プラネタリウム
「星が好きなんだ」
白い歯をのぞかせて、高木くんは笑った。それから、うーん、ん、んと伸びをして胸一杯、夏の空を吸い込んだ。白く反らせた喉がやけに尖って見える。あたしもそのまま、ゆっくりと視線を上げた。きれいに澄み渡った紺碧のグラデーションが、どこまでも果てしなくつづいている。飲み込まれそうなくらいの天空の高み、それはそっくりそのまま宇宙の色をしていた……。
「いつの日かスペースシャトルに乗って大気圏の外へ飛び出してみるのが俺の夢さ。上下左右、三百六十度ぐるっと星の海に囲まれながら、地球に残してきた恋人のことを想う。ああ、あの青い星のどこかに自分の愛するひとがいるんだなって、今ごろ空を見上げて俺のことを思い出してくれているのかなって……。子っぽいかな、こういうの?」
「ううん、子どもっぽくない……」
高木くんって、めっちゃロマンチスト。
高校二年ともなると、卒業後の進路が絶えず頭のなかをかすめる。なにげない雑談の合間にも、将来はなんの仕事がしたいだの、どこそこの企業に勤めたいだのという話題がひっきりなしに飛び出してくる。それまで漠然と思い描いてきた子どもっぽい夢とか、そんなものはかなぐり捨てて、真摯な気持ちで現実と向き合いはじめる。でも夢は夢として、ちゃんと心のどこかへ仕舞っておきたい。その夢が叶うとか叶わないなんてのは、ぜんぜん別の話。やがて高校を卒業して大人になっても、ずっと胸に秘めていたその思いは、きっと自分自身を支える強さとなるはず。
高木くんは、ちゃんと自分の夢を持ちつづけている。すごいなあと感心してしまう。自分はどうだろう、なにか夢と呼べるものがあるだろうか。いつの間にか目の前に敷かれているレールに沿って、なんの疑いもなく、ただなんとなく足を進めているだけではないだろうか……。
そんなことを考えながらソフトクリームのコーンを口のなかへ放り込むと、まさにそのタイミングで高木くんが言った。
「そうだ、これから星を見に行かないか」
思わずサザエさんのエンディングみたいに喉を詰まらせ、目を白黒させた。んが、ぐぐ……。
「あれ、大丈夫?」
「……だ、だいじょぶ、です、けほっ、けほっ」
あやうくアイスを喉に詰めて窒息死した日本初の女子高生になるところだった。世の中どこに生命をおびやかす危険が潜んでいるか分からない、くわばらくわばら……。
「えと、星……ですか、こんな昼間に?」
「もちろん本物の星じゃないさ。プラネタリウム、俺の手作りなんだ」
言うが早いか彼はベンチから立ち上がり、あたしの手を引っぱった。
「ねえ、行こうよ、とっても綺麗だよ。きっと君も気に入ると思うからさ」
「あの、でもどこにあるんです、そのプラネタリウムって……」
「ここからだと歩いても十分とかからないよ、とっておきの秘密の場所があるんだ」
どうしたものかと逡巡したけど、でも特に予定があるわけじゃないし、それにプラネタリウムってなんか涼しそうな言葉の響きがある。あたしは黙って彼について行くことにした。
猥雑な雑居ビルのすき間を縫って駅とは反対のほうへ歩いてゆくと、しばらくしてこの界隈でもひときわ寂れた場所に出る。まず目につくのが、潰れたボーリング場、それから同じく営業をやめて久しい廃墟のようなパチンコ店。ここは駅裏商店街を区画する地域のなかでもっとも辺境にあたり、県道を隔てた向こう側には、もう町工場や運送会社の倉庫が建ちならぶ工業地帯が迫っている。かつてはその工業地域を大々的に宅地化して売り出す計画があり、今あたしたちが立っているこの場所も一大ショッピングモールへと生まれ変わる予定だった。ところが政治家先生の気まぐれか、それとも不動産業者の思惑なのか、ある日とつぜん宅地開発は中止となりすべては砂上の楼閣と化した。そしてそのときから、ここいら一帯は急速に寂れはじめたのだ。
「……え、このビルなの?」
それは、路地からさらに奥まったせまい敷地にひょろりと建つ、七階建てのテナントビルだった。ただし無人の廃墟ビル。一階の窓ガラスはすべてメチャクチャに割られ、その上をベニヤ板でやみくもに塞いでいる。正面入り口にある回転式ドアには木材をばってんに打ち付けてあり、もちろん人が出入りできる様子はない。あたしは心配になって、高木くんを見上げた。
「ねえ……、ここ入れないよ」
「だいじょうぶ、建物の裏側へ回れば勝手口が開いているから。俺いつもそこから出入りしてるんだ」
「でも、無断で入ったりして怒られないかな?」
