ゆみ子、宇宙人に連れ去られる
さっきから頭のなかで、映画『ピンク・パンサー』のテーマがくり返し流れている。こんなに緊張してドキドキするのって、沙織たちと高校入試の合格発表を見に行ったとき以来だ……。
あたしは、トラップだらけのダンジョンを探索する勇者一行なみの用心深さで、盛夏の干上がった舗装路をそろそろと踏みしめていた。ローファーの靴底がじゃりっと小石を噛むたび、心臓が口から飛び出しそうになる。こういう緊迫した雰囲気ってちょー苦手。気合いを入れれば入れるほど、あたしは決まってドジを踏む。そのため、いやが上にも動作が慎重になってくる。軽くにぎった手のひらがじっとりと汗ばんで気持ち悪い。ところが、こんなに気を張って歩いているにもかかわらず、その実あたしの足はまるでふわふわと雲の上を進んでいるような、そんな頼りない感覚を伝えてくるのだった……。
前方、約十メートルほどのところを、白いワンピースを着た女の子が歩いている。
ちっちゃくて可愛いベージュ色の革製リュックを肩に引っかけ、まるでパリコレのステージを周回する美人モデルみたいに優雅に足を運んでいる。
――卯月先輩。
あたしは、彼女が本当にヨウスケのお姉さんなのかを確かめるべく、放課後の校門わきで待ち伏せを試みた。例の、当たって砕けろの精神ってやつ。ところが、いざ数人の友だちに囲まれ楽しそうにおしゃべりしながらやってくる彼女を見て、どうにも声をかけるだけの勇気がわいてこなかった。もしかすると自分は、とんでもない見当違いをしているのではないか……そんな疑問が胸をよぎったからだ。
人待ちを装って立ちんぼうするあたしの目の前を、彼女は悠然と通り過ぎていった。緊張してちらっと見ることしかできなかったけど、やはりヨウスケとは別人のようだった。確かに似てはいるけど、ぜんぜん違うひと。人格を形成する根源的な部分があきらかに異なっていた。言い換えれば、まったく別の魂を持った存在ってこと。ほんの一瞬横顔をうかがっただけで、すぐにそのことが分かってしまった。ヨウスケじゃない。同時に、彼女が持つなにか得体の知れないパワーと言うか、抗いがたい魔力のようなものを感じて鳥肌が立った。
あの人すごく、変――。
どう例えたらいいか分かんないけど、むりやり表現するならば、ちょー豪華フルーツてんこ盛りトロピカルドリンクのその中身が、実は違法薬物を混ぜ合わせた幻覚剤入りカクテルだった、みたいな……。
――チャコちゃんの言った通り、きっとヤバいひとに違いない。
そう確信したにもかかわらず、あたしは彼女のあとを尾行した。いや、勝手に体が引き寄せられ、意思とは関係なく足が動いてしまったと言ったほうが正しいのかもしれない。まさに怖いもの見たさとゆーやつ。校門を出たところで彼女はバス停へ向かう数人の友だちと別れて、自分は通りを西へ向かって歩きはじめた。もしヨウスケの暮らすあのアパートへ帰るつもりなら一応方角としては合っている。まあ、徒歩で帰るにはちょっと遠いけど。
とにかく、それから彼女とあたしの尾行劇が始まったのだった。
しばらくすると途中まで彼女と一緒だった友人はひとりまたひとりと道を折れてゆき、やがてあたしの目の前には卯月先輩の華奢な後ろ姿だけが残った。つかず離れず……、優雅に歩く彼女の背中を懸命に追いかける。
おしゃれにスタイリングされたショートヘア、舞台女優のようにきりっと伸びた背筋、細い肩、小さなお尻、引き締まった足首……なにひとつとってみても完璧な後ろ姿。匂い立つような美少女であることに関しては、ヨウスケと比べて少しも引けを取らない。ぜったい姉妹に違いない。高まりつつある確信が胸を締めつけ、次第にじりじりしてくる。いっそ駆け寄ってストレートに訊いてやろうか。
あの、ひょっとしてヨウスケのお姉さんですか?
なに言ってんの、違うわよ。ってか、あんただれよ?
