ガール・ミーツ・ボーイ
日曜日の空も、やはり底抜けに青かった。
まるで薄荷水を詰め込んだボトルの底みたいに清々しいブルー。部屋の窓から見上げると、視界を斜めに突っ切ってヒコーキ雲が三本すーっと東の空へ伸びていた。なんだか絵葉書にでもして残しておきたくなるような、そんな気持ちのよい朝。
階段を下りて居間のドアをあけると、ママが窓辺にならべたプランターに水をやっているところだった。ちょうどゼラニウムの鉢植えが満開で、濡れたミカン色の花弁が朝日を浴びてきらきら輝いていた。キッチンからは、ブラックペッパーの香ばしい匂いがただよってくる。覗いてみるとパパが堂に入ったフライパンさばきで、サイコロステーキを焼いているところだった。
洗面台へ行って大きな鏡に自分の顔を映し出してみた。たっぷり一時間かけてメイクアップしたその顔は、なんだかつんと澄まして少しよそよそしく見えた。にっと笑ってみる。鼻の穴がちょっと広がってあまり可愛くない。今度は媚をふくんだ眼差しで憂い顔をつくってみた。まるで不良のお姉さんがガンを飛ばしてるみたいだった。だめだ、こりゃ……。落胆してため息をついていると、鏡に映った間抜けな百面相の後ろからママがぬっと顔をのぞかせた。
「あらっ、今日はやけにめかし込んでるじゃない。さては男の子とデートだったりして……」
デートという言葉を耳ざとく聞きつけて、パパもフライパン片手にのこのこやって来た。
「なになに、ゆみ子おまえ彼氏いるのか? どんな男だ? パパよりも良い男か?」
まゆを八の字にして情けない顔をする。
「ちょっとぉ、おニューのキャミソールにサラダ油とばさないでよ」
「ああ、ごめんごめん」
「この世にパパより良い男なんているわけないじゃん」
と言いつつ、さりげなく右手を出す。このあいだパパからもらった一万円は、もう半分くらい使ってしまった。ここはひとつ補正予算を……。しかしその厚かましい手のひらを、ママがぴしゃりと打った。
「あ痛てっ」
「そうやって男をたぶらかしてお金をせしめようとしていると、将来ろくな女にならないわよ」
ママのとなりで、その彼女にたぶらかされた張本人が相づちを打った。
「うんうん、ママの言う通り……」
だめだ、作戦失敗――。しかたなくあたしは、もう一度鏡を振り返ってリップの輝きぐあいを確かめてから居間を出た。
「じゃあ出掛けるから」
「あれっ、メシ食わないのか?」
「ごめん、外で食べるの」
「せっかくお前のために、お肉焼いたのに……」
「朝っぱらから、そんな脂っこいもの食べたくないし」
「しかたない、じゃあお前の分はパパが責任をもって処分するとしよう」
「ってか、最初から自分が食べたかっただけでしょ」
パパは春のメタボ検診で引っかかり、その後しばらくのあいだ料理を作るときは食事バランスガイドを手放さなかった。しかしだんだん危機感も薄れてきたらしく、最近ではまた飽食ざんまいの日々を送っていた。この分だときっと来年の検診でもアウトの判定を受けるに違いない。
「今夜は手巻き寿司にするから、なるべく早く帰ってこいよ」
「もし遅くなってもウニと甘エビだけは残しておいてね」
「たぶん、真っ先になくなると思うぞ」
「パパの意地悪――」
玄関でパンプスに足をねじ込んでいると、後ろからママが心配そうに声を掛けてきた。
「あんまり遅くなっちゃダメよ」
「はあい」
「あと調子に乗って変なことしないでよ。お母さん、まだ孫の顔なんて見たくないんだから……」
なにを言うか。
「じゃあ行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
お気に入りのトートバッグを肩に引っ掛け、玄関ドアをあけた。七色に渦を巻く太陽光線をまともに浴びて、くらっと目眩がした。バッグから、つばの広いレディースハットを取り出して頭に乗せる。キャミと同色のペパーミントグリーン。左耳の上あたりに、レースを編んだ大ぶりのコサージュが付いている。ふと横を見ると、雨よけカバーをかけたままの愛車ヤマハXVビラーゴが、朝露に濡れながら所在なさげに佇んでいた。そっと燃料タンクを撫でてやる。
「今日は、あんたはお留守番だよ。また今度、一緒に遊んであげるから」
ヨウスケと約束した時間までには、まだかなりの余裕があった。あたしは両手を広げてうーんと深呼吸すると、駅までの道のりをバス停ひとつ分だけ歩いてゆくことに決めた。
休日の駅っていつもそうなんだけど、一種異様な熱気と、香水や整髪料のにおいと、そして抗いがたいような焦燥感に満ちている。そんなに喜び勇んで一体どこへ遊びに行くというのだろう。せっかくの休みなんだから、もっと心に余裕を持って過ごせばいいのに。
待ち合わせ場所に、まだヨウスケの姿はなかった。かつてタバコの自販機と喫煙スペースがあったその場所は、今は白い丸テーブルとイスが並べられ、人待ち顔の若い男女であふれかえっていた。手持ちぶさたで壁に寄りかかって携帯をいじくり回していると、続けざまに男の人から声を掛けられた。
「あの、ファッション雑誌のモデルになりませんか?」
「なりません」
「うちの店で働きませんか? ひと月に軽く百万くらいは稼げますよ」
「働きません」
「ビデオに出演してみませんか? ロケはハワイのワイキキビーチで行います。あ、もちろん水着姿になるだけですよ」
「出演しません」
だんだんイライラして腹が立ってきた。おかしなスカウトマンから声を掛けられるために、頑張っておめかししたんじゃない。なるべく他人と目を合わせないよう携帯画面に集中していると、視界の端っこに、またひとり男の人があきらかに自分目ざして近づいて来るのが見えた。
まったくもうっ!
