第9話 悪役聖女と辺境の騎士
アンスバッハ邸を出た後の記憶は、ひどく曖昧だ。
馬車に揺られる単調な振動が、子守唄のように意識を刈り取りに来る。瞼が鉛のように重い。聖女の力を使った代償だろう、身体の芯が凍えるように冷たく、指一本動かすのすら億劫だった。
(もう無理……帰りたい……寝たい……)
脳内で、元社畜の私が泣き言を繰り返す。今すぐこの馬車をリディアの屋敷に向けさせ、温かいベッドで泥のように眠りたい。
だが、それはできない。ここで休んでしまえば、今夜の努力が、クロードの信頼が、全て水泡に帰すかもしれない。私は、かろうじて意識を繋ぎ止めながら、次の相手について思考を巡らせた。
ライナー・フォン・ヴァイト辺境伯令息。彼の領地を蝕む『枯葉病』。
ゲームの知識によれば、あれは人ではなく、土地そのものにかけられた呪いだ。エリーゼの呪いとは、根本的に性質が違う。
問題は、ライナー自身の行動にある。彼は領民を想うあまり、自らの生命力を魔力に変換し、たった一人で広大な土地を浄化しようと試みていた。その無謀な自己犠牲が、彼の身体を内側から蝕んでいる。彼の身体が、今や呪いの病巣そのものなのだ。
やがて馬車は、貴族街の華やかさから少し離れた、質実剛健な宿舎の前で止まった。
扉を開けると、そこに彼がいた。腕を組み、壁に寄りかかるようにして、ライナーが私を待っていた。
夜会の時と同じ険しい表情。だが、琥珀色の瞳の奥に、隠しきれない焦燥が揺らめいているのを、私は見逃さなかった。
「……本当に来たか」
彼は、私を値踏みするように見つめながら、中へ入るよう顎で示した。
通された部屋は、彼の人柄をそのまま映したように、実用的で、無駄な装飾が一切なかった。テーブルと数脚の椅子、壁にかけられた領地の地図。それだけだ。
椅子に座ることを勧められたが、私は首を横に振った。今座れば、二度と立てなくなる気がしたからだ。
「聖女様。単刀直入に聞く」
ライナーが、切り出した。
「一体、何をご存知なのだ。『枯葉病』のことを、なぜ知っている」
「知っている、ではありませんわ」
私はゆっくりと顔を上げ、彼の瞳をまっすぐに見据えた。
「わたくしには、視えるのです。あなたのことも、あなたの故郷のことも」
聖女らしい、神秘的なハッタリをかます。疲労で意識が朦朧としているのが、逆に幸いしているかもしれない。そのせいで、私の表情は人間味を失い、まるで人形のように見えているはずだ。
ふらり、と一歩、彼に近づく。彼の硬い胸当てに、そっと手のひらを当てた。驚いた彼が、息を呑むのが分かった。
「……あなたの身体は、もう限界ですわ」
私の言葉に、ライナーの肩が微かに震える。
「民を思うあなたの心は、誰よりも尊い。けれど、あなた自身が枯れ木となって倒れてしまっては、元も子もありません」
「な……ぜ、それを……」
誰にも話していないはずの、己の限界。それを正確に指摘され、彼の声が揺れる。
「あなたのその身体が、もはや病巣そのものと化している。わたくしが浄化すべきは、あなたのその、歪んでしまった自己犠牲の心です」
私は彼から手を離し、宣告した。
ライナーは、しばらく黙り込んでいた。己の無力さを噛み締めるように、固く拳を握りしめている。やがて、彼は顔を上げ、決意を秘めた目で私を見た。
「……わかった。あんたを信じよう。だが、もし俺の民を救えないのなら……」
「案ずるな、とは言いませんわ」
私は、彼の言葉を遮った。
「ただ、わたくしを信じなさい」
悪役聖女らしく、傲岸に。しかし、有無を言わせぬ力強さを込めて。
私は、震える腕を上げた。二度目となる、聖女の権能の行使。ただでさえ空っぽの身体から、さらに生命力が吸い上げられていく感覚に、くらりと眩暈がした。
「《聖域穿孔》!」
呪文と共に、視界が白く染まる。クロードの時とは違う、激しい抵抗感。まるで、荒馬をねじ伏せるような感覚。そして。次に目を開けた時、私は、荒れ果てた大地の上に立っていた。
空は赤黒い雲に覆われ、乾いた風が砂塵を巻き上げる。枯れた木々が、墓標のように点在し、ひび割れた大地がどこまでも続いている。エリーゼの精神世界にあった、湿った洞窟とは何もかもが違う、絶望的なまでに乾いた荒野。
これが、ライナーの心。彼の故郷の写し身。
その時、地平線の彼方から、地響きが聞こえてきた。
ゆっくりと近づいてくる、巨大な影。それは、枯れ木や、ひび割れた岩石、乾いた土塊が集まってできた、巨大なゴーレムだった。土地の怒りと、彼の絶望が具現化した姿。
私は、そのあまりに巨大で、荒々しい姿を前に、呆然と呟いた。
「……今度の相手は、これ、ですの……」
悪役聖女の二つ目の戦いが、静かに幕を開けた。