「心配ないよ、ここはずっと以前にオーナーが夜逃げしてしまって、そのまま競売にもかけられず長いあいだ放置されているんだ。まあバブルが生み出した負の遺産ってとこかな。建物のなかは、まったくの無人だよ。こんな汚いビルだれが好きこのんで入るもんか」
そう言うと高木くんは、せまい通用門をまたいでずんずん奥へと入ってしまった。一瞬、躊躇したけど、でもせっかくここまで来たんだし、それに内部はかなり涼しそうだったので、あたしもミニスカートのすそをひるがえして、ちゃちなアルミ製の門を乗り越えた。
ビルのなかは、まさに廃墟だった。廊下や階段にはゴミやガラスの破片が散乱して、一歩踏み出すごとにしゃりっと鋭利な音を立てる。予想どおり空気はひんやりしていた。でもなんだか埃っぽくて、おまけにカビ臭い。ちょっと心細くなって、あたしは高木くんとはぐれてしまわないよう必死になって後を追った。
やがて、四階の一番奥にある扉の前まで来ると、彼は立ち止まって振り向いた。
「ほら、ここだよ」
かたむいて外れかけた看板には、レンタルビデオ・スカイとあった。試写室完備、一時間六百円……。見たところ、ドアにも壁にもいっさい窓がない。代わりに色あせたポスターが何枚もべたべた貼られている。ぜーんぶアダルトビデオの宣伝。なんか、ものすごくいかがわしい感じのする場所で、思わずうえって声が出そうになった。
「ここは外から光が漏れない造りになっているから、プラネタリウムを見るにはうってつけの場所なんだ」
「……ふーん」
高木くんはドアノブに手をかけ、ゆっくりと引いた。カギはかかっていない。ぎぎぃぃっと錆ついた音を立てて重たいドアが開いてゆく。たしかに彼の言うとおり、なかは一切の光が遮断され真っ暗だった。廊下から刺し込む光の帯だけが、部屋のなかを漂う埃をきらきら光らせている。入ってすぐ正面がレジカウンター、そこから奥へむかって店舗と試写室がつづいているようだ。なんのためらいもなく、高木くんの姿はその暗がりのなかへすっと吸い込まれた。
「ああん、待ってよ」
あわてて、あたしも後を追った。背後でがちゃりとドアの閉まる音がした。と同時に、部屋のなかは濃密な闇の世界となった。窓はどうやらなにかを貼り付けて塞いでいるらしく、すき間からわずかな光が漏れさし込んでいた。その微細な明かりが、店舗内部の輪郭を薄ぼんやりと浮かび上がらせる。
「……ねえ高木くん、どこ?」
返事がない。目を凝らして、彼が消えた辺りを凝視してみる。きっと悪ふざけして、どこかへ隠れているんだろう。あたしのことを怖がらせようとしたってダメ、その手には乗るもんか。そんじょそこいらのキャーキャー煩いだけでからっきし根性のない女子高生と一緒にしてもらっては困る。あたしはいつだって行動派なのだ。
打ち捨てられたまま床に散乱しているビデオテープにつまずかないよう気をつけながら、あたしはそろりそろりと探るような足取りで奥へと進んだ。だんだん目が慣れてきて、店舗の部分はさして広くないことが分かった。でも高木くんの姿は確認できない。店のさらに奥は廊下になっていて、その両側に試写室とみられる小部屋のドアがならんでいる。きっとあのどこかに隠れて、あたしが怖がっている様子を楽しんでいるんだろう。けっこう悪趣味なひとだ。
そのときあたしは、ふとある違和感を感じた。――タバコのにおいがするのだ。かなり濃密に漂っている。かつてその場所で誰かが吸っていたとか、そういうレベルじゃない、今目の前で煙を吐き出してるって感じだ。まさか、高木くんが吸っているのかな……?
そのとき闇のなかで、もぞりとひとの蠢く気配を感じた。高木くん? 違う……、しかも一人じゃない。はっきりとは見えないけど、部屋のなかにだれかが潜んでいる。
「……だ、だれかいるよ。ねえ高木くんってば、ここだれか他のひとがいるよ」
答える代わりに、くつくつと噛み殺すような笑い声が聞えた。あたしの正面から、右奥から、左の後ろからも――。
どこからともなく、おどけた感じの男の声がした。
「おーい高木ぃ、またプラネタリウムってかあ? おめえもワンパターンなやつだな」
四方から、いっせいに笑いがおこった。
やばい、だまされた――。
恐怖を感じ、全身がぞうっとおぞ気だった。すぐに逃げなきゃ。あたしは身をひるがえし、自分が今入ってきたドアへと急いだ。
「おっと、逃がさねえよ」
「ひっ」
すぐに後からだれかが追いかけてきて、あたしの腕をつかんだ。
つづく……。