表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/30

恋心うらはら

 女心と、なんとやら……。

 あたしのスカートに顔を埋めて泣きじゃくっていたヨウスケは、ほどなくしてまるで何ごともなかったかのように完璧に立ち直った。なんなのよ、この回復の早さは? しかも顔を上げる瞬間、あたしのおニューのスカートで、ちーんと鼻をかみやがった。

「こ、こ、こ、このおバカーっ!」

 ぽかりと頭を叩いてやった。

「痛てっ」

 駅から三町ほど離れたところにあるその公園は、十八階建ての分譲マンションとコミュニティセンターの立体駐車場とにはさまれた、わずかなすき間にあった。遊具はブランコと鉄棒があるだけの小さな公園。でも、そびえ立つ建物や植樹されたプラタナスの枝葉に陽が遮られて、とても涼しかった。

 あたしはヨウスケの顔を覗き込んだ。

 髪型……ちょっと乱れてるけど、さらさらしてて綺麗。

 瞳……まだ少し赤いけど、きらきら澄んでいて素敵。

 チーク……心なしかふくれっ面だけど、つるふわで可愛い。

 リップ……泣いていたせいかつやつや光ってて、美味しそう。

 うん、いつものエロかっこいいヨウスケの顔だ。

 安心してうんうんうなずいていると、その一瞬のスキをついてヨウスケがあたしの唇をうばった。ただしほんの一瞬、一秒の十分の一くらいのあいだ唇どうしが、ちゅって触れ合っただけ。でも、あたしはまっ赤になって怒った。

「てめーこらヨウスケ、今日はやりたい放題かよ?」

 するとヨウスケは情けない顔になって「そんなに怒るなよー」と言った。

「……なんか、またおめーに色々と迷惑かけちまったようだな」

「ううん、そんなことない」

 あたしは、ゆっくりとかぶりを振った。自分はヨウスケの全てを知りたい。可愛らしさや格好良さだけじゃなくて、心に抱えている悩みや過去に負わされた傷、そんな闇の部分からみーんな含めてヨウスケという人間の全てが知りたい。大勢のひとが見ている前であんなにも無邪気に泣いたヨウスケ。その十数年歩んできた人生の裏側には、いったいどんなストーリーが隠されているのだろう……。

「今日は、ヨウスケのセンシティブな精神世界の一端をのぞき見ることができて、すごく新鮮な驚きを味わえたよ」

「ふっふっふ、なに言ってやがる。あれしきのことで俺様のキャラを知ったつもりになるなんて十年早いぜ。自分で言うのもなんだが、俺って人間は全くつかみ所がねえ」

「ほんっと、自分で言うことじゃないわね」

 スカートについた鼻水やよだれをハンカチで拭き取りながら、ふうとため息をついてみる。今日は色々あったけど、ヨウスケのことがますます分からなくなって、そしてますます好きになった。こんな変なやつに心惹かれてしまって、あたしの人生この先いったいどうなってゆくんだろう。ってゆーか、そもそもこいつ女の子だし……。

 不意にあたしの耳に、ぽんっという小気味よい音が飛び込んできた。見ると、公園のすみで小さな男の子が父親とキャッチボールをしていた。まだ買って間もないのか、グローブは小さな手にはぶかぶかで日を浴びてきれいなオレンジ色に輝いていた。「よし、来いっ」と言って父親が腰をかがめ、キャッチャーミットをかまえる。男の子が大げさなフォームで振りかぶる。芝生すれすれの高さを、つがいのモンシロチョウがひらひら横切ってゆく。男の子が投げたボールは大暴投だった。しかし父親はぴょーんとジャンプして、頭上はるか高くに飛んできたボールを難なくキャッチする。それを見た男の子が手を打って大はしゃぎしていた。

 ヨウスケがぽつりと呟いた。

「父親っていうのはよう、きっと子どもがまず最初に憧れるべき存在なんだろうな」

「え?」

 ヨウスケの横顔を見た。ベンチの背もたれに体をあずけ、青一色で塗られた夏空をぼんやり見上げるその目は、しかしどこか遠い別の世界の景色を眺めているように感じられた。

「ガキのころにさ……、親父に肩車してもらうのがすんごく好きで、いつも出掛けるたびに、かたぐるまー、かたぐるまー、ってせがんでたんだ。親父の肩の上から見下ろす眺めって最高なんだぜ。子どもの視線より何倍も高い位置にあるから、ふだん見慣れてるはずの景色がぜんぜん別の世界に見えたりしてさ。なんだか自分が急にエラくなったみたいで、それがもう嬉しくて嬉しくて……」

「うんうん。分かるなあ、その気持ち」

「俺が小学校へ上がる前に死んじまったから顔とかはよく覚えてないんだけど、その肩に乗せてもらったという記憶だけは今でもはっきり残ってるんだ」

 そうか、ヨウスケには父親がいなかったんだ……。

 あたしは、もう一度キャッチボールをしている親子のほうへ視線を戻した。子どもの嬌声と父親の笑顔。日を浴びて輝く真新しいグローブ。風のない夏空を行き交う白いボール。ひらひら舞うモンシロチョウ――。

