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メタモルフォーゼ

 ああ、そうか、美少女ってのは男装するとそのまま美少年になってしまうんだ……。

 ヨウスケの涼しげな瞳に見つめられ、至極当たり前のことに改めて気づかされた、あたし。

 ――なんか頭の中が、ぽわんとしちゃってる。

 アイルランドの哲学者、ジョージ・バークリーは言った。

 と、あたしのクラスメイト、沙織は言った。

 存在することは知覚されることである、と……。

 今やあたしの五感のすべては、この上もなくヨウスケを感じている。

 ヨウスケの眩しさ、ヨウスケの匂い、ヨウスケの息づかい、ヨウスケの温もり……いや味覚だけはまだ試してないけど。

 でも、とにかくヨウスケは確かにここにいる。

 あたしのすぐ目の前に存在している。

 そう、手を伸ばせばすぐに頬っぺたをむにゅって出来そうなくらいの距離に――。

 むにゅ。

「痛へへへっ」

 いきなりキスしてきやがったお返しだ。あたしはヨウスケの両の頬を思いっきり指でつまんで引っぱってやった。

「ほまえってやふは、ふぉんと、なにひゅるんらおー」

 涙目になってあたしの攻撃から逃れようとするヨウスケ。でもまだ許してやんない。うーむ、横に広げてみてもやはり美少年は美少年のままか……。しからば今度は縦にっ。むにゅーっ。

「ひーかへんに、ひゃめれっ!」

 やっとの思いであたしの手を振り払い歯医者さんにさえ見せたことのないような無防備で面白い顔から解放されたヨウスケは、そのままがたがたとイスをずらしテーブルを隔ててあたしの真向かいに移動した。うん、これでようやく元の位置に戻った。

「自慢じゃねーけど、俺様のファニーフェイスは小顔なことで通ってんだよっ。それを広げてどうすんだ、広げて!」

「なによ、口を広げておせんべい食べやすくしてあげたんじゃない」

「おめー、そーゆー生意気な口ばっかきいてっと……」

 両手を目の前にかざして、にぎにぎとイヤらしい動きをして見せる。

「また、おっぱい揉んじゃうぞ」

 そう言って、にやり、攻撃的な笑みを浮かべた。でも頬っぺたが赤く腫れているので、ぜんぜん迫力がない。あたしはテーブルに頬づえをついて斜め約十五度の視線で見上げながら、ふっとニヒルな笑みを浮かべてやった。

「まっこと、子どもよのう……」

「あ、なんだよー、そのひとを蔑むような視線はよ。さっきはあんなに良い雰囲気だったのに、なんかもう台無しじゃねえか」

「ふふ、女心を解せぬとは、そちもまこと哀れなやつよのう……」

 ほ……と、わざとらしくため息をつく。それを見てヨウスケは、はっとなにかを悟ったような顔をした。

「もしかして……これがあの、世に名高いツンデレとゆーやつか……」

 こらこら、ツンデレをそんな幻の逸品みたいに言うな。しかしヨウスケは感慨深げに何度もうなずきながら、ツンデレという言葉をくり返し口のなかで噛みしめた。

「そうかあ……、これがツンデレかあ……。嫌よ嫌よも好きのうちという、あのツンデレなのかあ……」

「いや、ちょっと違うかも」

「よいではないか、よいではないか、と帯を引っぱられて、あーれー、とくるくる回る、あのツンデレなのかあ……」

「それ絶対、違うと思う」

「今っ、巫女さんやロボっ娘とならんで、俺様の萌え属性にツンデレが加味されたのだった!」

「もともとの萌え要素がマニアックすぎだろ。なんでツンデレが後から加わんのよ」

「いやまあ、とにかくよ……」

 ヨウスケが、可愛らしく頬をぷうっと膨らませる。こういう仕草は、やはり女の子のものだ。

「俺、マジでおめーのこと好きだから」

 こうはっきりくっきり言われちゃうと身も蓋もないというか、もう突っ込みのしようがない。

「えーと……」

「言っとくけど、足フェチとか関係ねーからなっ」

「わかってるわよ、あたしだってそんなこと本気で信じてるわけじゃないもん」

「いや、俺が足フェチで噛みぐせあるってゆーのは事実なんだけど、でもそのことと俺がおまえを好きだってことに因果関係はねーってこと」

「ああ、なるほどね……」

 って、本当に足フェチで噛みぐせあるのかい! 危ないやつだなあ、レクター博士かおまえは……。

「安心しろ、噛むといっても甘噛みだ。まちがってもおめーの可愛いお尻に血が滲むほど歯形を付けたりなんかしねーから」

「付けられてたまるかっ! てか、すでにあたしとえっちすること前提に話してるじゃん」

「まあ、そうカリカリしなさんなって。ほら、チョコレートマフィン食えよ、今日は俺のおごりなんだから」

「食わいでかっ!」

 と変な日本語を得意げに使いながら、あたしは本日三個目のチョコレートマフィンにかぶりついた。なんだか知らないけど、今日はやけにメラメラと食欲がわいてくる。ふつうメラメラとくれば闘志なんだけど、時としてあたしの場合は食欲がわいてくるのだ。

