べいびー逃げるんだ
ゴーグルをずり上げて、その美少女の顔をまじまじと見つめた。
きゅっとつり上がった目もとが勝ち気そうだけど、なんていうかオリエンタルな感じの美人で、髪をアップにして浴衣なんか着せたらすごく似合うと思う。たぶん、ほとんどノーメイクのような気がするけど、でもファッション誌の『街角で偶然みつけた美少女』みたいなコーナーにふつうに写真が載っていそうな、あでやかで華のある顔立ち。
ただ、外見の美しさもさることながら、彼女からは何だか不思議なオーラが感じられた。どこか普通じゃない。奇妙にエキセントリックで、それでいてチープというわけでもない。たぶん神秘的と言ったほうが正しいのかもしれない。
とにかく、その風変わりな美少女が、今あたしの背中にべったりとはりついている。予想もしていなかった突飛な出来事に、ついあたしの声もうわずってしまう。
「追われてるって……、誰によ?」
そう訊ねると、彼女は振り返りもせず、右手の親指だけで背後を指し示した。
「あいつら」
「げっ」
見ると、若い男が三人、もの凄い形相でこちらに向かって駆けてくる。一見して、道徳や社会秩序なんか屁とも思っていませーん、みたいな人相の悪いお兄さんたち。あたしのデリケートな心臓が、エイトビートを刻みはじめた。
「なっ、なっ、なんなのよ、あいつらは?」
「――強姦魔」
「ご……」
「ほら、早く出せよ。捕まったら、あんたも一緒にヤラれちゃうよ」
や・ら・れ……ちゃうーっ?
背中から嫌な汗がぶわーっとふき出し、あたしは無意識のうちに愛車ヤマハ・ビラーゴを急発進させていた。後輪が乾いた路面をじゃりっと噛むと、慣性の法則で上体がぐんと反り返る。あたしの腰にしがみつく彼女の腕にも、ぎゅっと力が入った。
と、とにかく逃げなきゃ。
っていうか、なんでこんなことになっちゃうのよーっ!
バックミラーを覗き込む余裕さえなく、あたしは無我夢中でバイクを走らせた。駅前の広い通りへ出ると、前方で右翼の街宣車が軍歌を垂れ流しながら進路をふさいでいた。ええい、邪魔くさい。強引にわきをすり抜ける。追い抜きざま、ハンドスピーカーからもの凄い勢いで罵声が飛んできた。
「こらあ! なんだお前らーっ、めりけんのバイクになんか乗りやがってーっ」
うるさい、ばかっ。
そこで一気にバイクを加速させた。
朝、家を出たときにはまだそこらじゅうに水たまりがあって、それが朝日を受けてまるでスパンコールのドレスみたいにきらきら輝いていたけど、今は乾ききった車道にゆらゆら陽炎が立ちのぼっている。空から照りつける眩い陽射しと、四サイクルV型二気筒エンジンが放つ熱気であたしの体は火照り、急激にのどの渇きをおぼえた。
信号を五つほど越えたところで、後ろに乗せた美少女がノーヘルだということに気づく。
やばい、警察につかまる。
あわてて次の交差点を左折した。空室だらけのテナントビルが建ちならぶ、寂しい裏通りへと出る。車は一台も走っていなかった。そこで、あたしはゆっくりとバイクを路肩へよせ、恐る恐るバックミラーを確認した。
よし、誰も追ってこない。
あたりまえだ。徒歩でバイクに追いつけるはずもない。ようやく人心地がついてバイクを停止させ、大きく息をはき出した。
「ふうー、どうやら無事逃げられたようね」
どれだけ走っていたのだろう。たぶん、ものの十分とは経っていないはずだ。でも、この一瞬の逃走劇が、あたしにはもの凄く長い時間に感じられた。
ゴーグルを持ち上げ、後ろに向かって声をかける。
「もう大丈夫よ。さあ、早く降りてちょうだい」
返事がない。
「ねえ、降りてってばあ」
答えるかわりに、腰に回した腕にぎゅっと力を込めてきた。どうやらあたしのバイクから降りる気はなさそうである。
「もう! じゃあ、あんたの好きなところまで送ってあげるから。でもその前に、ちゃんとヘルメットかぶってよね」
とたんに、はずんだハスキーボイスが返ってきた。
「お、さんきゅー。おめー、あんがい良いやつなんだな」
お人好しとも言う。
「んで、どこにあんのメット?」
