第3話 悪役聖女と二つの約束
クロードを呆然とさせたまま優雅に踵を返した。
何事もなかったかのように、扇でゆるりと顔をあおぐ。周囲の囁き声が、さっきよりも熱を帯びているのが肌で分かった。
「おい、見たか?」「アンスバッハ卿、顔面蒼白だったぞ」「いったい何を……」
好奇と警戒の視線が背中に突き刺さる。痛い。すごく痛い。
(怖かった……! 心臓、まだバックバクいってる!)
内心の悲鳴を完璧なポーカーフェイスの下に隠し、私はホールの喧騒をやり過ごす。これで、一つ目の布石は打てた。
クロードは今夜、私を待つだろう。妹を救いたい一心で、この怪しげな取引に乗るはずだ。
ちらり、と視線を上げると、ホールの中心にいるアルフォンス王太子と目が合った。彼の隣に立つヒロインが、心配そうにこちらを見ている。王太子本人は、眉間に深い皺を刻み、あからさまな不審の色を浮かべていた。
いい傾向だ。ただの「冷酷な女」から、「何を考えているか分からない不審な女」にランクアップしたらしい。私の行動が、ほんの少し、彼の想定を乱した証拠だ。
だが、まだ足りない。今夜の断罪劇で、私を糾弾する主要メンバーはクロードだけではない。もう一つ、大きな破滅フラグを折っておく必要がある。
私は次のターゲットを探す。
いた。壁際のテーブルから少し離れた場所で、一人腕を組み、苦虫を百匹ほど噛み潰したような顔で佇む青年。ライナー・フォン・ヴァイト辺境伯令息。
日に焼けた肌、鍛え上げられた体躯は、貴族の夜会服よりも武骨な鎧のほうが似合いそうだ。華やかな場に馴染む気などない、と全身で語っている。
彼は、自身の領地を蝕む『枯葉病』から民を救うため、禁じられた魔力貯蔵に手を染めた。質実剛健で、領民からの信頼も厚い男。だが、それゆえに不正を許さず、苛烈な取り締まりを行うリディアを蛇蝎のごとく嫌っている。彼もまた、断罪者の一人だ。
よし、次は彼だ。そう覚悟を決めて一歩踏み出した瞬間、きゅう、と腹の虫が鳴った。
(……そういえば、転生してから何も食べてない)
緊張で忘れていたが、身体は正直だ。まずは腹ごしらえが先決だろう。戦は腹が減ってはできぬ、と前世の上司もよく言っていた。
私は進路を変更し、料理がずらりと並んだテーブルへと向かう。私が近づくと、テーブルの周りにいた貴族たちが、モーセの前の海のようにさっと道を空けた。おかげで、豪華な料理が並ぶテーブルは、私一人の貸切状態だ。
(これはラッキー!)
内心でガッツポーズしながら、皿を手に取る。色鮮やかなテリーヌ、宝石のように輝く魚介のマリネ、そして分厚く切られたローストビーフ。
銀のフォークで一片を口に運ぶ。
(……おいしい!)
柔らかい肉質、噛むほどに溢れる上質な脂の甘み。濃厚なソースが舌の上でとろける。空腹は最高のスパイスとはよく言ったものだ。タダ飯だと思うと、なおさら美味しく感じる。庶民の悲しい性かもしれない。
. 周囲の目も忘れて夢中で数品を平らげ、喉の渇きをジンジャーエールで潤す。よし、充電完了だ。
私は皿をテーブルに置き、再びライナー辺境伯令息へと向き直った。彼はまだ、同じ場所で苦い顔をしている。
すぅ、と息を吸う。これから会うのは、クロード以上に私への敵意が強い相手だ。覚悟を決めろ、私。
私の接近に気づいたライナーは、あからさまに顔をしかめた。その琥珀色の瞳が、隠そうともしない敵意に燃えている。
「聖女様。今度は俺に何か御用か」
喧嘩腰だ。今にも掴みかかってきそうな気配すらある。
「不正の証拠でも見つかったと、報せに来てくれたのか?」
皮肉たっぷりの言葉。彼の周囲の空気までが、ピリピリと張り詰めている。私は動じない。リディアの仮面は、こういう時にこそ役に立つ。扇で口元を隠し、一歩、彼の懐へ。
「あなたの領地を蝕む病のことです」
囁いた声は、きっと彼にしか届いていない。ライナーの猛禽のような瞳が、驚きに揺れた。
「……なんだと?」
「『枯葉病』。そう呼ばれているのでしょう?」
決定的な一言。辺境で静かに広がっているその病の、正式名称ですらない通称。それを、王都にいる聖女リディアが知るはずがない。
ライナーの顔から、血の気が引いていくのが見えた。敵意は消え去り、代わりに純粋な驚愕と動揺が浮かんでいる。彼はクロードよりも、ずっと感情が分かりやすい。
「なぜ、その名を……」
「聖女ですから」
私は、先程クロードに使ったのと同じ言葉を繰り返す。便利な言葉だ、聖女。
何か言い返そうと口を開くライナーを、そっと扇で制した。これ以上、ここで話すことはない。
「今宵、アンスバッハ家の次に、あなたの宿舎へ参ります」
「なっ……!?」
「民を思う、あなたの覚悟を見せなさい」
それだけを言い残し、私は彼に背を向けた。後ろでライナーが息を呑む気配がする。きっと、彼は私の言葉の意味を測りかねて、立ち尽くしていることだろう。
(よし、二人目もアポ取り付け完了! でも、やり方が完全に悪役令嬢の脅迫ムーブ……! 私の評判、もはや底辺を突き抜けて地核に達してない!?)
内心のパニックとは裏腹に、私の足取りはあくまでも冷静で、優雅だ。
ふと視線を感じて顔を上げると、アルフォンス王太子とその一団が、今度は明確な警戒の色を目に浮かべて、こちらを凝視していた。
ただの軽蔑や不審ではない。得体の知れないものを見る目。氷のようだった断罪のシナリオに、小さな亀裂が入った音を聞いた気がした。