ、くらいのセリフ吐きなさいよね。まあ、あたしを危険から遠ざけようとしてわざとキツイこと言ってるんだろうけど……。渋々ながらも言われたとおり後じさる。それを確認して、ヨウスケは着ていたジャケットを左腕にぐるぐると巻きつけはじめた。ナイフによる攻撃から身を守る盾にするつもりらしい。でも、あんなんで刃物の攻撃を防げるのか、ちょっと不安。
高木のクソッタレは左手が不自由なので構えがちょっとぎこちないけど、それでもスポーツマンらしく隙のない動きでじりっじりっと距離を詰めてくる。それを受けてヨウスケはぐっと腰を落とし、ジャケットを巻いた左腕を前方へ突き出し相手を牽制しながら間合いをはかっていた。隙を見て逃げろと言われたけど、もちろんあたしにその気はない。ヨウスケがピンチになったら加勢するつもり。なにか武器になる物はないかと暗がりのなかを目を凝らして見渡してみると、近くの壁に折り畳まれたパイプ椅子が立て掛けてあるのを見つけた。おーけー。ここはひとつ、アジャ・コング気取ってやろうじゃないの。そっと手をのばし、ひんやりと冷たいパイプ椅子のフレームをつかんだ。
「うらあっ!」
突然、高木のクソッタレが叫んだ。おそらくヨウスケとの睨み合いに堪えられなくなり、こっちを威嚇するつもりで叫んだのだろう。あたしは、びっくりして「ひっ」とか声をもらしてしまったけど、ヨウスケに動ずる気配はなかった。それどころか、嘲るようにふっと鼻で笑うのが見てとれた。高木のクソッタレの顔つきが変わった。満面に朱をそそいでるって感じ。食いしばった歯の間からしゅーって息が漏れ出してるのが分かる。まずいぞ、今度こそ完全に怒らせたかもしんない……。
蛇が獲物に襲いかかるときみたいに、高木のクソッタレは全身のバネを利かせて低い姿勢で身構えた。いよいよ飛びかかってくるつもりらしい。それを察知してヨウスケのほうも右手の拳をぎゅっと固める。こちらも本格的にバトルモードへと切り替わったもよう。華奢な後ろ姿から、闘気とでも言うべきすさまじいオーラが発散しているのが分かる。一触即発の危険な予感、とてもじゃないけどアジャ・コングの乱入する余地なんてなさそうだった。神様どうかヨウスケをお助けください。ナイフで怪我なんかしませんように、二人そろって無事にここから出られますように……。
べつにクリスチャンでもないあたしが心のなかでアーメンと十字を切ったそのとき、半開きになったドアの向こうの暗がりで、光の輪がゆらゆらと揺れ動くのが見えた。だれかが懐中電灯の明かりをこちらへ向けているみたい。だれだ? まさか高木のクソッタレの仲間が? それとも警察へ通報したひとがいてお巡りさんが助けに来てくれたのだろうか……。一応「たすけてェ」とか叫んでみようかどうしようか迷っていると、聞き慣れた女子の声があたしの耳に飛び込んできた。
「ゆみ子ォ、いるの? いたら返事してよォー」
沙織の声だった。どうしてあの子がここに? その声はしだいにこちらへ近づいてくるようだった。どうやらケンジも一緒らしく、まるで叱られた子どもみたいにぼそぼそと喋る情けない声も聞えてくる。
「なあ、こんな真っ暗な廃墟にはだれもいねえって。心霊スポットみてぇで薄っ気味悪いし、さっさと引き返そうぜ」
「ばかねえ、もしゆみ子がここへ連れ込まれてたらどうすんのよ? あの子の身にもしものことがあったらあんたの責任だかんね」
「そんなこと言うなよ。なんで全部俺のせいにするんだよ」
「あんたが、あの高木とかいうやつをゆみ子と引き合わせたんでしょうが」