「そこのサイドバッグの中よ」
タンデムシートの左右にぶら下げてある大振りのバッグからごそごそ予備のヘルメットを取り出して、彼女はちっと舌打ちした。
「なんだよー、この格好悪いデザインのメットはよ……」
「文句ゆーなら、もう乗せてあげない」
「わーった、わかりました」
ぶつぶつ文句を言いながら、そのジェットヘルメットを頭からすっぽりとかぶる。セール品だったので衝動買いしたけど、デザインが気に食わなくて予備にしていたそのヘルメットは、なぜだか彼女によく似合っていた。
「あら、けっこうさまになってるじゃん」
「ほんとかあ?」
「ええ、本当よ。まるで三流のSF映画に出てくる宇宙船のパイロットみたい」
「なんだそりゃ?」
彼女と視線を合わせ、ふふっと笑った瞬間、お腹がぐうと鳴った。腕時計をのぞいてみると、あと二十分足らずでお昼だ。
「ねえ、どっかでランチしない? もちろん、あんたのおごりでよ」
返事をするかわりに、彼女は鼻をぐがっと鳴らした。それを了解の合図と受け取って、あたしは再びバイクを走らせる。急発進にあわてた彼女が、あたしの背中にぎゅっとしがみついてきた。さっきよりも、ずっと強く……。押し付けられた乳房の感触がやけに肉感的で、あたしはついどぎまぎしてしまった。
え、女の子同士なのに……なんか変な感じ。
ドーナツかクレープが食べたいと主張するあたしと、ラーメンが食いたいなどとわがままをぬかしおる彼女の、両方の意見を取り入れて、外資系スーパーマーケットに隣接するバイキング形式のレストランに入った。ここは和洋中華なんでもありありの、およそあたしたちが考えつくレベルのメニューなら、すべてそろっているという便利なお店だ。
九十分食べ放題、消費税込みで千五百円。
女子高生のランチタイムにしてはちょっと高い気もするけれど、でもどうせ支払うのはこの見知らぬ美少女だし。
席へ着くなり、彼女は取り皿を手に、大はしゃぎで料理を略奪して回った。こういうお店では、人間の本性というものが如実に現れるから気をつけなくてはいけない。間違っても、付き合いはじめたばかりの恋人なんかと一緒に来てはだめだ。
「ちょっとお、ラーメンが食べたいだなんて言っておいて、さっきからぜんぜん違うものばっか口にしてるじゃん」
「うっせーな、何を食おうが俺の勝手だろー。だいいち、こういうところのラーメンってのは不味いんだよ」
あたしは、これも専門店などに比べると格段に味の落ちるチョコレートケーキをつつきながら、外見からは想像もつかない彼女の旺盛な食欲に呆れていた。
「あんた、そんなにバカ食いして、よくプロポーション維持できるわねえ」
「まあね……、おかげで姉貴はだいぶ苦労してるみたいだけど」
「え?」
「あ、いや、なんでもない。こっちの話……」
食事が一段落したところで、あたしはずっと喉元に引っかかっていた質問を彼女にぶつけてみた。
「ねー、どうして、あんなやつらに追われていたの?」
ダージリンティーをすすりながらそう訊ねると、なにか嫌なことでも思い出したのか、彼女の美しい顔が見る見る険しい表情へと変わっていった。
「……どうしても聞きたいか?」
「聞きたーい。てゆーか、聞かないとストレスで死ぬ」
すると彼女は、頬杖をつきながら目を伏せ、ちょっとふてくされた感じでしゃべりはじめた。
「今日は、なんだか知らねえけど、やけに電車が混んでたんだよな」
「うんうん、今月最後の日曜日だし、朝からピーカンのお天気だもんね」
「でもそのせいで俺は、次々と乗り込んでくる乗客に押されて、ドアんところでカエルの標本みたいにべしゃって潰れてたんだ」
「ほう」
「そしたらよ……」
「そしたら?」
彼女の美しい瞳にめらっと炎がともる。
「誰かが、カーゴパンツの上から俺のケツを執拗になで回すんだ」
「げっ痴漢? やだなあ」
「こっちはぜんぜん身動きとれねえしよー、後ろ振り向こうにも首が回んねえんで、俺もあったま来て、屁でもひっかけてやろうかと思ったんだけど」
思わずダージリンティーを吹き出した。
