おうじさま登場?
沙織たちと待ち合わせをしたカフェは、線路をへだてて駅の裏側にあった。ガード下をくぐって、雑居ビルの薄暗い路地を抜けた先のどんづまり。そこに優雅にたたずむ、小綺麗な木造の二階建て。
よくギリシャのクレタ島あたりを背景にして撮ったスナップ写真なんかに、こんな感じのお店が写りこんでいる。お洒落で、しかも風格のあるカフェテリア。象牙色に塗られたしっくいの壁に、派手な色彩をつらねたサンシェードが垂れ下がっている。料理はアメリカンフードがメインだけど、すごく美味しいしボリュームだってある。ちなみに、あたしのおすすめメニューは、バジルとアンチョビのピッツァ、それに、はちみつをたっぷりと使ったパンプキンパイ。
駅裏の街並っていうのは、もともとくすんで色あせていた。時流に乗っかってそれなりに栄えた駅前の繁華街にくらべて、取り残され、拗ねてしまった感じのする古くさい営みが根付いていた。飲食店はいわゆる飲み屋ばっかり。商店だって「今さらコンビニへなんぞ転身できるかい」みたいな、やや開き直った感のある時代遅れしたお店がほとんどだった。
見捨てられ、風化した街――。
薄暗くてじめついた、胡乱な空間――。
とてもじゃないけど、花も恥じらう女子高生には似つかわしくない場所だった。
でもここ数年のあいだに、この寂れた街にも少しずつ変化があらわれはじめたみたい。古ぼけた建物のあい間あい間に、若者むけのお洒落なお店がぽつりぽつりと顔を見せはじめたのだ。しかも健全で品行方正な表通りではあまり見かけないような、わりとマニアックな店が多かったりする。
インディーズ専門のCDショップ、個人輸入のアジアン雑貨店、タトゥーやボディピアスの専門店、ゴスロリファッションで人気のブティック、はてはレイヤー御用達のウィッグ専門店まである。
老いて色あせた街は、いつしか若者たちの物欲と好奇心をそそるお洒落でスタイリッシュな空間へと変わりはじめた。しかも、ちょっぴりアンダーグラウンドな香りただよう、秘密基地めいた遊び場だ。その注目スポットのなかでも特にあたしたちのお気に入りなのがこのお店、今日沙織たちと待ち合わせしているカフェ・ブラックローズなのだ。ウッドデッキに設けられたテラス席には、色とりどりの鉢植えのバラが甘い芳香を放ちながら、まるでクリスマスケーキのデコレーションみたいに綺麗に並べられている。
ヨウスケと別れたあたしは、表通りの人ごみを早足にすり抜け、ティッシュ配りのおねえさんや街頭アンケートのおにいさんたちを巧みにかわしながら、なんとか約束の時間までに待ち合わせ場所へとたどり着いた。途中でガード下をゆく自転車のお年寄りとあやうく激突しそうになったことは、このさい秘密にしておく。腕時計を見ると、きっかり一分前、すべり込みセーフってところ。
少し重たいかしの木の扉を両手でぐいっと押し開けると、頭のうえで、ガラゴロンと景気よくカウベルが鳴った。同時に、チェダーチーズやらデミグラスソースの美味しそうな匂いが一斉にただよってきて、あたしのお腹が、さっき食べたばかりのチョコレートマフィンをえいっとどこかへ押しやった。いつでも好きなだけ食べられますぜぇ、旦那。って感じ。
日曜のお昼どきとあって、さすがに店内は混み合っていた。でもそこは優等生の沙織のこと、万事手ぬかりはない。ちゃんと窓際のいちばん見晴らしの良いテーブル席をゲットしていて、あたしが店へ入るなり立ち上がって手招きした。
「ゆみ子ー、こっちこっちっ」
「ごめーん、あたしってば時間ぎりぎりー」
「やっとシンデレラのお出ましか」
「この暑さで、かぼちゃの馬車がエンジン火ぃ吹いちまって」
「そうか、じゃあ今度からはハイブリッドにしろよな」
ケンジが「よう」と片手をあげた。相変わらず安っぽい金メッキのネックレスに、ラメ入りてらってらのスカジャンを腕まくりして着ている。背中んとこには金糸で「JAPAN」なんて、でかでかと刺繍されてる。まじ、このファッションセンスにだけは付いていけない。ってか沙織、なんでこんなに軽くて薄っぺらなやつと付き合ってるんだろう? 男と女の仲って、ほんと不思議。
「なんだゆみ子、今日はバッチリめかし込んでるじゃん」
「ちぃーっす。てか、あんたどこの組のチンピラよ?」
「あ、ひでーな。彼氏のいないお前のために骨を折ってお見合いのお膳立てしてやったの、このケンジさまなんだぜ」
「はいはい、感謝してますって。……それより肝心の、あたしの王子様はどこ?」
「それが、まだ来てないのよねー」
沙織が、七宝焼みたいにこってりと色彩の乗った爪で携帯電話をつかみあげると、ぱちん、ディスプレイを開いて時刻を睨み上げた。
「もう来てもいいころなんだけど……」
どうやら相手の男の子は少し遅れてるみたい。こんなことなら、急いで来ることなかったな。
「いらっしゃいませ、お決まりですか?」
黄色いチェックがらのエプロンをしたウェイトレスが注文を取りにやって来た。うーむ、どうしようかなあ、ここでばくばく食べたらはしたないだろうか。相手の男の子に、なんて食いしん坊なやつなんだって嫌われちゃうかも。メニューを睨みながら、うむむむと唸っていたら、そんなあたしをあざ笑うかのようにお腹がぎゅるるーっと鳴った。