「だからそれは……」
「沙織っ!」
思わず叫んでしまった。
「あっ、いたいた。ゆみ子、やっぱここにいたんだ。だいじょうぶ? 今助けに行くからね」
「あの突き当たりの部屋みてぇだぜ」
光の輪を揺らしながら二人の靴音が駆け足で近づいてくる。まずいっ、ドアのところにはナイフを手にした高木のクソッタレがいるのだ。
「沙織っ、来ちゃダメ!」
必死に叫んだけど時すでに遅し、勢い良く開かれたアルミ製ドアの向こうに仲良くならんだ二人のシルエットが浮かび上がった。ナイフをにぎった高木のクソッタレが背後へ凶暴な視線を送る。それを見て沙織とケンジが、びくっと身をこわばらせるのが分かった。でもヨウスケはその一瞬のチャンスを逃さなかった。ナイキのスニーカーがたたんと地を蹴る音がしたかと思うとヨウスケの小さな体がふわりと舞い上がり、沙織たちの出現に気をとられている高木のクソッタレへ猛然と飛びかかった。
「あっ、手前ェ!」
「ヨウスケっ!」
あたしと高木のクソッタレの叫び声が重なった。すぐに二人もつれ合いながら床のうえに倒れ込み、そのまま右に左にごろごろと転げまわる。高木のクソッタレは怪我で左手が使えないけど、いっぽうのヨウスケも同じく左手に刃物避けのジャケットを巻きつけているので片腕しか自由が利かない。かろうじて相手のナイフを封じてはいるがしょせんは女の子の腕力、スポーツをやってる男子にはかないっこない。もし腕を振り払われたら最期、逆にナイフで刺されてしまうに違いない。あたしはへっぴり腰でパイプ椅子を振り上げてはみたけれど、その後いったいどうしていいのか分からずおろおろしていた。
「ちょっとゆみ子、これどうなってんの?」
沙織が、床のうえで取っ組み合う二人を懐中電灯で照らしながら叫んだ。
「ヨウスケがあたしを助けに来てくれたの。お願いなんとかしてっ、このままじゃヨウスケがやられちゃう!」
それを聞いて素早く状況を把握したこの秀才少女は、迷うことなく隣でアホ面さらしてる恋人の背中をぽんと叩いた。
「行け」
「えっ、俺?」
「他にだれがいるっつーのよ。たまには私に格好いいとこ見せてみ」
そのふだんとは違うオクターブ低い声には、有無を言わせぬ迫力があった。「えー、マジかよう」と泣きそうな顔をしながらも、ケンジは覚悟を決めたらしくごくりと生唾を飲み込んだ。彼はまず武器になるものがないか周囲を見回し、なにもないと悟るとやおら自分の履いていたエナメル靴を片ほう脱いだ。そしてその尖ったつま先部分を右手にしっかりつかむと、高木のクソッタレに狙いを定めて言った。
「お、おい、こら、高木、往生しろよっ、俺を恨むんじゃねえぞ、お前が悪いんだからなっ」
いいから早くなんとかして、とあたしが心のなかで叫んだとき、ケンジは「ひいっ」とか情けない声を出しながらターゲット目がけて勢いよく靴を振り下ろした。頭蓋骨とエナメル靴のかかとが衝突する、ぱっこーんと素晴らしくよく響く音がした。なんだか、すうっと胸のすくような心地よい響き。中身のあまり詰まってないスイカを棒で叩いたときのような景気の良い音。いかにもスッカラカンの空っぽでござーい、みたいな……。大高ってめちゃめちゃ偏差値の高い進学校だって聞いてたけど、あんがい高木のクソッタレの頭のなかは脳みそが充実していないらしい。もしかして裏口入学とかだったりして……。
なんてバカなこと考えていると、その高木のクソッタレが半泣きのような声で悲鳴をあげた。
「痛ってーな、ちくしょう……なにしやがんだよう!」
……ヨウスケの声だった。
つづく……。