 絵に描いたように平和で幸福そうな親子のすがたを見ているうちに、あたしはふと、あのカフェで泣いていた男の子のことを思い出した。

「……さっきの子。家へ帰ってからも同じように叱られているのかな」

 言ってから「しまった」と思った。もう触れないでおこうと思っていた話題なのに、目の前の幸せそうな親子を見ていたら自然と口をついて出てしまったのだ。恐る恐るヨウスケの横顔をうかがう。先ほどの変貌ぶりを思い出してドキドキした。でも、ヨウスケはもう泣いたり怒ったりはしなかった。ただ少し寂しそうにうつむいて、「さあな……」とつぶやいただけだった。

 そのとき、不意にあたしの携帯電話が鳴った。

「あ、ゆみ子ー。今日の約束、忘れないでよ。あたしたち、先に店に入って待ってるからさ」

 沙織からの確認の電話だった。今日のお昼に、あたしは沙織の彼氏であるケンジの紹介で、ある男の子と会う約束をしている。有名な進学校でサッカー部のキャプテンをやっているイケメン男子。そんな触れ込みだったので、昨夜はもう浮かれっぱなしでよく眠れなかった。今朝、家を出たときだって恋のボルテージはもうマックス状態だった。でも今はヨウスケのことが心配ですっかり気持ちが萎れてしまっている。

「う、うん……」

「あれれ? ゆみ子ってば、なんだかテンション低いよ、どうしたの? ひょっとしてアレ始まっちゃった、とか?」

「ば、ばか、そんなんじゃないわよ」

「きゃはは、冗談だって。とにかくセッティングはバッチリだから、遅れないで来てよ」

「……うん、分かった」

 電話を切ってから、気付かれないようにそっとヨウスケを盗み見る。どうしよう……。今日は、このままずっとヨウスケのそばにいてあげたいな。沙織には悪いけどデートすっぽかしちゃおうかな。ごめん、フライドチキン食べたらとつぜん鳥インフルエンザに感染しちゃって、とかなんとか嘘をついて……。

 しかし、そんなあたしの心情を察してか、目の前にいる美少年は、いや本当は美少女なんだけど、こちらに顔も向けないままこう言った。

「行けば? これからデートなんだろ」

 やばい、完全に見透かされてる。ってか、なによ、その投げやりな言いかたは。

「うん、でも……、体の具合が悪いからって断ろうかと思ってるの。だってヨウスケのこと、ひとりにしておけないもん」

「ばーか、無理すんなって。楽しみにしてたんだろ、今日のデート」

 めかし込んだあたしの姿を頭のてっぺんから足の先まで眺め回して、ヨウスケがにやけた笑いを浮かべた。急に恥ずかしくなって、あたしは顔を赤くしながらうろたえた。

「べ、べつに無理なんかしてないもん」

「そうかなあ……。でもこんなに可愛い子に迫られたんじゃ、相手の男、きっとイチコロだろうな。うひひっ」

「もう、ばかっ」

 あたしが怒ると、ヨウスケは少し真面目な顔になって言った。

「いや冗談抜きでさ、俺もこの後ちょっと用事があるから、俺たちここで別れようぜ」

 のろのろとベンチから立ち上がると、ヨウスケは空を仰いで、うーんと大きく伸びをした。あたしは少し拍子抜けして、がっくり肩を落とした。「うえーん、ゆみ子、行かないでーっ」と泣いてすがりついてくるまではいかないにしても、このまま一緒にいたいなんて言ったらきっと喜んでくれるかなって思ってたのに……。

「ほんとにいいの? あたし行っちゃうよ……」

「おう、行ってらっしゃい! デートがんばってな」

 ばしんっ。ヨウスケが勢いよくあたしの背中を叩いた。おっとっと、反動で、よろめく。このやろう、今の一撃、なんだか悪意がこもってなかったかあ……。

「じゃ、行くね。今夜にでもまた電話するから」

「のろけ話なら聞きたくないぜ」

「ヨウスケのばかっ!」

 あたしは肩をいからせ、ぷりぷり怒りながら駅へと歩き出した。きっとヨウスケは、気を使ってわざと冷たい態度を取っているんだと思う。そんなことは分かってる。心の片隅ではそのことをちゃんと理解してるんだけど、でも乙女心って複雑、こういう場合どうしたってツンケンしてしまう。ごめんね、ヨウスケ。

 通りを渡る押しボタン式の信号機の手前で、もう一度公園のほうを振り返ってみた。でもそこからじゃ、もうヨウスケのきれいなショートヘアもまぶしい笑顔も見ることはできなかった。



 つづく……。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