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ぺいん

 駅に隣接するデパートの屋上で、夏の上昇気流に弄ばれながらアドバルーンがゆらゆらと揺れている。

 十時を過ぎたあたりから、また気温が上がり始めたみたい。

 あたしはヨウスケの背中を小走りで追った。この子なにをする気だろう? なんだか怖くて声を掛けられなかった。でも放ってはおけない。ヨウスケの態度がおかしくなったのは、おそらくあの若い父親のせいだ。幼い息子の頬を何度も張った男。今も大きな声でなにか喚いている。近づくと、その男の顔が少し赤いようにも見えた。酔っているのかな……。

「いつまでも、ぴーぴー、ぴーぴー泣いてんじゃねえ、ひとが見てんだろうがっ」

 父親がどなる。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 子どもは、両手で目をこすりながら小さな肩を震わせて泣きじゃくった。

 気がつくと、多くの視線がその若い父親のほうへ向けられていた。ある者は冷ややかに嘲笑し、またある者は鬱陶しそうに眉をひそめている。でも誰ひとり、面と向かって意見する者はいなかった。しょせんは、よその家庭の問題――赤の他人が口をさしはさむ筋合いじゃないと思っているのだ。

「まったく、お前ぇみたいなどんくさいガキは、うちには要らねえな。いっそここに捨てていくから、だれかに拾ってもらえよ」

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

 蚊の鳴くような声で、男の子が何度もあやまる。いっぽう母親のほうは、まったく我関せずといった感じで携帯電話でだれかと談笑していたが、ふと周囲の視線に気づき不機嫌な顔で電話機をとじた。

「ちょっとお、恥ずかしいからやめてくんない? 人が見てるじゃん。そういうことは家に帰ってからやりなよ、まったく親子揃ってバカなんだから……」

「ほうれみろ、お前のせいで俺まで怒られちまったじゃねえか。いいか、家に帰ったら覚えておけよ」

 薄笑いを浮かべて、父親が恫喝する。子どもはまたベソをかき始めた。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「だから、ぴーぴー泣くなっつってんだろが!」

 赤らんだ顔を歪めて、その男はふたたび平手を振り上げた。子どもが縮こまって、ぎゅっと目をつむる。あたしは思わず息を飲んだ。周りで見ていた大人たちのあいだにも緊張が走る。

「このガキっ」

 そのとき、節くれ立った父親の腕にほっそりとした指がきつく巻きついた。ヨウスケだった――。子どもを張り倒そうと振り上げた腕を、ヨウスケが背後から掴んだのだ。腕を掴まれた父親は、慣性の法則で上体だけをかくんと動かしてから、驚いて後ろを振り返った。

「なんだ、あんたは?」

 ヨウスケは答えない。

「このやろう、その手を離せよ」

 父親は、ヨウスケの手を振り払おうと懸命にもがいた。悪趣味なタトゥーの入った太い腕をめちゃくちゃに振り回す。しかし華奢でか細いはずのヨウスケの指は、その男の手首に食い込んだままなかなか離れなかった。それどころか徐々に彼の腕をねじ上げてゆく。

「痛てててっ、おいこらやめねえか」

 語尾は悲鳴になった。しかしそれを見ていた母親のほうがヒステリックにわめきだした。

「ちょっと何すんのさ、あんたいい加減にしないとひとを呼ぶよ。うちはね、子どもの躾には厳しいんだよ。他人の家庭の問題に、かっこうつけて横からしゃしゃり出てくるんじゃないよ、ちょーうざい、胸くそ悪いんだよ」

 まくしたてる母親に向かって、ヨウスケが初めて口を開いた。しかしあの爽快だったハスキーボイスは驚くほどに弱々しくて、しかも涙声だった。

 そう、ヨウスケは泣いていたのだ――。

「……母さん、ぼく、あのおじさんのこと嫌いだよ。どうしておじさんは、ぼくのことぶつの? ぼく、なんにも悪いことしてないのに。いつも良い子にしてるのに。おじさんは、どうしてぼくのこと蹴飛ばすの? ぼくが女の子みたいだから? それとも……ぼくがおじさんのこと、お父さんって呼ばないから?」

 ぼそぼそと涙声で語るヨウスケに驚いて、その母親はあんぐりと口を空けた。

「あんた……なに言ってるの?」

 野次馬たちも呆気にとられている。ヨウスケは、父親の腕をひねり上げたまま、ひっくひっくと泣きじゃくっていた。

「……ぼく毎日、母さんのことお手伝いしてるよ、宿題もちゃんとやってるし、この前だって算数のテストで百点取ったんだよ。なのにおじさんは、どうしてぼくに酷いことばかりするの?」

「ちょ、ちょっとヨウスケ――」

 ヨウスケは、あきらかに精神に変調をきたしていた。目を見開いたまま、涙をぽたぽたとこぼしている。あたしは、恐る恐るその肩を揺すってみた。

「ねえ、ヨウスケってば、一体どうしちゃったのよ?」

 反応はなかった。まるで人形みたいに、ただあたしに揺すられるがままになっている。母親に向けられた目もなんだか虚ろで、焦点は合っていないように見えた。

「……もうすぐ学校のプール開きだよ。でもぼく恥ずかしくてみんなの前で服を脱げないよ。お願いだから、もうベルトをムチの代わりに使うのはやめさせて、ぼくの体にたばこの火を押しつけるのはやめさせてよ。痛いのはやだよ、熱いのもやだよ。お願いだから、お願いだから」