いや、あたしは、その……。
意を決しかね、まごまごしていると、彼女はテナントビルの一階にある自動ドアをくぐった。あたしも慌てて後を追った。そこは沙織たちともたびたび訪れたことのあるCDショップだった。駅前の量販店なんかに比べると規模は小さいけれど、いつも最新のヒットチャートばかり追いかけてるあたしたちにとっては、じゅうぶん過ぎるほどの品揃えがある。しかしそんなヒットソングには目もくれず、彼女は店の一番奥にあるクラシック音楽専門ブースへと向かった。他の売り場の喧噪をよそに、そこだけ別世界のように優雅な時間が流れている。タクトを振るどっかの国のちょー偉い指揮者のポスター。CDを収納するラックだって重厚な作りの木製のものを使用している。ここは、あたしにとってはまったくのトワイライトゾーン。沙織なんかはたまに覗いてるみたいだけど、あたしは一度だって足を踏み入れたことがない。そんな格調高い売り場で、卯月先輩は探しものをしているふうでもなく、ただぼんやりとCDを手に取って眺めていた。あたしはその様子を少し離れた場所からそっと盗み見た。もちろん気づかれないよう細心の注意を払う。クラシック音楽なんてぜんぜん興味ないけれど、不審に思われたら困るのでたまには商品を手に取ってみる。Chopin夜想曲集――。
「ちょ……ぴん? ってだれよ」
やはり身の丈に合わないことはするもんじゃないとやや後悔しつつ、CDを元に位置に戻す。そしてなにげなく顔を上げた瞬間、じーっとこちらを見つめる卯月先輩とばっちり目が合ってしまった。やばばばばい――。反射的に目を逸らす。冷や汗が背筋を伝い落ちる。まずったなあ、尾行してるのバレちゃったかも。目を閉じて心のなかでゆっくり数をかぞえる。いっち、にい、さん、しい……もういいかい? まあだだよ。さらに一呼吸おいて、あたしは恐る恐る目を開けた。
彼女の姿がなかった。
「あれ?」
きょろきょろと店内を見回す。卯月先輩はいつの間にかアニソンのコーナーにいた。テレポーテーションできるんかい。金魚のフンみたいにびったり後を付いて回るわけにもいかず、どうしようかと考えあぐねていると、カーテンで厳重に仕切られた薄暗いブースを発見した。ちょうどそこからは彼女の位置がよく見渡せるし、逆にカーテンに遮られて向こうからはこっちの姿が見えない。これぞまさしく、べすとぽいんと。
しめしめ……。
気づかれないよう、カーテンの奥へそろりともぐり込む。
アダルトビデオのコーナーだった。
月間売れ筋トップワンは、『衝撃、ブルマー女子高生がキャットファイットで大乱闘』だった。
ななな、なによ、ここーっ!
驚いて髪を逆立てていると、そこにいた数人のおっさんが一斉にこちらを振り向いた。全員目のなかで無数の星がきらきら輝いている。無理もない、えっちビデオを物色しながら、あーでもない、こーでもないと妄想を膨らませているところへ、あたしみたいな可憐な美少女がいきなり舞い込んできたのだから。しかも、しゃがんだらパンツ見えそうなくらいミニ丈のワンピを着てるし。これはもう、腹を空かせた野良猫の群にカツオブシを投げ入れるようなものだ。ひえええっ。好色そうな視線を一身に浴び、あたしは大慌てでそこを飛び出した。
死ねっ、バカっ、えっち、変態っ、女の敵っ!
どん――。
カーテンをくぐり抜けたはずみに、だれかとぶつかった。
「きゃあ、ごめんなさい」
卯月先輩だった。
「げ……」
どうやらあたしが飛び出してくるのを事前に察知していたらしく、その細い体でしっかりと抱き止めてくれた。
もうバカバカ、あたし先輩のこと一生離さないからっ!
端から見れば、そんなセリフが似合いそうな場面だけれど、でも実際は大違い。ちょー大ピンチの構図なのだ。
「あわわわ」
驚いて彼女の腕から逃れようとしたけど、両手でがっちりと肩をつかまれて動けない。おまけに真正面から見つめられ、もう蛇に睨まれたカエル状態。あたしは身動きも取れないまま、しだいに彼女の美しい瞳に飲み込まれていった。
「あ、あの……」
じっとしてたら取って食われるかもしれないとなかば本気で思い、おっかなびっくり声を掛けてみる。すると彼女は上品でいながらもどこか凄みのある笑みを浮かべてこう言った。
「だれから聞いたの?」
「へ?」
「私が宇宙人だってこと、だれに教えてもらったの?」
「宇宙人……なんですか?」
「そう思ったから後をつけてきたわけでしょう?」
どうやら彼女とのあいだに、なにかとんでもない誤解が生じているらしい。ここはひとつ全力で否定しなければならない場面だと思い、あたしは鼻水が出るほど勢いよく首を左右に振ってみせた。ぶるんぶるん――。
「あらら、なんだ違うの……」
「ち、違いますよ。そんな宇宙人だなんて」
そこでようやく彼女は、あたしの肩から手をはなしてくれた。全身の力が抜けて、へろへろとその場に座り込んでしまう。お尻がぺたんと床について冷たいリノリウムの感触を味わった。そうしながらもあたしは彼女から視線を逸らすことができず、まるでキリスト像に向かって祈りを捧げる敬虔なクリスチャンみたいに眩しそうにその顔を見上げていた。どうかご慈悲を、あーめん。
そんなあたしを尊大に見下ろし、彼女は小首をかしげながら言った。
「じゃあ私に、なんのご用かしら?」
「あの……ですね」
あたしは途方にくれた。
つづく……。