「なんだよ、きったねーな」
「……ごめん」
ってゆーか、もうちょっと女の子らしく喋りなさいよね。なによ、そのがさつな言葉づかい。
「でも、満員電車で屁なんかこいたらパニックがおきるだろ?」
「……そりゃまあ、おきるでしょうね」
「で、目の前のドアが開くまでじっとしてて、開いた瞬間、自由に動くようになった手で、そいつの指ひっ掴んだんだ」
「お、やるじゃん! で、叫んだのね? この人痴漢でーす」
「いや」
にやりと笑った。
「その指へし折ってやった」
うわあ……。
「ず、ずいぶんと乱暴なことするのね」
「だってよー」
彼女の頬が、ぷうーっと膨らむ。
「そいつ、ただ触るだけじゃないんだぜー。ケツの割れ目にそって指を這わせてくるんだ」
こういう感じでな、と言いながら彼女は、自分の指をあたしの目の前までもってきて、くいっくいっと、やらしい動きをして見せた。今度はダージリンティーが気管に入った。
「けほっ、けほっ」
「おいおい、だいじょうぶか?」
そう言って身を乗り出してくるので、背中をさすってくれるのかなと思ってたら、あたしが涙目になって咳き込んでるすきに、食べかけのチョコレートケーキを自分の口の中へ放り込んだ。
ぽい。
「うん、美味い。けっこういけるねこれ」
「あー、それあたしのー」
「おめーってチョコ好きだな。キスとかしたら、きっとチョコの味がするんだろうな」
「ふん、さっきも友だちに言われたわよ」
ケーキを飲みくだし、自分の指をぺろぺろなめるその仕草がみょうに可愛らしくって、つい文句を言う気力が失せてしまった。
何だろう、この子……。
可愛い外見と、乱暴な言葉づかいのギャップが、みょうに心地よく思えて、あたしは戸惑いをおぼえた。この、奔放でいて爽やかな感じって、いったい何だろう?
何かに似てる。
……例えるなら。
そう、例えるなら、風――。
春の風。
暖かくて、生命力にあふれ、とってもたおやかで、それでいて時折びゅうーって強く吹く。やっと咲いたと思った桜の花びらを無惨にも散らしてしまって、でもぜんぜん悪気なんてなくて、さーっと吹き抜けてゆく。そして知らぬ間に、夏を運んでくる……。
たぶん、そんな感じ。
そう、この子からは春風のような、しなやかな美しさを感じる。そう思って、あらためて彼女の顔をまじまじと見つめると、あたしの視線から一瞬目を逸らして赤くなった。
「な、なんだよ……?」
かっわいー。
「じゃあ、さっき追って来たやつらは、その痴漢の仲間だったってわけね」
「ああ、集団で一人の女の子を取り囲んで、触りまくってたらしい」
「ひっどーい。でもあんた、あのときあたしと出会っていなかったら、今ごろ大変なことになってたかもね」
「まあね……」
「感謝してる?」
「してるけどさ」
ここで彼女は、ぐぐっと身を乗り出してきた。
「でも俺、バイクに初めて乗ったんだ。すげーなバイクって。スピード感が自動車とは違うっていうか、こう直に肌に伝わってくる感じがするしよ、排気音なんかもずんずん腰に響いて……。俺、けっこう感激したんだぜ。おめー、すげえやつだよな、女のくせにバイクとか乗り回してよ」
「へへへー」
バイクのこと褒められると、もうだらしないくらいに顔の筋肉が緩んでしまう。あたしってバイクばか。もっともっと褒めてくれたら、木にだって登っちゃうかも。
「なあ、あのバイク乗ってどっか行こうぜ。峠のほうとか、海沿いの道とかさ。天気だってこんなに良いことだし」
「うーん、でもあんまり燃料入ってないんだよね……あ、そうだ、あんた燃料タンク満タンにしてよ。そしたらどこへだって好きなとこ連れてってあげる」
あたしが指をぱちんと鳴らすと、彼女はがっくり肩を落とした。
「残念だなあ。今の俺、所持金がたったの千二百三十円しかねえんだ」
「なーんだ、そうかあ……」
ちょっとがっかりして、ダージリンティーの残りを一息に飲み干した。
全部、吹き出した。
「えーっ! じゃあ、ここの払いはー?」
答えるかわりに、彼女は鼻をぐがっと鳴らした。
つづく……。