あたしの横で立ち止まったその男に、振り向きざま口をひらく間もあたえず言ってやった。
「エロ本も、キャバクラも、エッチビデオも、みーんなお断りしますからっ!」
「なんで?」
「……あれ」
ヨウスケだった。
「なんだか知らねーけど、いきなり拒絶されちまったぜ……」
「あはは……ごめんね、ちょっとしたミステイクなの」
言いながら、あたしはドギマギしていた。なんだか今日は、この前とは雰囲気違う……。
前回会ったときは明らかに女の子の格好してたけど、今目の前にいるヨウスケは完全に男の子のファッションに身をつつんでいた。白い開襟シャツの上に、ダークグレーの二つボタンジャケットをはおり、ウェスタン調のカーゴパンツをロールアップしてはいている。カラーレザーを二重にしたチョーカーが、なんともワイルドな感じ。胸の膨らみがほとんど分からないのは、おそらくサポーターかスポーツブラで潰しているのだろう。あの精悍で美しい顔も今日は一段と引き締まり、なんだか飛びっきりの美少年って感じだ――。
「なーに見とれてんだよ、おめーは」
「いや、あの……マジで格好いいなって思って、うん、あたしちょっと惚れちゃいそう」
「おめーも、びっくりするくらい可愛いぜ。まあ、俺のためにお洒落してきたってわけじゃねえんだろうけどよ」
「またそんな……、相変わらず口が悪いのね」
「ひょっとしてお姫様は、腹が減って気が立っているのかな? よし、取りあえずなんか食いに行こうぜ」
言うが早いか、あたしの指に強引に自分の指をからめてきた。えーっ、手をつないで歩くなんてちょー恥ずかしいよ、小学生のカップルじゃあるまいし。でもヨウスケのジャケットにあたしの肩が触れた瞬間、なんか胸がきゅんとなった。ほんと男の子だったら良かったのに。あたしは、それからスターバックスでいつもの席につくまで、なんだか地に足がつかずふわふわ夢のなかを歩いているような感覚を味わった。いや、イスに腰掛けて目の前にフラペチーノとチョコレートマフィンが並べられてからも、ぼーっとヨウスケに見とれていた。
ほんと男の子だったら良かったのに……。
「おめーこの前、千里ネェに会ったんだって? 同じ学校に通ってたんだってな」
「え、あ、うんそうなの。ぐうぜん校門の前で見かけてびっくりしちゃった」
ヨウスケが、ぐっと身を乗り出してくる。
「でよう……、千里ネェは、俺のことなんか言ってたか?」
「べつに」
「隠すなよ」
「隠してなんかないもん」
「また、おっぱい揉んじゃうぞ」
「揉まれたら、揉み返す」
「ははは、今日の俺様は、おっぱいを完璧にコーティングしてあるから、揉むのは無理だ」
コーティングって……。
「なあ、教えろよう」
そう言ってイスをずらし、ぴったり身を寄せてくる。あたしは思わず身構えてしまった。こいつはいきなりトンデモナイことしてくるから、ほんと油断ならないのだ。ヨウスケはあたしが逃げられないよう肩に腕を回すと、ぐいっと力をこめて自分のほうへ引き寄せた。やばい、これってぜったい乳を揉む体勢だ。やめろ、こんなところで。それでなくともあたしたち、ただでさえ目立っているというのに。
「わ、分かったから、正直に話すから恥ずかしい行為におよぶのだけは止めて」
「おーし、それじゃあきれいさっぱり自供しちまえ」
「う、うん」
仕方がないので、あたしはぼそっとつぶやくように言った。
「……足フェチ」
「はあ?」
「ヨウスケは、筋金入りの足フェチなんだって」
がくっとヨウスケがずっこけるのが見えた。
「あと噛み癖があるから、えっちのときは気をつけろって」
「お、おまえまさか……、それを信じたわけじゃねーだろうな」
「極めて重要な情報として頭のなかにインプットした」
「インプットするなよ!」
「あとね……」
「ええっ、まだあるのかよ。くそう、あのお喋り女め」
狼狽するヨウスケの耳元に唇を寄せて、いたずらっぽく囁いてみた。
「……ヨウスケの魂は、もうどうしようもないくらい、あたしに惚れちゃってるんだって」
言ってから、ちょっと恥ずかしくなった。言われたヨウスケはもっと恥ずかしかったに違いない。しかし慌てふためくかと思いきや、ヨウスケはあたしの肩へ回した腕にふたたび力をこめ、胸元へ抱き寄せた。そして、あっと思った瞬間にはもう、あたしの頬にキスしていた。
「それ、事実だから――」
あたしの脳内回路がフリーズした。再起動するまでには、少し時間がかかりそう。
……ほんと、男の子だったら良かったのに。
つづく……。