魂だけは男の子
「そんなところへ長いあいだ座っていると、病気になってしまうわよ」
卯月先輩は、床の上にへたり込んでいるあたしにそっと手をさしのべてくれた。恐る恐る、その手につかまる。すべすべした細く長い指からひんやりとした感触があたしの手のひらへ伝わってくる。ネイルカラーは上品な色合いの淡いピンク。ただしどの爪にも、ルビーみたいに赤く燃えるネイルストーンが散りばめてあった。中指には、翡翠を削って造ったような綺麗なリングが嵌められている。少しためらってから軽く握りしめると、彼女はぎゅっと強く握り返してきた。そのままぐいっと腕に力を込め、あたしのことを引っぱり上げる――。
「きゃっ」
華奢な体に似合わず、けっこうな力持ちだ。あやうくもう一度、彼女の胸のなかへ飛び込んでしまうところだった。
「あ、ありがとうございます……」
「すぐにお尻を消毒したほうがいいわね」
「え、なんで?」
「あら、知らないの? AV売り場の床には、病原菌がうようよしているのよ。淋菌、クラミジア、カンジダ菌、ケジラミ……」
「ふええっ!」
慌てて、ワンピの上からお尻をぱたぱたと払った。気色悪うっ、後で手も消毒しなくちゃ。
「そ、そんなの感染させられたら、もうお嫁に行けなくなっちゃいますうっ」
「バカね、冗談に決まってるでしょ」
「ああ……、冗談だったんですかあ」
あたしがほっと胸をなで下ろすと、こちらの目を覗き込むようにして、彼女が笑った。
「ふふ、あなたって素直な性格してるのね」
「えと……」
褒められたのか、はたまたバカにされているのか……?
「――良く言えば天真爛漫、悪く言うと単純明快、ってところかしら」
どうやら、さりげなくバカにしているらしい。
「じゃ、行きましょうか」
彼女はさっと身をひるがえすと、CDショップの出口めざして歩きはじめた。急いで床からカバンを拾い上げ小走りでその後を追う。
「あの……行くって、どこへ?」
「デネブ・カイトスよ」
「へ? でね……ぶー?」
「プレアデス星団にある二等星の名前なの」
うむむ……言ってることがさっぱり分からん。どこまでが冗談で、どこまでが本気なんだか……。
冷房の効いた店内から一歩外へ足を踏み出すと、鋭い夏の陽射しとともに再びうだるような暑さが襲いかかってきた。頭のてっぺんがちりちりと焼け、脇の下からどっと汗が吹き出す。どこか先のほうで道路工事でもしているらしく、渋滞して数珠つなぎになった車列から不快な排気ガスがとめどなく流れ出している。あたしは軽い立ち眩みのようなものを感じながら、目の前の横断歩道を渡った先にドーナツ店を発見し、すがるような思いで彼女に訊ねてみた。
「あ、あの、そこのドーナツ屋さんでなにか冷たいものでも飲みませんか? もちろん、あたしのおごりです」
すると卯月先輩はわずかに顔を振り向け、嬉しそうに言った。
「あら、あなたにもテレパシーを使う能力があったのね」
「へ? テレパシーですか」
「そうよ。ちょうど私も今、あの店へ強引にあなたを連れ込んで、あれこれ因縁つけては冷たい飲み物でもおごらせようか、なんて考えていたところなの」
「ひえー、なんでも好きなものご馳走しますから、因縁とかつけないでくださあい」
「うーん、どうしようかな……。あなたってちょっと被虐的な可愛らしさがあって、本能的につい虐めたくなっちゃうのよね」
「可愛らしいという言葉だけありがたく受け取っておきますので、どうかイジメナイでくださあい」
「一応、努力はしてみるわ」
フライングソーサーと書かれたその店の看板には、稚拙な絵でUFOとタコのお化けのような宇宙人が描かれていた。入り口のガラス戸をゆっくり押し開ける。甘ったるいドーナツとコーヒーの香りが肺のなかへ流れ込み、たちまち食べ盛りのお腹が化学反応をおこして、ぎゅるっと鳴った。見ると店内はそこそこ混み合っていたが、ちょうど高校生のグループが席を立つところだったので、入れ替わるようにしてそこを陣取った。
「卯月先輩は、なにがいいですか? あたしちょっと小腹がすいたのでチョコリングとかも食べますけど、先輩も飲みものだけじゃなく好きなものオーダーくださいね」
「あら、私の名前をご存知なのね? そういえば、あなたのそのバカっぽい喋りかた……どこかで聞いた覚えがあるわ」
「……あの、たぶん昨日の晩に電話でお話したんだと」
彼女は、ぽんと手を打った。
