第6話 悪役聖女と呪いの迷宮
目を開けた先にあったのは、現実離れした光景だった。
ごつごつとした岩肌が、どこまでも続く洞窟。天井からは鋭い鍾乳石が牙のように垂れ下がり、ぽつり、ぽつりと冷たい雫が石畳に落ちて音を立てている。ひんやりと湿った空気が肌を撫で、カビと土の匂いが鼻をついた。
(うわ……マジのダンジョンだ……)
ゲーム画面で見ていた景色が、今、目の前に広がっている。恐怖よりも先に、元ゲーマーとしての興奮が湧き上がってくるのを止められない。
ふと、自分の姿に違和感を覚えて視線を落とす。夜会用の窮屈な深紅のドレスは、どこにもなかった。
代わりに身にまとっているのは、白を基調とした、動きやすそうな聖女の戦闘服。胸元にはリディアの家門であるクレスメント家の紋章が銀糸で刺繍されている。
そして、右手には、白銀に輝く杖が握られていた。先端に光の水晶が埋め込まれた、鈍器としても使えそうな儀式用のメイス。ゲームでのリディアの初期装備だ。
(なるほど。このダンジョンの中では、自動で最適化されるってことね)
状況を把握したところで、私は杖を握り直し、一歩前へ踏み出した。遠くから、獣の呻き声のような、気味の悪い音が反響して聞こえてくる。
ゲームの記憶が正しければ、このダンジョンは「悲嘆の洞窟」。エリーゼの心の苦しみが、そのまま迷宮を形作っている。ならば、私のやるべきことは一つ。この最奥にいるボスを倒し、彼女を解放することだ。
洞窟の中は、思った以上に暗く、道も入り組んでいた。自分の足音と、壁を伝う水滴の音だけがやけに大きく聞こえる。
その時、前方の暗闇が、もやりと揺らめいた。黒い霧のようなものが集まり、人の形を成していく。はっきりとした目鼻はない。ただ、その姿全体から、深い悲しみと怨嗟の念が溢れ出していた。
(出たな、最初のモンスター!)
「嘆きの霊」。物理攻撃が効きにくい、序盤の厄介な敵だ。
心臓がどきりと跳ねる。ゲームじゃない。本物のモンスター。嘆きの霊は、金切り声のようなものを上げながら、こちらへ滑るように近づいてくる。ひやりとした悪寒が背筋を駆け上った。
……怖い。でも、ここで立ち止まるわけにはいかない。
私は杖をぐっと握りしめる。不思議と、身体は次にとるべき行動を知っていた。まるで、何度も繰り返した動作のように、自然に杖を構える。
「浄化の光よ、悪しきを穿て!」
叫ぶと同時に、杖の先端にある水晶がまばゆい光を放った。
「《聖光撃》!」
光の弾丸が、一直線に嘆きの霊へと飛んでいく。霧の身体に直撃した瞬間、甲高い悲鳴が上がり、モンスターは光の粒子となって霧散した。
跡には何も残らない。ただ、よどんでいた周囲の空気が、ほんの少しだけ澄み渡ったような気がした。
「……はぁ、はぁ……」
荒い息をつく。初めての、本物の戦闘。足が少し震えていた。でも、勝てた。
リディアのこの力は、ただ魔力を違反した者を断罪するだけの、冷たい力じゃない。苦しみそのものを打ち破り、蝕まれた場所を浄化する力なんだ。そのことを、この身をもって理解した。
それからは、ゲームの知識が面白いように役立った。
「確か、この先の通路は床が抜ける罠があったはず。右の壁沿いを進めば回避できる」
「あの岩の陰には、回復効果のある光苔が生えているはずだわ」
内心の記憶と独り言を頼りに、私は迷宮の奥へ奥へと進んでいく。何度かモンスターとの戦闘を繰り返すうちに、リディアの身体の使い方にも慣れてきた。恐怖はまだある。でも、それ以上に、エリーゼを救いたいという気持ちが勝っていた。
やがて、道はひときわ開けた空間へと繋がった。
ドーム状になった、広大な空洞。その中央に、巨大な茨でできた玉座が鎮座していた。そして、その玉座に、一体の騎士が座っている。
全身を漆黒の鎧で覆い、その隙間からは紫色の不気味なオーラが漏れ出している。手には、巨大な両手剣。その姿は、絶望という概念そのものが形を成したかのようだった。
「絶望の騎士」。
この「悲嘆の洞窟」の主にして、エリーゼの心を蝕む呪いの根源。
騎士が、ゆっくりと顔を上げた。兜の奥で、二つの赤い光が私を捉える。
『ナゼ……我ラノ安息ヲ……妨ゲル……』
地響きのような、重い声。それは、機械音のようでもあり、少女の悲鳴のようでもあった。
(ラスボスのお出ましね……! コンティニュー不可、セーブポイントなし! これ、死んだらどうなるの!?)
内心は、最大級のパニックだ。冷や汗が背中を伝う。それでも、私は一歩も引かなかった。杖を強く握りしめ、黒い騎士をまっすぐに見据える。
「安息ですって? 笑わせないで。これは、あの子の心を蝕む、ただの呪いでしかないわ」
私の声が、空洞に凛と響く。
「あなたの絶望、わたくしが打ち砕いてあげる!」
言葉と同時に、私は地面を蹴った。最後の戦いの火蓋が、今、切って落とされる。