「おめーって、ほんとチョコ好きだよなあ、おめーとキスしたらきっと……」

「試してみる?」

「え、……いいの?」

「絶対だめ」

 思いっきり、あっかんべーしてやった。

 駅前にある噴水の真っ白い水しぶきに、小さく虹がかかっている。照りつける日差しが、肌を刺すほどに眩しい。

 横断歩道に絶え間なく流れる、通りゃんせのメロディ。

 信号が変わるたび吐き出される人、人、人……。

 雑踏、

 人いきれ、

 なんの変哲もない、夏の入り口のとある日曜の朝、気怠くて、ひたすらに暑い……。

 あたしは空を見上げて、うーんと伸びをした。気持ちのよい青空がどこまでも続いている。

 そのとき――。

 突如、あたしの耳に、ぱしんっ! という明らかに人の頬を張るような痛々しい音が飛び込んできた。なんだろう、痴話ゲンカか? しかし間をおかずして子どもが火の付いたように泣きはじめる。見ると、髪の毛を茶色く染めた若い男が、おそらくは自分の息子であろう三、四歳くらいの男の子を激しく折檻しているところだった。

「ぎゃーぎゃー泣くんじゃねえ、このくそガキがっ、てめーはいちいち痛い目に遭わねーと親の言うことも聞けねえのか!」

 いい歳した大人が、まだ年端も行かない子どもに向かって、まるで喧嘩の相手にでも対するように大声で喚いている。

 ひどいなあ、いくら自分の子どもだからって、あんな風に怒鳴りつけなくてもいいのに……。叱るなら、ちゃんと子どもにも分かるように、一体なにがいけなかったのか、どこがどう悪くて叱られているのかを理路整然と言って聞かせなきゃ。ただイラついた感情のまま、あんな風に怒りだけをぶつけていたんじゃ、子どもだって怖くて泣くばかりだし、どうして自分が叱られているのかさえも考える余裕がないだろうに……。

 見ると同じテーブル席には、派手な格好をした若い母親らしき女も座っていた。子どもは、父親の剣幕に恐れをなし、必死になってその母親に救いをもとめている。しかし彼女はまったく知らんぷりを決め込み、涼しい顔で食事を続けていた。

 今どきの若い親って、みんなああなのかなあ。なんか胸が痛むよなあ……。

 ぱしん――、また父親が平手で子どもの頬を張った。小さな体がぐらりと揺らぐ。ひどい……。あたしは思わず目をつぶってしまった。いくら親だからって、あんな小さな子どもを何度も打つなんてあまりにもひどすぎる……。

 と、急にヨウスケがすっと立ち上がる気配を感じ、あたしは驚いてその顔を見上げた。

「……ヨウスケ?」

 瞬間、息を飲んだ。そして自分の目を疑った。

 え、この人だれだろう……? ヨウスケに似てるけど、でもヨウスケじゃない。断じて違う――。あたしの知っているヨウスケは、もっと可愛くて、眩しくて、自由気ままで、かっこ良くて、たまには拗ねたりもするけどでも目の奥のほうはいつも笑ってて、あたしはそんなヨウスケのことが大好きで……。

 でも、今目の前にいるヨウスケは、これまで見たこともない全く別のヨウスケだった。それは、初めて見るヨウスケの表情。人間ってこんなに怖い顔が出来るんだ……。

 とくに目つきが恐ろしかった。

 暗い暗い海の底に棲む深海魚の、その何千年も昔に視力を失ってしまった目玉のような、そんな一切の輝きを失った目。でも、どろんと淀んだその目の奥底には、怒りとも悲しみともつかないどす黒い感情が、まるで猛毒を煮詰めて凝縮したようなとんでもない濃度の悪意となって満ちていた。

 怖い……。

 ヨウスケが怖い……。

 ヨウスケの抱えているであろう秘密が怖い……。

 ヨウスケの心のなかに巣食っているかもしれない闇が怖い……。

 そして、そんなヨウスケのことがすでに忘れられない存在となってしまっている、あたしの運命が怖い……。

「ど、どうしたのよ、トイレ……?」

 言った声が震えた。どうしてもふつうに声が出せなかった。あたしが今、ヨウスケに対してこの上もなく恐怖を感じていることが伝わってしまっただろうか。

 ねえ、お願い、もとに戻って。さっきまでの、かっこ良くて変な冗談ばかり言うヨウスケに戻ってよ……。

 しかし、そんなあたしの心の声はとどかず、やがて彼は子どもが泣いているほうへ向かって歩きはじめた。まるで見えない糸に手繰り寄せられるように……。

 夏の初めの日曜日、弛緩した喧噪にみちるその風景のなかにあって、ヨウスケの存在する空間だけが、その部分だけが凍り付いたように暗く、重く、冷たく歪んで見えた。



 つづく……。


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