「あなた、昨夜電話してきたヨウスケのお友だちね。なんだ、それならそうと先に言ってくれれば良いのに。てっきり私のことを宇宙人だと勘違いしてるおかしな連中の仲間だと思ってたわ」
「そんな変なひとたちが、いるんですか?」
「ええ、MIBみたいにこそこそ私の後をつけ回して、カメラで隠し撮りしてくるのよ」
それって、ただのストーカーかパパラッチみたいなものなんじゃ……。
「ふふ……でもヨウスケが友だちを作るなんて珍しいわね」
「あの、あたし井上ゆみ子っていいます」
「私は、卯月千里よ。あなたには特別に、千ちゃんと呼ぶことを許可するわ」
「その許可今すぐ取り消してください」
なんだか変なひとだけど、思ったほど怖くないみたい。ほっと安堵の息をつく。美人のOLというささやかな妄想は消えてしまったけど、ヨウスケと瓜二つのお姉さんが同じがっこの先輩だったという事実をあらためて確認し、すっと心の晴れる思いがした。さっそく今晩メールでみんなに知らせなきゃ。上機嫌で微笑んでいると、彼女はホステスをからかう中年おやじのような視線をあたしに向けてきた。
「ふーん……なるほどねえ」
「な、なんですか? そんな、いやらしい目であたしを見ないでください」
「あなたって顔も可愛いけど、ほんと美しい足してるわね……。すらっと真っすぐに伸びていて肌もきれいだし、それでいて妙に扇情的というか肉感的で――」
「あはは、……それはどうも」
「知ってた? ヨウスケって筋金入りの足フェチなのよ」
「さ、さいですかー」
このひとは、いきなりなにを言い出すのやら。そんなちょー個人的な嗜好なんか知ってもあまり嬉しくない。
「ただあの子って小さいときから噛みぐせがあって、ぷにぷにとやわらかい肌を見ると無意識に歯を立ててしまうらしいの。だから、えっちするときなんか気をつけてね。下手をするとあなたの太ももやその可愛いお尻に、キスマークならぬ歯形がいくつも残ってしまいかねないから」
「は、恥ずかしいこと言わないでください! てか、女の子同士でえっちなんかしないと思います」
「あら、ヨウスケは男の子よ」
「え……」
さらっと言われてしまった。やはりニューハーフだったのか。あんなに可愛いのに。『ポップティーン』誌とかの紙面をにぎわしている人気モデルなみの美少女なのに。胸だって、あたしのよりずっと立派だし……。
そんな鬱屈した心情をあたしの顔から読み取ったのか、彼女が付け加えて言った。
「でも、まあ生物学的に言えばメスということになるのかしら。あはは、メスって言い方はないわね。でもまあ安心してちょうだい、体のほうは女性そのものだから」
かえって安心できませんけど。
「じゃあ、じゃあ、あのあの、ようするに、いわゆる……性同一性障害ってやつですか?」
「あら、難しい言葉を知っているのね。まあ、当たらずといえども遠からず、ってところかしら。私はあいにく病理学的な知識は持ち合わせていないから正確なところは分からないけど、あの子の場合、肉体と性自認が一致しないとかそういった問題じゃなくって、女の子の体のなかへ誤って男の魂がまぎれ込んでしまったという感じなの。うーん、ちょっと分かりづらいかな……」
「単純おバカなあたしの脳ミソでは理解不可能みたいです」
「まあいいわ。でもその男としての魂は、すっかりあなたに恋してしまっているらしいのよ。姉である私にはよく分かるの、あなたのことがとっても好きみたい。もちろん異性としてね……」
好き――とか言っちゃいましたか、本人より先に、お姉様の口から……。まあ、薄々感づいてはいたんだけど、てかあたしもヨウスケのこと好きだし、でも女の子だし。魂うんぬんは別として……。
「さてと……」
卯月先輩はメニューを手に取って眺めた。
「じゃあ遠慮なく、将来の義理の妹にご馳走してもらおうかしらね」
まだ結婚するとか決めてないし。というか戸籍上できないかもしれないし。
「そうねえ……フレンチクルーラーにココナツレイズド、ハニーディップ、エンゼルクリーム、あとベルリーナーとクラップフェンもいいわね、それとマダガスカルバニラに、えとせとら、えとせとら……と」
「え、えーっ! そんなにひとりで食べるんですかあ?」
「甘いものは別腹なのよ、いくらでも食べれちゃうの。ましてや他人のおごりだと、なおさらね」
「あは、あははは……」
ふと、昨日バイキングではしゃぎながら食べまくっていたヨウスケの姿が頭のなかをよぎった。さすが姉妹……いや姉と弟。
つづく……。