――だめだぁ、女の子はぜったいに食欲には勝てない。
人間の二大本能であるところの食欲と性欲のうち、どちらか一方だけを満たすことができるとしたら、そう究極の選択を迫られたら、ほとんど全ての女の子は間違いなく食欲のほうを選ぶだろう。悲しいかな、女の子というのはそういう生き物なのだ、けっきょく食べる欲求にはあらがえない宿命を背負っているのだ。
などと自分自身に苦しい言い訳をしておいて、あたしはこの際がっつり食事することで腹をくくった。
「えっとねぇ、じゃあグリルド・チキンとマッシュルームのサンドイッチに、ほうれん草のクリームパスタ、それとシーザーサラダに、あとストロベリーチーズケーキもください。あ、全部一緒に持ってきてかまわないですから。それとアイスココアもお願いしますっ」
「アホか、あんたは」
沙織が、呆れ顔で言った。
「これからデートするっていうのに、そんなにたくさん食べてどうすんのよ」
「だって……」
「だってじゃないでしょ、あんたのためにこっちだって貴重な時間さいて来てんだから、少しは真面目にやってよね」
「でもほら、腹が減ってはいくさはできないって、むかしの偉い人も言ったじゃない。だれの言葉だっけ? えっと織田信長? あれ、違ったかな、坂本龍馬?」
「どっちも言わない。ってかあんた、いったいだれと戦う気してんのよ?」
「沙織ぃー、あたしひもじいよぅー」
そう情けない顔で取りすがると、彼女は脱力してため息で肩を上下させた。
「もうー、肉圧でスカートのボタン、ぴーんと弾け飛んだって知らないからね」
「そんな恥ずかしいことにはならないもん、あたしスレンダーだもん」
そのとき、沙織の向かいで赤の他人を決め込んでいたケンジが「おっ」と弾んだ声を出した。
「来たよ、来た来た、ようやく色男のご到着だぜっ」
ガランゴロン。
扉が開く――。
逆光でまだ顔はよく見えないけど、店の入り口にすらりと背の高いシルエットが浮かび上がった。あのひとが大高サッカー部のキャプテン、ケンジの中学時代の同級生、そしてあたしの王子様……。
「いらっしゃいませ」
歩み寄るウェイトレスを手で制しておいて、そのひとは二、三歩店のなかへ踏み出したところで立ち止まった。どうやら、あたしたちのことを懸命に探してるみたい。
「おーいっ、高木ーっ、こっちだぞぉ、こっちこっち」
ケンジが中腰になって手を振ると、高木くんも、ひらりと片手を上げて応えた。うん、身のこなしがとっても爽やか。さすがスポーツマンって感じだね。彼は、あたしたちを見つけると嬉しそうに微笑みながら早足に近づいてきた。
「やあ、ごめんごめん」
やばい、まじ格好いい。
その姿がだんだん近づいてくるにつれ、あたしの胸はときめいた。思ってたとおり、いや思ってた以上に、めちゃ、まじで格好いい。
部活やってるひとってみんなボーズ頭なのかなって思ってたけど、彼の頭は茶色く染めたショートヘアだった。おまけにピアスまでしている。顔は日に焼けて少し黒いけど、でも目鼻立ちがすっきりと整ってて肌もきれい。もし今どきの肉食系イケメンボーイの顔をモンタージュ写真で作成したら、たぶんこういう感じになるのかな。こんな格好いいひとと手をつないで街中を歩いたりしたら、きっと道行く女たちはみなジェラシーのこもった熱い眼差しで振り返ることでしょう……。
「遅れてもうしわけない。じつは知り合いの車で送ってもらおうとしたら、この暑さでエンジンがオーバーヒートしちゃってさ……」
うふふ、あたしと同じこと言ってる。
立ち上がってあいさつしようか、ケンジが紹介してくれるまで大人しく待っていようかと悩んでいると、彼は爽やかな笑みを浮かべたままで、あたしのすぐそばまで歩み寄ってきた。
「やあ」
「……ど、どうもでしたぁ」
びっくりして身を固くする。彼がそのまま身をかがめてすーっと顔を近づけてくる。あわわわ、もう心臓ばっくんばっくん。突然の出来ごとにまるで金縛りにあったみたいに動けなくなる。彼の体からはムスク系の少しえっちな香りがした。ちょっと近いです、近いですってば。息が吹きかかるほどあたしに接近した彼は、今度はごく自然な動作で背中へ手を回してきた。
な、なにをなさるおつもりでしょう。まさか西洋風のあいさつとか? 肩を抱き合って、ちゅっとかいうやつ? ま、まずいぞ、ナイフとフォークさえ上手に使えないあたしに、とてもじゃないけど西洋風の洒落たあいさつなんて出来るはずない。そんなことをあれこれ考えていたら、ぺりっ、彼はあたしの背中からなにかはぎ取った。
へっ?
「ははは、君って面白いね。これをずーっと背中にくっ付けたまま、この店にいたのかい?」
ひらひら。
彼の手が、ハガキ大のメモ用紙らしきものをつまんでいる。
そ、それって……、まさか今の今まで、ずーっとあたしの背中に貼り付いてたわけ? ウソでしょーっ! あたしは半分パニックになりながらも、素早くその紙面に目を走らせた。そこには赤いマジックペンで、はっきりくっきりこう書かれていた。
わたし二股かけてます
あたしは、さーっと青くなり、次の瞬間には、ゆでダコみたいにまっ赤になった。
「よっ、よっ、よぉぉぉすけぇぇぇぇぇぇーっ!」
つづく……。