 ヨウスケに腕をねじ上げられたままの父親が、顔を歪めながら悪態をついた。

「おい、ねえちゃん。お前の彼氏は頭が狂ってるんじゃねえのか?」

 うるさい、バカっ、元はと言えば、ぜーんぶあんたのせいなんだから。

「ちょっとお客さん、なにやってるんですか?」

 騒ぎを聞きつけた男性店員が二人、こちらへ駆け寄ってきた。それを見つけた母親が、ここぞとばかりにまくし立てる。

「こいつなんとかしてください! いきなりやって来てひとに暴力を振るうんですよ」

 あたしは、あわてて弁解した。

「あ、あの、違うんです。ヨウスケは、小さな子どもがひどい折檻を受けているのを黙って見ていられなくて……」

「なにが折檻よ! 粗相をした子どもをちょっと叱ってただけじゃない」

「でも、あんな小さな子どもを何度も引っぱたくなんて」

 店員が割って入った。

「まあまあ、ちょっと落ち着いてください」

 そのとき、ヨウスケが急にあたしに言った。

「おい、ゆみ子っ、その子のシャツの袖まっくってみろよ」

「えっ?」

 ヨウスケはいつの間にか泣き止んでいて、目をまっ赤に腫らしながら、すごく怖い顔をしていた。

「早くやれってば!」

「は、はい」

 すごい剣幕だった。なによ、いきなり亭主関白? でもなんだか怖くて逆らえなかった。あたしは、ためらいながらも泣いている子どもに近づいた。

「ねえボク、ちょっとごめんね」

 小さな腕をそっと掴む。子どもは一瞬びくっと肩を震わせたが、あたしが優しく笑いかけると、されるがままになっていた。それにしても、このくそ暑いのにロングスリーブのシャツだなんて……。

「あっ!」

 コットンシャツの袖をまくり上げた瞬間、あたしは小さく叫んでしまった。周りで見ていた他の客たちのあいだからも悲鳴が上がる。その子の細い腕には、びっしりと火傷のあとがあったのだ。明らかに、たばこの火を押しつけたあとだった。二人の店員が、信じられないといったふうに若い母親のほうを見た。

「あ、あんた……」

 母親は蒼白な顔で立ち上がると、子どもの手を引いて出口のほうへ歩きだした。

「なによこの店、ちょーむかつく。もう二度と来ないからっ!」

 母親に連れてゆかれる瞬間、子どもの小さな手があたしのスカートの端を掴んだ。

「あ……」

 白くて短い指は、しかしスカートの布地をすりぬけて、そのまま遠ざかっていった。あたしはなんだか胸が締め付けられる思いで、その儚げな後姿を茫然と見送った。

 そう言えばいつだったか、看護師志望の愛子がこんなことを言っていた。

 生まれたばかりの赤ちゃんは、まだ自分と母親との区別がつかず二者は統一体だと思っている。つまり母親のことを自分の体の一部だと思っているのだ。だから自分のそばから母親がいなくなると不安になって泣きだす。近くにいるときは、手で触れたり口で吸ったりしてその存在を確かめ安心する。そうしながら成長して、やがて自分が母親とは別の独立した存在であることを徐々に認識してゆくのだ。子どもの自我はそうやって形成される。

 でもネグレクトのような育児放棄によってごく幼いうちに母親から遠ざけられてしまった赤ちゃんは、その安心が得られず成長してからも自我の確立が不完全なままのことが多い。いつまでたってもオムツが取れなかったり、指をしゃぶるクセが抜けなかったり、ヌイグルミを抱いていないと不安で眠れなかったりするのは、その兆候なのだという。

 幼いころに重大な愛情剥奪の経験をしてしまった子どもは、つねに不安でたまらない……虐待を受けている子どもたちは、いつだって愛情に飢えているのだ。

 さっき、あたしのスカートの裾を掴もうとした小さな手……。あの手は、本当はなにを掴みたかったのだろう。

 気がつくと、父親のほうもヨウスケから逃れ、母親のあとを追って店を出ていた。すでに店員も去った後で、野次馬たちも興味を失ってもうこちらには目を向けていなかった。ただヨウスケだけが、魂が抜けたみたいになって突っ立ていた。

「あたしたちも、ここを出ましょう」

 ヨウスケの手を引いて店を出た。せっかく楽しみにしていた初デートが、なんだか悲しい思い出に変わってしまいそう。でもそんなこと、どうだっていい。あたしはヨウスケのことが心配だった。この子はきっと心に深い傷を負っている。女の子のくせに男っぽく振る舞うのも、もしかしたらそのことが原因なのかもしれない……。

 なにも喋らずうつむいたままのヨウスケとならんで駅前の通りを少し歩いた。しばらく行くと小さな公園があったので、そこのベンチに二人して腰を下ろした。そのとたん、ヨウスケが急にあたしの腰に抱きついてきた。

「きゃあっ!」

 こんなところで白昼堂々と押し倒してくる気かあ? 頭を小突いてやろうと振り上げた手を、あたしは止めた。ヨウスケは泣いていた。あたしのスカートに顔を埋めたまま、肩を震わせ、まるで小さな子どもみたいに……。

 あたしは、そんなヨウスケをそっと抱きしめ優しく頭をなでてやった。

「……いいよ、ずっとこのまま泣いててもいいよ、あたしはずっとここにいるから、ヨウスケのそばにいるから」

 ヨウスケはなにも答えず、あたしのおニューのミニスカートを涙と鼻水とよだれでびちょびちょにしながら、ただ泣きじゃくっていた……。



 つづく……。


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